山本文博とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 山本文博の意味・解説 

山本文博

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/15 15:33 UTC 版)

山本 文博
基本情報
国籍 日本
出身地 愛媛県
生年月日 (1955-08-26) 1955年8月26日(69歳)
身長
体重
170 cm
69 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴

山本 文博(やまもと ふみひろ、1955年8月26日 - )は、愛媛県出身の元アマチュア野球選手(内野手)である。

人物・来歴

八幡浜高等学校では1972年秋季四国大会県予選決勝に進むが、今治西高矢野隆司に完封負けを喫する。今治西高とともに秋季四国大会に出場するが、1回戦でエース植上健治を擁する高松商に大敗。翌1973年夏の甲子園県予選は準決勝で西条高に敗退。

駒澤大学に進学。東都大学野球リーグでは在学中6回の優勝を経験、1977年には春秋季リーグ連続で首位打者となり、両季ともベストナイン(二塁手)に選出されてリーグ連続優勝に貢献する。同年の第26回全日本大学野球選手権大会でも優勝を果たし、第6回日米大学野球選手権大会日本代表となった。大学同期にエースの尾藤福繁三塁手渡部一治、1年下に遊撃手石毛宏典がいた。

卒業後は社会人野球北海道拓殖銀行に入社。1978年都市対抗新日本製鐵室蘭に補強され、遊撃手として出場。準々決勝に進むが東芝黒紙義弘に抑えられ敗退[1]。この大会では若獅子賞を獲得した。同年の社会人野球日本選手権は決勝に進出、東京ガスのエース松沼博久の好投に苦しむが0-1で辛勝、初優勝を飾る[2]。この大会では優秀選手賞を獲得した。同年のアマチュア野球世界選手権日本代表となり、社会人ベストナイン(遊撃手)にも選出される[3]。その後も中心打者として活躍を続け、1987年都市対抗では10年連続出場選手として表彰を受けた[1]

現役引退後は室蘭大谷高校、道都大学監督を歴任し、札幌国際大学で監督を務める。

脚注

  1. ^ a b 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  2. ^ 「社会人野球日本選手権大会20年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1994年
  3. ^ 「日本社会人野球協会会報1978」日本社会人野球協会 1979年

関連項目




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  山本文博のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「山本文博」の関連用語

山本文博のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



山本文博のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの山本文博 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS