破壊と殺戮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 18:53 UTC 版)
“モンゴル軍は鳩の飛行を攻撃する飢えたハヤブサのように都市を貫き、荒れ狂う狼が羊を襲うように市民を襲った。黄金づくりの宝石で覆われたベッドやクッションはナイフで破壊され、断片さえも粉砕された。ハーレムのベールに隠れる者は路地に引きずられ、陵辱された。一方的な殺戮によって市民は死に絶えた。”―――ワッサーフ(歴史家のベルトルト・シュプーラーによる引用) 多くの歴史的記述がモンゴル軍の残虐行為を詳述している。バグダードの市民は逃げようとしたがモンゴル軍に捕らえられ、女は幼児から老婆に至るまで徹底的に強姦され、子供から老人に至るまでことごとく虐殺された。14世紀の歴史家ワッサーフは「死者は数十万人であった」と記述している。ニューヨーカー誌のイアン・フレイザーは「20万人から100万人に及ぶ死者を計上した」と記している。20万から80万人、また200万人とするものもある。 モンゴル軍は市街を蹂躙し、モスク、宮殿、図書館、病院を略奪、破壊し尽くし、何世代にもわたって保たれていた壮大な建築物は消失した。薬学から天文学にまで及ぶ歴史的に貴重な書物を所蔵していたバグダードの知恵の館は破壊された。「モンゴル軍によって虐殺された人の血でチグリス川は赤くなり、次に、捨てられた書物のインクでチグリス川の水が黒くなった」と生存者は証言した。 ムスタアスィムは郭侃に捕らえられ、モンゴル軍による市民の虐殺と財宝の略奪の様子を見せつけられた。その後ムスタアスィムは敷物に巻かれ、モンゴル軍の軍馬に踏み殺された。これは貴人に死を賜るときのモンゴル流の礼儀であった。モンゴル軍はムスタアスィムの子供たちも殺害、『集史』によれば、唯一生き残った息子はモンゴルに送られた。 モンゴル軍が陣地をわざわざバグダードの風上に移動するほど、大量の死体から発する腐敗臭が凄まじかったという。モンゴル軍は降伏を拒否した都市は見せしめのために徹底的に破壊したが、降伏した都市は破壊しなかった。これはモンゴル軍の戦術だった。 “1258年当時のイラクは現在のイラクとは違う。農業は都市の運河によって数千年守られ、バグダードは世界一輝かしい知の中心地だった。モンゴル軍によるバクダードの破壊はイスラム教に回復不可能な心理的な痛手を負わせた。既にイスラム教は保守的になっていたが、このバグダードの蹂躙によって、イスラム教の知的開花は潰えてしまった。アリストテレスとペリクレスのいるアテネが核兵器により消滅する様を想像してほしい。モンゴル軍がどれだけ残酷であったか理解いただけよう。モンゴル軍は灌漑運河を徹底的に破壊した。これと殺戮による過疎化とによってイラクはもはや再起不能の状態に陥り、衰退の一途を辿ることとなった。”―――スティーブン・ダッチ(ウィスコンシン=グリーンベイ大学) その後、モンゴル軍はシリアに侵攻するが、ムスタアスィムの叔父をカリフとして擁立したエジプトのマムルーク朝を相手に1260年のアイン・ジャールートの戦いで大敗。そのまま中東から撤退した。
※この「破壊と殺戮」の解説は、「バグダードの戦い」の解説の一部です。
「破壊と殺戮」を含む「バグダードの戦い」の記事については、「バグダードの戦い」の概要を参照ください。
- 破壊と殺戮のページへのリンク