1991年の日本ハムファイターズ (1991ねんのにっぽんハムファイターズ)では、1991年の日本ハムファイターズ の動向をまとめる。
このシーズンの日本ハムファイターズは、近藤貞雄 監督の3年目のシーズンである。
概要
当年及び近年のシーズン成績
年
成績
リーグ
勝
敗
分
率
平均得点
平均失点
開幕時監督
1991
レギュラー敗退
4位
53
72
5
.424
1990
レギュラー敗退
4位
66
63
1
.512
1989
レギュラー敗退
5位
54
73
3
.425
1988
レギュラー敗退
3位
62
65
3
.488
1987
レギュラー敗退
3位
63
60
7
.512
1986
レギュラー敗退
5位
57
65
8
.467
1985
レギュラー敗退
5位
53
65
12
.449
1984
レギュラー敗退
6位
44
73
13
.376
1983
レギュラー敗退
3位
64
59
7
.520
1982
プレーオフ敗退
2位
67
52
11
.563
1981
日本シリーズ敗退
優勝
68
54
8
.557
前年と違って新戦力の投入もほとんどなく、開幕前の下馬評では「Aクラスは無理」という声がささやかれた。その予想通り、チームは5月まで3位と健闘するが6月に大きく勝ち越したダイエー に抜かれて4位に転落する。その後は開幕から低迷したオリックス が夏場から復調したこともあり、9月以降は完全にBクラスに定着。この年ロッテ が最下位に沈んだこともあり終盤はダイエーとの4位争いとなったが、これに勝って5位転落は免れた。投手陣は大黒柱のエース西崎幸広 が内転筋の怪我に苦しみながらもなんとか10勝を挙げ、柴田保光 、2年目の酒井光次郎 もローテーションを守り、前年から守護神の武田一浩 も安定した成績を収めるなど健闘して防御率は3.72とリーグ3位。打撃陣では切り込み隊長の白井一幸 が打率3割をマークしたほか、前年から4番のマット・ウインタース 、前年2000本安打を達成した大島康徳 、主砲の田中幸雄 などが活躍したが本塁打は112本でリーグ5位に終わり、打率も.251の最下位と低迷した。投手陣の好投に打線が応えられず、貧打や接戦で負ける試合も多くシーズン負け越しの原因となった。結局3年間でAクラス入りすることなく、近藤監督は66歳の高齢もあって勇退した。後任には、OBで1973年 の後期に監督を務めた土橋正幸 が再び就任した。
レギュラーシーズン
[ 2]
1991年パシフィック・リーグ順位変動
順位
4月終了時
5月終了時
6月終了時
7月終了時
8月終了時
最終成績
1位
西武
--
西武
--
西武
--
近鉄
--
近鉄
--
西武
--
2位
近鉄
3.0
近鉄
7.0
近鉄
4.0
西武
1.5
西武
1.5
近鉄
4.5
3位
日本ハム
3.5
日本ハム
ダイエー
7.5
日本ハム
10.5
オリックス
15.5
オリックス
18.5
4位
ロッテ
4.0
ダイエー
10.5
日本ハム
10.0
ダイエー
12.5
ダイエー
19.0
日本ハム
28.5
5位
ダイエー
5.0
ロッテ
11.5
オリックス
12.0
オリックス
14.0
日本ハム
19.5
ダイエー
29.0
6位
オリックス
8.5
オリックス
15.0
ロッテ
20.0
ロッテ
23.5
ロッテ
30.0
ロッテ
33.5
[ 1]
オールスターゲーム1991
田中幸雄
武田一浩
田村藤夫
白井一幸
ウインタース
西崎幸広 (出場辞退)
できごと
選手・スタッフ
監督
コーチ
二軍監督・コーチ
投手
捕手
内野手
外野手
表彰選手
ドラフト
脚注
注釈
出典
1940年代
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
1946年の公式戦再開に先立って、1945年は終戦後開催の東西対抗戦にセネタースの選手が参加。