ロッテ本拠地時代とは? わかりやすく解説

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ロッテ本拠地時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 01:01 UTC 版)

川崎球場」の記事における「ロッテ本拠地時代」の解説

1978年昭和53年)から1991年平成3年)にかけての14シーズンは、ロッテ本拠地とした。 だがロッテ移転早々川崎阪急ブレーブス前期後期とも目の前で優勝決められるなど阪急大幅な勝ち越し許した上、前年までリーグ2位だった観客動員数6年ぶりに50万人割り込んで5位に陥落するなど苦難スタート強いられた川崎市大洋横浜移転する代替策として三顧の礼尽くしてロッテ誘致した経緯があるが、肝心川崎球場はほとんど改修されることはなく、一塁場外室内練習場新設外野フェンスを5~7mに嵩上げ照明一部改修したのみで、施設そのものにほとんど手が入れられなかった。特にかつてのロッテ本拠地であり、しかも野球メッカであった後楽園球場以上に設備充実していた東京スタジアム比較すれば大きく見劣るものであった老朽化し、かつ狭隘球場に、人気凋落し球団では川崎市民をはじめ首都圏野球ファン関心引き寄せる力はあまりにも弱く川崎駅前や銭湯など市内の各店頭での無料入場券配布などの努力実らず以降観客動員低迷続けた当時球団発表でも、地方開催を含むロッテ主催試合観客動員数年間平均6080万人台で推移し実際は5千人以下の観衆しか集まらないことが多かったテレビ番組の『プロ野球珍プレー・好プレー大賞』などでは、試合をよそにスタンド流しそうめん麻雀などをし、勝手にたわむれている観客の姿がしばしば取り上げられた。隣接する川崎競輪場競輪三塁スタンド最上段から観戦する客もみられた。後にロッテ球団職員となる横山健一によれば、あまりの客入り悪さに「経費削減のため7回終了時点スタッフ撤収し指定席自由席隔てる柵の鍵も開けて帰っていた」「指定席チケット購入するスタッフおばちゃんに『買うの?』と怪訝な顔をされた」という。これらの逸話伝え通り入りは振るわなかったが、川崎球場パ・リーグの、日本プロ野球歴史に残る数多く名場面舞台となっている。 1979年昭和54年)、ロッテレロン・リー前年よく右翼上段の「王ネット」を超えて場外打球飛ばしていたことからネットをさらに嵩上げし「リー・ネット」と呼ばれたまた、全日本女子プロレスの「日米対抗リーグ戦」が開かれた1980年昭和55年5月28日開催された対阪急前期11回戦で、3番指名打者先発出場したロッテ張本勲6回裏一死二塁山口高志から放った右翼席上段のネット直撃する6号2ラン本塁打は、張本現役通算3000本目安打日本プロ野球ではこれが史上初)となった張本打った瞬間ヘルメットを空高く放り上げ咆哮し、試合後に「家に帰った泣くかもしれない」と語った後日本塁打当たった点15m下の右翼スタンド上段着地点矢印で示す表示板設けられた。 9月30日開催され対日本ハム戦で、ロッテレオン・リー空振りしバット観客席飛び込み、坐っていた小学生の口に当たって歯を折損させる事故起きた小学生のいた席は報道カメラマン後方だったため、バックネットフェンス無かった1985年昭和60年)、ロッテ落合博満は全130試合出場し打率.367、本塁打52打点146記録し三冠王達成1986年昭和61年)も打率.360、本塁打50打点116記録して2年連続三冠王輝いた。