ビル・ベイス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/14 06:31 UTC 版)
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オークランド・アスレチックス時代
(1987年) |
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基本情報 | |
---|---|
国籍 | ![]() |
出身地 | カリフォルニア州ダウニー |
生年月日 | 1960年10月14日(60歳) |
身長 体重 |
6' 2" =約188 cm 200 lb =約90.7 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 捕手、一塁手、外野手、指名打者 |
プロ入り | 1981年 MLBドラフト8巡目 |
初出場 | MLB / 1986年4月12日 NPB / 1991年4月6日 |
最終出場 | MLB / 1990年10月3日 NPB / 1992年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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ウィリアム・デビッド・ベイス(William David "Bill" Bathe , 1960年10月14日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州出身の元プロ野球選手(捕手、内野手)。1991年~1992年まで日本ハムファイターズに所属し、主に指名打者として出場した。
来歴・人物
1980年のMLBドラフト10巡目でピッツバーグ・パイレーツに指名されるも、入団を拒否。翌1981年のMLBドラフト8巡目でオークランド・アスレチックスに指名され契約。1986年、メジャー初昇格。
翌1987年にシカゴ・カブスに移籍するも、メジャーでの出場はなく、1989年にサンフランシスコ・ジャイアンツに移籍。同年、メジャー再昇格。
アメリカではマイナー、メジャーともに捕手として試合に出場した。
トニー・ブリューワに代わる右の大砲として1991年に日本ハムファイターズに内野手として入団。マット・ウインタースと共に中軸に据えられるが、シーズン終盤は代打要員としての出場が中心となった。翌1992年は新たに獲得されたマイク・マーシャルとの併用に終始し、10月に2人揃って退団した。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1986 | OAK | 39 | 112 | 103 | 9 | 19 | 3 | 0 | 5 | 37 | 11 | 0 | 0 | 6 | 0 | 2 | 0 | 1 | 20 | 2 | .184 | .208 | .359 | .567 |
1989 | SF | 30 | 33 | 32 | 3 | 9 | 1 | 0 | 0 | 10 | 6 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 7 | 0 | .281 | .273 | .313 | .585 |
1990 | 52 | 56 | 48 | 3 | 11 | 0 | 1 | 3 | 22 | 12 | 0 | 0 | 0 | 1 | 7 | 2 | 0 | 12 | 2 | .229 | .321 | .458 | .780 | |
1991 | 日本ハム | 116 | 448 | 407 | 31 | 101 | 18 | 0 | 16 | 167 | 41 | 1 | 1 | 0 | 3 | 34 | 2 | 4 | 67 | 10 | .248 | .310 | .410 | .721 |
1992 | 40 | 131 | 115 | 7 | 22 | 3 | 2 | 0 | 29 | 11 | 1 | 0 | 0 | 1 | 15 | 0 | 0 | 32 | 4 | .191 | .282 | .252 | .535 | |
MLB:3年 | 121 | 201 | 183 | 15 | 39 | 4 | 1 | 8 | 69 | 29 | 0 | 0 | 6 | 2 | 9 | 2 | 1 | 39 | 4 | .213 | .251 | .377 | .628 | |
NPB:2年 | 156 | 579 | 522 | 38 | 123 | 21 | 2 | 16 | 196 | 52 | 2 | 1 | 0 | 4 | 49 | 2 | 4 | 99 | 14 | .236 | .304 | .375 | .679 |
