ロッテ本拠地時代
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1978年(昭和53年)から1991年(平成3年)にかけての14シーズンは、ロッテが本拠地とした。 だがロッテは移転早々、川崎で阪急ブレーブスに前期、後期とも目の前で優勝を決められるなど阪急に大幅な勝ち越しを許した上、前年までリーグ2位だった観客動員数も6年ぶりに50万人を割り込んで5位に陥落するなど苦難のスタートを強いられた。 川崎市は大洋が横浜に移転する代替策として三顧の礼を尽くしてロッテを誘致した経緯があるが、肝心の川崎球場はほとんど改修されることはなく、一塁側場外に室内練習場の新設、外野フェンスを5~7mに嵩上げ、照明を一部改修したのみで、施設そのものにほとんど手が入れられなかった。特にかつてのロッテの本拠地であり、しかも野球のメッカであった後楽園球場以上に設備が充実していた東京スタジアムと比較すれば大きく見劣るものであった。 老朽化し、かつ狭隘な球場に、人気の凋落した球団では川崎市民をはじめ首都圏の野球ファンの関心を引き寄せる力はあまりにも弱く、川崎駅前や銭湯など市内の各店頭での無料入場券配布などの努力も実らず、以降も観客動員は低迷を続けた。当時の球団の発表値でも、地方開催を含むロッテ主催試合の観客動員数は年間平均60~80万人台で推移し、実際は5千人以下の観衆しか集まらないことが多かった。 テレビ番組の『プロ野球珍プレー・好プレー大賞』などでは、試合をよそにスタンドで流しそうめんや麻雀などをし、勝手にたわむれている観客の姿がしばしば取り上げられた。隣接する川崎競輪場の競輪を三塁側スタンド最上段から観戦する客もみられた。後にロッテの球団職員となる横山健一によれば、あまりの客入りの悪さに「経費削減のため7回終了時点でスタッフが撤収し、指定席と自由席を隔てる柵の鍵も開けて帰っていた」「指定席のチケットを購入するとスタッフのおばちゃんに『買うの?』と怪訝な顔をされた」という。これらの逸話が伝える通り客入りは振るわなかったが、川崎球場はパ・リーグの、日本プロ野球の歴史に残る数多くの名場面の舞台となっている。 1979年(昭和54年)、ロッテのレロン・リーが前年よく右翼上段の「王ネット」を超えて場外へ打球を飛ばしていたことからネットをさらに嵩上げし「リー・ネット」と呼ばれた。また、全日本女子プロレスの「日米対抗リーグ戦」が開かれた。 1980年(昭和55年)5月28日に開催された対阪急前期11回戦で、3番・指名打者で先発出場したロッテの張本勲が6回裏一死二塁で山口高志から放った右翼席上段のネットを直撃する6号2ラン本塁打は、張本の現役通算3000本目の安打(日本プロ野球ではこれが史上初)となった。張本は打った瞬間、ヘルメットを空高く放り上げて咆哮し、試合後に「家に帰ったら泣くかもしれない」と語った。後日、本塁打が当たった点15m下の右翼スタンド上段に着地点を矢印で示す表示板が設けられた。 9月30日に開催された対日本ハム戦で、ロッテのレオン・リーが空振りしたバットが観客席に飛び込み、坐っていた小学生の口に当たって歯を折損させる事故が起きた。小学生のいた席は報道カメラマンの後方だったため、バックネットのフェンスが無かった。 1985年(昭和60年)、ロッテの落合博満は全130試合に出場し、打率.367、本塁打52、打点146を記録し三冠王を達成。1986年(昭和61年)も打率.360、本塁打50、打点116を記録して2年連続の三冠王に輝いた。しかし、この年のオフシーズンに信頼を寄せていた稲尾和久監督の辞任や年俸の高騰がネックとなるなどし、1対4のトレードで中日ドラゴンズに移籍した。 この間も川崎球場の老朽化は著しく進行し続けた。開場以来一度も交換されていない機器まであったほどで、かつて放送席にあったボールカウント表示用のスイッチは川崎球場開場年の1952年(昭和27年)製造のものだった。スポーツライターの鉄矢多美子は1977年(昭和52年)から1987年(昭和62年)までロッテ球団で広報担当を務めていた傍ら、ウグイス嬢も兼任していたが、球場関係者から「壊れたら替える部品がないので、丁寧に扱ってください」と注意されていたという。 川崎球場のロッカールームは通気性の悪さから湿気が多い上、スタンドの座席は狭隘で座りにくく、トイレは男女共用の汲み取り式便所であり、鍵が壊れていることも常態化していた。当時主力だった有藤通世は「ロッカールームが湿気でジメジメしていて、バットやグラブ、スパイクを置いたまま1週間遠征に出るとカビが生えた。