しかし、この年オフシーズン信頼寄せていた稲尾和久監督辞任年俸高騰ネックとなるなどし、1対4のトレード中日ドラゴンズ移籍したこの間川崎球場老朽化著しく進行し続けた開場以来一度交換されていない機器であったほどで、かつて放送席にあったボールカウント表示用のスイッチ川崎球場開場年の1952年昭和27年製造のものだったスポーツライター鉄矢多美子1977年昭和52年)から1987年昭和62年)までロッテ球団広報担当務めていた傍らウグイス嬢兼任していたが、球場関係者から「壊れた替える部品がないので、丁寧に扱ってください」と注意されていたという。 川崎球場ロッカールーム通気性悪さから湿気が多い上、スタンド座席狭隘座りにくく、トイレ男女共用汲み取り式便所であり、鍵が壊れていることも常態化していた。当時主力だった有藤通世は「ロッカールーム湿気ジメジメしていて、バットグラブスパイク置いたまま1週間遠征に出るとカビ生えたバット一晩置いておくだけで20 g重くなった」と証言している。スタンド低かったため、ファウルボール一塁場外に出ると選手駐車場ロッテ選手自家用車直撃することもしばしばあった。 川崎球場映画テレビドラマロケーション撮影でもしばしば使われた。刑務所トイレシーン撮影スタンド下のトイレ行われた刑事ドラマ撮影にも使われ犯人追っ手逃れ、古ぼけた野球場スコアボード棟に逃げ込むシーン撮影だったが、ドラマ監督撮影場所選んだ理由について「都内近辺でこんなオンボロスコアボードがあるのは川崎しかない」と話していたという。1982年昭和57年)に製作され映画化石の荒野』(東映角川映画)では球場スタンドフィールドロケ地として登場している。 川崎球場不入りぶりはマスメディア何度も話のネタにされ、当時成績低迷していたことから、朝日新聞1983年10月12日付記事でロッテフロント無気力ぶりが批判されたり、週刊ベースボール読者投稿欄ボールパーク共和国」で川崎時代ロッテ弱さ不人気ぶりを揶揄するネタ当時ロッテ球団フロント対す批判投稿頻繁に掲載された。 立地条件からフィールド水はけ悪く降雨翌日になって引かないため、雨天ではないのにもかかわらずグラウンド状態不良」を理由試合中止せざるを得ないことも多々あったため、シーズン終盤になると川崎でのロッテ戦数多く組まれるのが常態化していた。1984年昭和59年)は秋季日米野球開催合わせてロッカールームスタンド外周部の照明改修をしたが、日米野球雨天中止となった来日メンバーオリオールズ新人だったカル・リプケンJr.や後にロッテ2軍監督などを務めたレン・サカタもいた。川崎日米野球日程組まれたのはこの年一回だけであった著しく老朽化し、かつ川崎市施設改善する構想すらしていなかった川崎球場では、これ以上誘客望めいとしてロッテ1980年代以降千葉県千葉市千葉県野球場栃木県宇都宮市宇都宮清原球場など、首都圏の他都市への本拠地移転検討したことがある。しかし施設面や交通の便、および行政側の影響などいずれも頓挫した。これとは別に1984年昭和59年)に稲尾監督招聘する際、将来的本拠地当時福岡県福岡市にあった平和台野球場移転させる計画があるという話を球団側が持ち掛けたこともあった。 一方川崎市球団移転防止策として、川崎球場改修案の他、幸区鹿島田地区新川崎駅西側ある日本国有鉄道新鶴見操車場跡地ドーム球場建設する構想発表した。しかしこれらについても、市の財政難観客動員数低迷による採算性への不安、さらにリクルート事件による市政混乱などにより、なかなか進展しなかった。また、川崎球場改修案についても具体的な対策が執られず、ほとんど改善されないままであった。なおこの間球団集客関連で手をこまねいていた訳ではなくロッテ1987年昭和62年)から女性向けPRフリーペーパー「URE・P(ウレピー)」を無料配布し横浜スタジアムが「ハマスタ」と呼ばれる向こうを張って川崎球場を「SAKIスタ」と呼んでイメージアップ図った経営努力をしていたものの、実際球場設備大きな変化はなかった。 