2004年のオリックス・ブルーウェーブ では、2004年のオリックス・ブルーウェーブ の動向についてまとめる。
この年のオリックス・ブルーウェーブは、伊原春樹 が1年だけ監督を務めたシーズンである。キャッチフレーズは「Believe'n GO! 〜頂点へ全力〜 」。
シーズンオフに球団が大阪近鉄バファローズ を吸収合併 して、翌年から「オリックス・バファローズ」となったため、「オリックス・ブルーウェーブ」としては最後のシーズンとなった。
概要 2年連続の最下位と低迷するチーム再建の切り札として、宮内義彦 オーナーは前年まで西武 の監督だった伊原春樹を新監督に招聘。伊原新監督は投手コーチに西武時代の同僚で元ロッテ 監督の八木沢荘六 を、打撃コーチに大学同期で球団OBの河村健一郎 を、外野守備走塁コーチには西武でともに汗を流した佐々木誠 を、内野守備走塁コーチには西武で同僚の鈴木康友 をそれぞれ迎えるなどコーチスタッフを一新。しかし、2003年と同じくエースとして期待されたユウキ はシーズン絶望、抑えを期待された大久保勝信 、加藤大輔 も怪我の影響で1試合しか登板できず、ローテの左三本柱として計算されていた金田政彦 は相変わらず怪我がち、具臺晟 は首脳陣との対立、トレイ・ムーア も後半怪我で離脱と主力投手陣が揃わず、さらにアテネ五輪で谷佳知 、村松有人 が怪我をするアクシデントもあり、3年連続の最下位に終わった。投手陣は前年の5.95から5.66へとわずかに防御率が改善されたが被安打数はリーグワーストに終わり、打撃陣は打率がリーグ2位の.283を記録するも、112本塁打はリーグ最下位で投打も噛み合わなかった。続投を希望する声も上がったが、近鉄との球団合併もあり伊原監督は1年で辞任。新球団「オリックス・バファローズ」の初代監督には近鉄・オリックス両球団の監督を務めた仰木彬 が4年ぶりに復帰することになった。
チーム成績 レギュラーシーズン 2004年パシフィック・リーグ順位変動 順位 4月終了時 5月終了時 6月終了時 7月終了時 8月終了時 最終成績 1位 ダイエー -- ダイエー -- ダイエー -- ダイエー -- ダイエー -- ダイエー -- 2位 西武 0.0 西武 西武 2.0 西武 2.0 西武 2.0 西武 4.5 3位 ロッテ 3.5 日本ハム 4.5 日本ハム 7.5 日本ハム 9.0 ロッテ 15.5 日本ハム 12.0 4位 オリックス 4.0 近鉄 7.5 ロッテ 14.0 近鉄 12.5 日本ハム 11.0 ロッテ 12.5 5位 日本ハム 4.5 オリックス 5.0 近鉄 14.5 ロッテ 13.0 近鉄 15.0 近鉄 17.0 6位 近鉄 6.0 ロッテ 11.0 オリックス 17.0 オリックス 19.5 オリックス 24.5 オリックス 29.0
プロ野球再編問題 を巡るストライキにより、本来より2試合少ない133試合。 規定でプレイオフ勝者が優勝チーム [1]
オールスターゲーム2004 できごと 選手・スタッフ
監督 一軍コーチ 二軍監督・コーチ 投手 捕手 内野手 外野手
[2]
表彰選手 選手分配ドラフト 選手分配ドラフトにより、オリックス所属の選手は以下のように分配された。また、近鉄からは以下の選手がオリックスに所属することが決定したが、岩隈久志 はオリックスへの入団を拒否し、楽天がオリックスに金銭を支払うことと引き換えに楽天への入団が決定した。
ドラフト 出典 1930年代 1940年代 1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代 脚注
1936年から1946年までは「阪急軍」(1945年は戦況悪化のため、公式戦を休止。合同チームによる非公式戦のみ開催。) 1947年から1988年までは「阪急ブレーブス」 1989年から1990年までは「オリックス・ブレーブス」 1991年から2004年までは「オリックス・ブルーウェーブ」(2004年オフに大阪近鉄バファローズ と球団合併) 2005年から「オリックス・バファローズ」