バットは一晩置いておくだけで20 g重くなった」と証言している。スタンドが低かったため、ファウルボールが一塁側場外に出ると選手用駐車場のロッテ選手の自家用車を直撃することもしばしばあった。 川崎球場は映画やテレビドラマのロケーション撮影でもしばしば使われた。刑務所のトイレのシーンの撮影がスタンド下のトイレで行われた。刑事ドラマの撮影にも使われ、犯人が追っ手を逃れ、古ぼけた野球場のスコアボード棟に逃げ込むシーンの撮影だったが、ドラマの監督は撮影場所を選んだ理由について「都内近辺でこんなオンボロのスコアボードがあるのは川崎しかない」と話していたという。1982年(昭和57年)に製作された映画『化石の荒野』(東映・角川映画)では球場のスタンドやフィールドがロケ地として登場している。 川崎球場の不入りぶりはマスメディアで何度も話のネタにされ、当時は成績も低迷していたことから、朝日新聞1983年10月12日付記事でロッテのフロントの無気力ぶりが批判されたり、週刊ベースボールの読者投稿欄「ボールパーク共和国」で川崎時代のロッテの弱さや不人気ぶりを揶揄するネタ、当時のロッテ球団フロントに対する批判投稿が頻繁に掲載された。 立地条件からフィールドの水はけも悪く、降雨の翌日になっても水が引かないため、雨天ではないのにもかかわらず「グラウンド状態不良」を理由に試合を中止せざるを得ないことも多々あったため、シーズン終盤になると川崎でのロッテ戦が数多く組まれるのが常態化していた。1984年(昭和59年)は秋季の日米野球開催に合わせてロッカールームとスタンド外周部の照明の改修をしたが、日米野球は雨天で中止となった。来日メンバーにオリオールズの新人だったカル・リプケンJr.や後にロッテの2軍監督などを務めたレン・サカタもいた。川崎で日米野球の日程が組まれたのはこの年の一回だけであった。 著しく老朽化し、かつ川崎市も施設改善する構想すらしていなかった川崎球場では、これ以上の誘客が望めないとして、ロッテは1980年代以降、千葉県千葉市の千葉県野球場や栃木県宇都宮市の宇都宮清原球場など、首都圏の他都市への本拠地移転を検討したことがある。しかし施設面や交通の便、および行政側の影響などでいずれも頓挫した。これとは別に、1984年(昭和59年)に稲尾を監督に招聘する際、将来的に本拠地を当時福岡県福岡市にあった平和台野球場へ移転させる計画があるという話を球団側が持ち掛けたこともあった。 一方、川崎市は球団の移転防止策として、川崎球場の改修案の他、幸区鹿島田地区の新川崎駅西側にある日本国有鉄道新鶴見操車場跡地にドーム球場を建設する構想を発表した。しかしこれらについても、市の財政難や観客動員数低迷による採算性への不安、さらにリクルート事件による市政の混乱などにより、なかなか進展しなかった。また、川崎球場の改修案についても具体的な対策が執られず、ほとんど改善されないままであった。なおこの間に球団も集客関連で手をこまねいていた訳ではなく、ロッテは1987年(昭和62年)から女性向けのPR用フリーペーパー「URE・P(ウレピー)」を無料で配布し、横浜スタジアムが「ハマスタ」と呼ばれる向こうを張って、川崎球場を「SAKIスタ」と呼んでイメージアップを図った経営努力をしていたものの、実際の球場設備に大きな変化はなかった。 1988年(昭和63年)、ロッテは前年限りで退団したレロン・リーに代わる外国人選手として、MLB時代に闘志溢れるプレーで"Mad Dog"(狂犬)の異名を取り、通算4度首位打者に輝いたビル・マドロックを三顧の礼で迎え入れた。球団はマドロックを手厚く迎えるべく、川崎球場の一塁側ダッグアウト裏に専用のロッカールームを用意するなど小規模ながら施設の一部改修を行ったほどだったが、マドロックは来日後初めて川崎を訪れた際「本当にこんな狭くて汚い球場で試合をするのか」と嘆息した一方で「この野球場なら(本塁打)50本は打てると思う」とコメントしたが、マドロックは当時既に37歳を迎えて、年齢的にも肉体的にもピークを過ぎており、打率はシーズン中盤まで2割5分を前後し、期待された本塁打もほとんど出ずじまいで、かつての首位打者の面影の見えないまま不振が続き、4番を高沢秀昭に譲り5番に降格した。 球場施設の改善に関しては一貫して消極姿勢を取り続けてきた川崎市だが、それを転換せざるを得ない事態が訪れる。10月19日、近鉄バファローズがリーグ優勝のマジックを「2」として迎えた大一番のロッテとのダブルヘッダー、いわゆる「10.19」である(近鉄は第1試合に勝ったものの、第2試合は引き分けに終わり、西武ライオンズがリーグ4連覇を果たした)。