1974年の日本ハムファイターズ (1974ねんのにっぽんハムファイターズ)では、1974年の日本ハムファイターズ の動向をまとめる。
このシーズンの日本ハムファイターズは、球団が日拓ホーム から日本ハム に身売りされ、チーム名が「日本ハムファイターズ」に改称された最初のシーズンであり、中西太 監督の1年目のシーズンである。
概要
当年及び近年のシーズン成績
年
成績
リーグ
勝
敗
分
率
平均得点
平均失点
開幕時監督
1974
レギュラー敗退
6位
49
75
6
.395
1973
レギュラー敗退
5位
55
69
6
.444
1972
レギュラー敗退
4位
63
61
6
.508
1971
レギュラー敗退
5位
44
74
12
.373
1970
レギュラー敗退
5位
54
70
6
.435
1969
レギュラー敗退
4位
57
70
3
.449
1968
レギュラー敗退
6位
51
79
5
.392
1967
レギュラー敗退
3位
65
65
4
.500
1966
レギュラー敗退
3位
70
60
6
.538
1965
レギュラー敗退
2位
76
61
3
.555
1964
レギュラー敗退
3位
78
68
4
.534
先述の通り、球団が日拓ホームから日本ハムへ身売りされて球団名も変更、そして監督は前年 までヤクルトアトムズ のヘッドコーチだった中西太 を迎え、球団社長には同球団の監督で中西の義父・三原脩 が就任した。だが終わってみれば1968年 以来の最下位、そこで三原球団社長はチーム改造に着手し、まずシーズン終了直後の10月22日 に大下剛史 が広島東洋カープ の上垣内誠 ・渋谷通 と交換トレード、続いて1週間後の10月30日 には大杉勝男 がヤクルトの小田義人 ・内田順三 と交換トレード、他にも白仁天 が太平洋クラブライオンズ の東田正義 と交換トレードとなり、東映 時代からの主力3選手が一気に放出される事となった。
レギュラーシーズン
1974年パシフィック・リーグ順位変動
前期
順位
4月終了時
5月終了時
前期成績
1位
ロッテ
--
阪急
--
阪急
--
2位
阪急
1.0
太平洋
2.5
ロッテ
4.5
3位
太平洋
4.0
ロッテ
4.0
太平洋
6.5
4位
日本ハム
4.5
近鉄
7.0
南海
7.0
5位
近鉄
5.5
日本ハム
8.0
近鉄
9.0
6位
南海
6.0
南海
8.5
日本ハム
12.0
後期
順位
7月終了時
8月終了時
後期成績
1位
ロッテ
--
ロッテ
--
ロッテ
--
2位
南海
南海
2.5
南海
5.0
3位
日本ハム
2.5
阪急
4.5
阪急
5.0
4位
太平洋
3.5
太平洋
7.5
太平洋
10.0
5位
近鉄
4.0
近鉄
9.5
近鉄
6位
阪急
5.0
日本ハム
12.0
日本ハム
15.0
*優勝はプレーオフで決定。2位以下はプレーオフの結果に関係なく勝率順で決定[ 1]
オールスターゲーム1974
できごと
5月9日 - 3月26日に入団、4月25日に初給料50万円(年俸600万円の月割り)を支給され、4月27日に多摩川グラウンド でのイースタン・リーグ の試合に先発する予定だったが突如失踪したバール・スノー が、パ・リーグ から史上2人目(パ・リーグ及び外国人では現在唯一)の「無期限失格選手」とされる。なおスノーは後に、故郷・ユタ州 に帰郷した事が判明した。
4月24日 - 張本勲 が後楽園球場での対近鉄2回戦の1回裏に二塁打を放ち、プロ通算300二塁打を達成[ 2] 。
5月8日 - 後楽園球場での日本ハム対太平洋3回戦の試合で、7回表に太平洋のファンが三塁手の阪本敏三 めがけてビール瓶を投げつけ坂本は頭を裂傷し、日本ハムナインとファンが小競り合いする騒ぎが起きる[ 3] 。
7月5日 - 後期開幕。この日からユニフォームはホーム・ビジターとも「縦縞無し」から「縦縞有り」に変更、1979年 に「ベルトレスからベルト入り」と「ビジター用胸マークと背番号を白から赤」に変更し、リーグ優勝した1981年 まで使用した。
7月17日 - テリー・レイ が対近鉄後期一回戦の一回表に3つボークを取られ、1イニング3ボークのパ・リーグ新記録[ 4] 。
8月18日 - 高橋直樹 が日生球場 での対近鉄後期7回戦で史上唯一の「一人で1試合の勝利投手とセーブ投手の両方を記録」を達成した[ 5] 。この後、ルール改定が行われ、「勝ち投手になった場合、その人物にはセーブをあたえない」という規定が追加されたため、現在では達成不可能。
8月29日 - 張本勲 が神宮球場での対太平洋後期8回戦に出場し、プロ通算2000試合出場を達成[ 6] 。
9月29日 - 高橋博士 が後楽園球場での南海ダブルヘッダー第二試合の後期13回戦で史上初の1試合全ポジションに付く[ 7] [ 8]
10月2日 - 大杉勝男 が1968年9月21日からこの日の試合まで、球団記録の798試合連続出場[ 9] 。
10月22日 - 日本ハムと広島東洋は、大下剛史 と上垣内誠 ・渋谷通 のトレードが成立したと発表。
10月30日 - 日本ハムとヤクルトは、大杉勝男 と小田義人 ・内田順三 のトレードが成立したと発表[ 10] 。
選手・スタッフ
監督
コーチ
二軍監督・コーチ
投手
捕手
内野手
外野手
[ 11]
表彰選手
ドラフト
脚注
注釈
出典
^ a b c “年度別成績 1974年 パシフィック・リーグ ”. 日本野球機構 . 2017年6月5日閲覧。
^ 読売新聞1974年4月25日14面「張本300二塁打」読売新聞縮刷版1974年4月p752
^ 読売新聞1974年5月9日14面「後楽園でファン騒ぐ ビン当たり阪本(日本ハム)負傷」読売新聞縮刷版1974年5月p218
^ 読売新聞1974年7月18日15面「日本ハム・レイ投手が1イニング、ボーク3のパ・リーグ新記録」読売新聞縮刷版1974年7月p559
^ 読売新聞1974年8月19日14面「高橋直、勝利とセーブ」読売新聞縮刷版1974年8月p516
^ 読売新聞1974年8月30日15面「日本ハム・張本が2000試合出場」読売新聞縮刷版1974年8月p839
^ 読売新聞1974年9月30日15面「高橋博全ポジション」読売新聞縮刷版1974年9月p937
^ “【9月29日】1974年(昭49) 日ハム・高橋博士、日本初!1試合で全ポジション守る ”. 日めくりプロ野球 . スポーツニッポン新聞社. 2015年12月10日閲覧。
^ “個人打撃連続記録(1) ”. パシフィック野球連盟公式サイト. 2015年12月10日閲覧。
^ 毎日新聞1974年10月31日15面「大杉がヤクルト入り」毎日新聞縮刷版1974年10月p889
^ ベースボールマガジン2002夏季号 , ベースボールマガジン社, (2002), p. 123
1940年代
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
1946年の公式戦再開に先立って、1945年は終戦後開催の東西対抗戦にセネタースの選手が参加。