1955年の阪急ブレーブスでは、1955年の阪急ブレーブスの動向をまとめる。
この年の阪急ブレーブスは、第2次西村正夫監督体制の2年目(通算6年目)のシーズンである。
概要
西村監督2年目の1955年シーズン、野球の大国キューバからロベルト・バルボンが入団。バルボンは俊足と陽気な性格でチームの看板選手となり、2年目の梶本隆夫、翌年入団の米田哲也らとともにチームを支えた。バルボンの加入でチーム打率が.267のリーグ1位、盗塁数が優勝の南海の245個に次ぐ213個のリーグ2位とまずまずだったが、本塁打は39本で南海・西鉄に大きく引き離された。投手陣は2年目の梶本や柴田英治、阿部八郎、原田孝一、アルビン・スピアマンなどがローテーションを守った。チームは6月26日から5連勝すると、7月21日から10連勝で5位以下を引き離し、8月22日にも5連勝するなど好調だったが9月中旬から5連敗の後1つ勝って4連敗。それでも10月は8勝3敗と勝ち越して2年ぶりにAクラスを固めた。チームは優勝の南海に10勝10敗と五分で、2位西鉄には11勝9敗と勝ち越したが3位の毎日に相性が悪く、5月7日から同一カード8連敗を喫したのが響き、優勝はならなかった。またこの年は、ユニフォームの胸文字・背番号・袖ラインを赤に変更、新たに赤のズボンラインを加えた[2]
チーム成績
レギュラーシーズン
1955年パシフィック・リーグ順位変動
順位 |
4月終了時 |
5月終了時 |
6月終了時 |
7月終了時 |
8月終了時 |
9月終了時 |
最終成績 |
1位 |
南海 |
-- |
西鉄 |
-- |
南海 |
-- |
西鉄 |
-- |
南海 |
-- |
南海 |
-- |
南海 |
-- |
2位 |
西鉄 |
0.5 |
南海 |
1.5 |
西鉄 |
2.0 |
南海 |
0.0 |
西鉄 |
2.5 |
西鉄 |
4.5 |
西鉄 |
9.0 |
3位 |
毎日 |
1.5 |
毎日 |
4.5 |
毎日 |
4.5 |
毎日 |
9.0 |
毎日 |
10.0 |
毎日 |
11.5 |
毎日 |
14.0 |
4位 |
阪急 |
7.5 |
阪急 |
10.0 |
近鉄 |
14.0 |
阪急 |
11.0 |
阪急 |
13.5 |
阪急 |
18.0 |
阪急 |
19.0 |
5位 |
近鉄 |
9.5 |
近鉄 |
10.5 |
阪急 |
14.5 |
近鉄 |
19.0 |
近鉄 |
26.5 |
近鉄 |
28.0 |
近鉄 |
39.0 |
6位 |
東映 |
10.5 |
大映 |
16.5 |
東映 |
23.0 |
大映 |
29.0 |
大映 |
34.0 |
大映 |
41.5 |
大映 |
46.0 |
7位 |
トンボ |
12.0 |
トンボ |
17.5 |
大映 |
23.5 |
東映 |
29.5 |
東映 |
37.0 |
東映 |
44.0 |
東映 |
48.0 |
8位 |
大映 |
14.5 |
東映 |
18.0 |
トンボ |
26.5 |
トンボ |
34.5 |
トンボ |
44.5 |
トンボ |
51.5 |
トンボ |
57.0 |
[1]
オールスターゲーム
できごと
選手・スタッフ
[3]
表彰選手
リーグ・リーダー |
選手名 |
タイトル |
成績 |
回数 |
バルボン |
最多安打 |
163本 |
初受賞 |
脚注
注釈
出典
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1930年代 |
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1940年代 |
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1950年代 |
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1960年代 |
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1970年代 |
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1980年代 |
|
1990年代 |
|
2000年代 |
|
2010年代 |
|
2020年代 |
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脚注
1936年から1946年までは「阪急軍」(1945年は戦況悪化のため、公式戦を休止。合同チームによる非公式戦のみ開催。) 1947年から1988年までは「阪急ブレーブス」 1989年から1990年までは「オリックス・ブレーブス」 1991年から2004年までは「オリックス・ブルーウェーブ」(2004年オフに大阪近鉄バファローズと球団合併) 2005年から「オリックス・バファローズ」
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