ロッテ監督時の采配・特徴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:54 UTC 版)
「ボビー・バレンタイン」の記事における「ロッテ監督時の采配・特徴」の解説
普段は笑顔と共に陽気な性格を見せているが、試合中になると、自チームが逆転するなど通常はホームサイドで大歓声が自然に上がる場面でもポーカーフェイスを通す。これは「試合の勝利が決定する瞬間まで指揮官は喜んではいけない。もしそれをするとその時点で試合が決定したような雰囲気になり、選手の緊張感が切れてしまう」という彼の監督としての哲学に基づいたものである。2005年のプレーオフ第2ステージ第5戦、里崎智也の逆転適時打の後も、ベンチ内外で歓喜するロッテ選手の陰で一人落ち着いた表情を保っていた。 相手監督に度々激昂することもあり、復帰1年目の2004年のオリックス・ブルーウェーブとのオープン戦では当時のオリックスの監督だった伊原春樹と試合中に口論。伊原が「じゃかましいわボケェ」と日本語(広島弁)で怒鳴りつけた。また外国人記者クラブで当時東北楽天ゴールデンイーグルスのGMだったマーティ・キーナートの会見が長引き、次の番であったバレンタインは業を煮やし会場に「早くしろ!」と野次を飛ばし、キーナートと一触即発の状態になった。 2009年4月19日の対福岡ソフトバンクホークス戦の3回、一塁でのクロスプレーの判定を不服として審判に猛抗議したが、一旦ベンチに戻りモニターでプレーを再確認した後に再び抗議しようと飛び出したことを「侮辱行為」とみなされ退場処分となった。これがバレンタインの日本における初の退場であった。 選手を怒鳴りつけることはほとんど無く(ただ10連敗した時やチームに覇気がないと感じたときにはある)、試合に敗れた後も「また明日勝ちましょう」「終わったことは仕方がない、次はキメようぜ」と励ますのみである。 彼の采配において特筆すべき点は、その選手起用の在り方である。彼自身が現役時代怪我をした経験もあり、選手の故障・酷使には敏感である。よってどんなに好調な選手であっても体調管理を選手自身の判断に任せず、一定間隔で休養をとらせている。特に投手陣にいたっては、必ず5人 - 6人で先発ローテーションを組み、投球数にも制限を設ける。監督の合図なしに肩を作ってはいけないMLB流に則り、自身が「(次の回)行くぞ」と言わない限り投手がブルペンに立つことはおろかキャッチボールすらさせなかった。里崎智也はバレンタインが指揮を執るとどのタイミングでどの味方投手に交代するかが分かりやすく、投球の組み立てをしやすかったと評価している。2度目の来日当初、怪我(度重なる酷使が原因といわれる)で一軍から遠ざかっていた黒木知宏に「自分がいればこんな無用な故障はさせなかった」と語った。そのように体調管理を徹底した一方で、選手の服装や髪型に関して規律を求めることはなかった。 野手は当日になるまで誰が試合に出るか分からなかったため、シーズン中は常に一軍の全野手が出番を貰うかもしれないと緊張感とモチベーションを持って球場入りしていた。特に前半戦は1週間に1度も試合に出ない選手が1人もいないほどで、3分の2は先発出場を経験したという。前日に猛打賞を獲得した選手でさえ、翌日の出場は保証されなかった。特定の選手に依存しないため誰かが怪我をしても然程困らなかった上に、主力選手は適度に休ませて貰えたため終盤戦に体力が余っていたという。そのようなことから、里崎は第2次ロッテ監督時代は一軍を2チーム作れるほど強かったのではないかと当時を評していた。 投手起用においては、大差がついた試合の敗戦処理を若手投手にさせず、また僅差の試合で若手投手を救援に用いることがない。「若手に敗戦処理をさせても意味がない」、「僅差の試合で打たれて負けることは、これから伸び行く若手にとって悪影響を与える」という持論のもと、どちらもベテラン投手を起用することが多い。 攻撃面では送りバントを用いず、ヒットエンドランを仕掛けることが多い。 2000年代初頭に打者の肘当て装着が解禁されると、選手の安全に気を配る彼はチームの全打者への装着を義務付けた。また、アメリカ球界ではそれこそ一家に1つレベルで独自の握りのチェンジアップが存在するが、彼はそのチェンジアップをロッテの全投手に必ず覚えさせ、これによってそれまで鳴かず飛ばずであった薮田安彦が急成長し、元々優秀な投手であった小林宏之も輪をかけて強くなった。 ファンサービスを大切にすることで知られる。予定にない即席サイン会が行われることがしばしばある。2006年のファン感謝イベントでは選手とファンが触れ合う機会が少な過ぎることに不満を漏らし、フィールドでのイベントには目もくれず、ファンにサインをし続けた。 里崎が引退後に語ったところによると、キャンプでは自分の確認したい選手の練習だけ確認して、信頼している選手の練習は選手に任せる人物であった。そのため、自身の監督時代のキャンプの所要時間は短かったという。里崎はこれを語る上で「日本の野球の練習やキャンプの時間が長いのは監督が1から10まで選手のことを自分の目で確認したいからであって、選手達はその都合上多くの手待時間を過ごす」と前置きしていた。 当時のロッテの投手陣の一角だった小宮山悟は1994年に右肘痛を感じており、球団とはこの件で契約更改から翌年、1995年のキャンプまで話が難航していた。その後小宮山は診断を受け「肘の部分断裂は認められるが手術は必要ない」との診断結果で球団と話はついたものの、球団と自分の考え方が違っている事をバレンタインに相談にいき、バレンタインは「私は投手が投げられなくなるような事は絶対にしない。勝つこと以上に選手が1年間無事に野球ができるようにするのが優秀な監督の仕事。もし違和感があったらすぐ言いなさい。登板回数も含め配慮する」と返した。同年、小宮山はオープン戦で好投を見せていたもののバレンタインは既に伊良部秀輝を開幕戦で起用する事を明言していた。バレンタインは小宮山に「本当だったら実績やオープン戦の数字を見てもお前が開幕投手。伊良部と言ってしまったので申し訳ないが伊良部で行く」と小宮山に話し、開幕戦当日も小宮山に再び「申し訳ない」と話した。こうして小宮山は「ボビーの為に頑張ろう」とバレンタインに信頼を寄せていった。
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