このダブルヘッダーで球場には近鉄ファンが大挙して押し寄せたが、球場のキャパを超えた観客が近隣のマンションから観戦し、さらに発券システムや場内売店・飲食店、トイレなどの不備によって大きな混乱を引き起こした。試合後、観客から市や球団に改善要求が数多く寄せられたため、これまで改修を渋り続けてきた市もついに改修を決断し、1989年(平成元年)秋から球場の改修工事に着手する。 改修工事開始の1989年、通算198勝で開幕を迎えたロッテの村田兆治投手はまず1勝を挙げ、いよいよ200勝に王手をかけると、当時監督だった有藤は「本拠地で200勝を達成させてやりたい」と、川崎での主催試合にローテーションを合わせる方針を決めた。だが、4月16日の近鉄戦では延長11回の粘投も最後は新井宏昌の適時打で力尽きると、4月30日の日本ハム6回戦は序盤で打ち込まれてKO。両日とも記録達成を見届けようとスタンドは観客で埋め尽くされ、テレビ中継も行われたものの、結局川崎では達成できなかった。村田は5月13日、地方開催の山形県野球場でのビジターの日本ハム7回戦で200勝を達成した。 パ・リーグはこの年も上位チームが僅差で競り合う、いわゆる「熱パ」となり、シーズン終盤は近鉄、西武、オリックスの三つ巴の争いとなった。川崎では10月12日と13日にロッテ対オリックス3連戦が行われ、オリックスは12日のダブルヘッダーに連勝。一方、西武球場の西武対近鉄のダブルヘッダーでは近鉄が西武を猛打で圧倒して優勝戦線から引きずり下ろし、近鉄がマジックを「2」とした。13日、同じく川崎でのロッテ戦に臨んだオリックスは先発にエース佐藤義則を立てたが5回、愛甲猛に決勝3ランを喫すなどし、5-3で敗戦。マジックを「1」とした近鉄は10月14日、藤井寺球場のダイエー戦で歓喜のリーグ優勝を果たした。詳細は10.19#1989年10月12日のダブルヘッダーを参照。 1991年(平成3年)春季に、川崎市が約14億円を掛けた改修工事が完了した。この2年の間にスタンド壁面の再塗装、防球ネットの嵩上げ、一部座席の取替え、パネル式だったスコアボードの電光化、フィールドの人工芝敷設など段階的に施設の改装を行った。近鉄のラルフ・ブライアントが右翼上段の「リー・ネット」を超えて場外に打球を飛ばしていたことから、この改修工事を期にネットがさらに嵩上げされ「ブライアント・ネット」と呼ばれた。ロッテは春季に「テレビじゃ見れない川崎劇場」を謳い文句に誘客キャンペーンを展開し、自虐的なテレビコマーシャルも話題を呼んだ。しかし、この時の改修も一部分だけであり、老朽化および狭隘化した施設そのものが改善されたわけではなく、抜本的な設備の改善を望める状況ではなかった。 この頃、千葉市が千葉マリンスタジアムを竣工させ、施設不備にさいなまれていたロッテに対して本拠地誘致を積極的に進めていた。ロッテはこの誘致を受け入れ、1992年(平成4年)から同球場を本拠地にすることを発表した。発表当初は移転後も当面の間、川崎でも年間10試合程度の公式戦の開催を予定する方向で検討していたが、突如の移転発表で態度を硬化した川崎市が、その抗議の意味で、川崎球場の改修を盾に移転に関する収入補償を求めてきた。これに対しロッテは、これまで長年にわたり川崎市に川崎球場の改修や新施設の整備を求めてきたのを、ことごとく無視されたり反故にされ続けてきた経緯からこれに反発し、この要求を拒否するとともに、川崎での試合開催予定数も大幅に削減することを決めた。 川崎球場はプロ野球の本拠地としては1991年で終了した。なお、ロッテはこの年が球団史上初の観客動員100万人達成となった。ロッテの観客動員数は千葉移転後に大幅に伸び、また川崎時代およびそれ以前とは異なり、千葉移転後のロッテは球団運営に積極的な方策を取ることが大幅に増え、さらにそれが功を奏して若年層のファン獲得にも成功したことから、ロッテファンの気質もオリオンズ時代とは異なるものとなった(マリーンズファンも参照)。 ロッテ本拠地としての最終戦は同年10月17日のダイエー戦(ダブルヘッダー第2試合)で7回降雨コールドで勝利した(勝利投手・小宮山悟)。 ロッテは川崎時代にリーグ優勝の経験はないが、パ・リーグの2シーズン制時代の1981年(昭和56年)に川崎で前期優勝を決めており、これがプロ野球本拠地時代の川崎において唯一の本拠地チームの胴上げとなった。
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