記録
- NPB
- 初出場・初安打 1991年4月6日 対近鉄戦(藤井寺) 5番・DHで先発し、4打数1安打
- 初本塁打・初打点 1991年4月9日 対ロッテ戦(東京D) 2回に前田幸長から左越ソロ
背番号
- 8 (1986年、1991年 - 1992年)
- 18 (1989年 - 1990年)
関連項目
外部リンク
- 選手の通算成績と情報 Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube
ビルベイス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/02 05:04 UTC 版)
ビルベイス
بلبيس
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座標:北緯30度25分18秒 東経31度33分33秒 / 北緯30.42167度 東経31.55917度 | |
国 | ![]() |
県 | シャルキーヤ県 |
面積 | |
• 合計 | 337.0 km2 |
標高 | 12 m |
人口
(2021)[1]
|
|
• 合計 | 866,246人 |
• 密度 | 2,600人/km2 |
等時帯 | UTC+2 (EET) |
ビルベイス(英語: Bilbeis、アラビア語: بلبيس, コプト語ボハイラ方言:Ⲫⲉⲗⲃⲉⲥ/Ⲫⲉⲗⲃⲏⲥ ローマ字転記:Phelbes/Phelbēs フェルベース)は、エジプトのシャルキーヤ県にある都市である。ナイル川デルタ南部の東の縁にあり、古代からの要塞都市でもあった。
ビルベイス市の市街地は比較的小さいが、人口は密集しており40万人を超える。市街地の北方にはナイル川の分流が流れ、南方にはスエズ運河とカイロを結び真水を運河沿いの諸都市に送るイスマイリア運河も流れる。市街地の北側と西側はナイル川デルタの農村だが、東と南は灌漑農業が行われる台地になっており、現在はさらに南の砂漠に首都圏のニュータウンであるオブール市、ラマダン10日市、ニューカイロ市、新行政首都などが広がっている。
市街地の南東にはエジプト空軍の基地および空軍士官学校がある。
歴史


ビルベイスは古代ローマ時代にはすでに重要都市であり、古代キリスト教の司教座も置かれていた。 ローマ・カトリック教会は現在でもビルベイスに名義司教座(フェルベス司教座、bishopric of Phelbes)を置いている。コプト正教会の伝統では、聖家族がエジプトへの逃避の際に立ち寄った場所の一つがビルベイスであるとされる[2]。
ビルベイスはシリアとエジプトを結ぶ道の途上にあり、隊商による交易が栄えたほか、東方からの侵入者の進軍路ともなってきた。640年にはイスラム教を奉じるアラブ人が東ローマ帝国領のエジプトに侵入し、アムル・イブン・アル=アースの軍勢がビルベイスを包囲・占領した。ビルベイス市内のサダト・クライシュ・モスクはこの年にイブン・アル=アースが築いたエジプト最古のモスクともいわれる。ムスリムの伝統では、ムハンマドと文通したエジプトの支配者アル=ムカウキスの娘アルマヌサがビルベイスに住んでいたといわれる[3]。727年にはアラブ人のカイス族の人々がこの地に入植し、カイロを守る要塞網を建設した[4]。
ファーティマ朝の末期、内戦への介入を求められてシリアからエジプトに攻めてきたシール・クーフは、1164年にエジプト退去を拒んでビルベイスに籠城したが、宰相シャーワルとエルサレム王国国王アモーリー1世の連合軍に包囲されて退却した。1168年にはアモーリー1世の軍がエジプトを攻め、11月4日にビルベイスは陥落して住民が虐殺された[5]。この事件でファーティマ朝におけるアモーリーへの反感が増し、最終的にアモーリーはエジプトから退却し、シャーワルを殺して新たな宰相についたサラディンによりエルサレム王国は圧迫されることになる。
脚注
- ^ a b c “Bilbays (Markaz, Egypt) - Population Statistics, Charts, Map and Location”. citypopulation.de. 17 March 2023閲覧。
- ^ “Bilbeis”. ccdl.claremont.edu. 2025年1月19日閲覧。
- ^ “Amr ibn al-Aas” (デンマーク語). Encyclopedia.. 2025年1月19日閲覧。
- ^ “Bilbays | Egypt | Britannica”. www.britannica.com. 2025年1月19日閲覧。
- ^ Crusades mmdtkw.org
外部リンク
- ビル・ベイスのページへのリンク