破壊と廃墟化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 14:58 UTC 版)
1100年代中葉、ファーティマ朝のカリフは、10代のアーディドであった。しかし、アーディドの地位はあくまでも儀礼上だけのものに過ぎず、実権は宰相シャーワルが保有していた。シャーワルは、キリスト教勢力及びシリアのカリフであるヌールッディーンの勢力をエジプトから排除するように努めてきた。シャーワルの努力が、エジプトをこの2つの勢力の軍事的成功を妨げてきたと言って良い。 しかし、1168年、エルサレム王国国王アモーリー1世が十字軍の勢力範囲を拡大するために、エジプトへの侵攻を開始した。ついには、アモーリーのエジプト侵攻は、成功に終わり、アモーリーの軍隊は、ナイル川河畔の要塞都市ビルベイス(en)を攻略し、ビルベイスの住民を大量虐殺すると、その軍隊は、フスタートへの進軍を開始した。アモーリーとその軍隊は、フスタートの南方で宿営を開始し、当時18歳のカリフであったアーディドにフスタートの降伏あるいはフスタートをビルベイスの不幸の再来とどちらを選択するかという書簡を送った。アモーリーの攻撃が切迫していた状況を見た宰相シャーワルは、アモーリーの軍隊を撃退するために、フスタートに火を放つことを命令した。 シャーワルの命令により、フスタートは灰燼と化した。その後、シリアより軍隊が到着し、アモーリーの軍隊を追い払うことに成功した。しかし、このシリアの軍隊は、そのまま、エジプトに駐屯し、ファーティマ朝は滅亡した。その後のエジプトは、ヌールッディーンの甥であるサラーフッディーンが統治することとなった。アイユーブ朝の始まりである。 アイユーブ朝時代には、経済の中心もフスタートの北にあるカイロに移った。サラーフッディーンはカイロとフスタートを1つの都市とすべく、城壁の建設を試みたが、その試みは失敗に終わった。 マムルーク朝時代には、フスタートの地区は、それでもなお数千人規模のコミュニティを維持していたが、ゴミ捨て場として使用されるようになり、徐々に、その人口を減らしていくことと反対に、ゴミは数百年の間、積み上げられていった。
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