平井信司
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/09 04:10 UTC 版)
| 基本情報 | |
|---|---|
| 国籍 |  日本 | 
| 出身地 | 神奈川県 | 
| 生年月日 | 1948年1月3日 | 
| 身長 体重 | 184 cm 78 kg | 
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 | 
| ポジション | 内野手 | 
| 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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        この表について
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平井 信司(ひらい しんじ)は、神奈川県出身の元社会人野球選手。ポジションは内野手。
経歴
横浜高校で三塁手として活躍。1964年秋季関東大会県予選決勝に進むが、日大藤沢高に惜敗。翌1965年夏の甲子園県予選でも準々決勝に進出するが、鶴見工に敗れ甲子園には出場できなかった。高校同期に遊撃手の飯田幸夫やエースの岸勝之らがいる。高校卒業後は、専修大学に進学する。
大学卒業後、日拓観光に入社する。1971年ドラフト会議で東映フライヤーズから3位で指名されるが入団を拒否し[1]、会社に残留した。
1972年の第43回都市対抗野球大会では電電東京の補強選手として出場した。日拓がプロ野球事業に参入したことにより、チームが解散したことにより、エアロマスターのチームに移籍した。1973年の産業対抗ではチームの優勝に貢献し、最高殊勲選手にも選ばれた。
引退後
大阪市都島区を拠点とする小学硬式野球チーム大阪都島ボーイズ小学部でコーチとして指導。その後、監督に就任。
脚注
- ^ “過去のドラフト 第7回(1971年) - ドラフト会議 : 日刊スポーツ”. nikkansports.com. 2020年6月30日閲覧。
関連項目
- 平井信司のページへのリンク

 
                             
                    