1988年昭和63年)、ロッテ前年限り退団したレロン・リー代わる外国人選手として、MLB時代闘志溢れプレーで"Mad Dog"(狂犬)の異名取り通算4度首位打者輝いたビル・マドロック三顧の礼迎え入れた球団マドロック手厚く迎えるべく、川崎球場一塁ダッグアウト裏に専用ロッカールーム用意するなど小規模ながら施設一部改修行ったほどだったが、マドロック来日後初め川崎訪れた際「本当にこんな狭くて汚い球場試合をするのか」と嘆息した一方で「この野球場なら(本塁打50本は打てると思う」とコメントしたが、マドロック当時既に37歳迎えて年齢的に肉体的にピーク過ぎており、打率シーズン中盤まで2割5分を前後し期待され本塁打もほとんど出ずじまいで、かつての首位打者面影見えないまま不振続き4番高沢秀昭譲り5番降格した球場施設改善に関して一貫して消極姿勢取り続けてきた川崎市だが、それを転換せざるを得ない事態訪れる。10月19日近鉄バファローズリーグ優勝マジックを「2」として迎えた大一番ロッテとのダブルヘッダーいわゆる10.19」である(近鉄第1試合勝ったものの、第2試合引き分け終わり西武ライオンズリーグ4連覇果たした)。このダブルヘッダー球場には近鉄ファン大挙して押し寄せたが、球場キャパ超えた観客近隣マンションから観戦し、さらに発券システム場内売店飲食店トイレなどの不備によって大きな混乱引き起こした試合後、観客から市や球団改善要求数多く寄せられたため、これまで改修渋り続けてきた市もついに改修決断し1989年平成元年)秋から球場改修工事着手する改修工事開始1989年通算198勝で開幕迎えたロッテ村田兆治投手はまず1勝を挙げ、いよいよ200勝に王手をかけると、当時監督だった有藤は「本拠地200勝を達成させてやりたい」と、川崎での主催試合ローテーション合わせる方針決めた。だが、4月16日近鉄戦では延長11回の粘投最後新井宏昌適時打力尽きると、4月30日日本ハム6回戦序盤打ち込まれKO両日とも記録達成見届けようとスタンド観客埋め尽くされテレビ中継行われたものの、結局川崎では達成できなかった。村田5月13日地方開催山形県野球場でのビジター日本ハム7回戦で200勝を達成したパ・リーグこの年上位チーム僅差競り合ういわゆる「熱パ」となり、シーズン終盤近鉄西武オリックス三つ巴争いとなった川崎では10月12日13日ロッテオリックス3連戦が行われ、オリックス12日ダブルヘッダー連勝一方西武球場西武近鉄ダブルヘッダーでは近鉄西武猛打圧倒して優勝戦線から引きずり下ろし近鉄マジックを「2」とした。13日同じく川崎でのロッテ戦臨んだオリックス先発エース佐藤義則立てたが5回、愛甲猛決勝3ラン喫すなどし、5-3敗戦マジックを「1」とした近鉄10月14日藤井寺球場ダイエー戦で歓喜リーグ優勝果たした詳細10.19#1989年10月12日ダブルヘッダー参照1991年平成3年春季に、川崎市が約14億円を掛けた改修工事完了した。この2年の間にスタンド壁面の再塗装防球ネット嵩上げ一部座席取替えパネル式だったスコアボード電光化、フィールド人工芝敷設など段階的に施設改装行った近鉄ラルフ・ブライアント右翼上段の「リー・ネット」を超えて場外打球飛ばしていたことから、この改修工事期にネットがさらに嵩上げされ「ブライアント・ネット」と呼ばれたロッテ春季に「テレビじゃ見れない川崎劇場」を謳い文句誘客キャンペーン展開し自虐的なテレビコマーシャル話題呼んだ。しかし、この時の改修一部分だけであり、老朽化および狭隘化した施設そのもの改善されたわけではなく抜本的な設備改善望め状況ではなかった。 この頃千葉市千葉マリンスタジアム竣工させ、施設不備にさいなまれていたロッテに対して本拠地誘致積極的に進めていた。ロッテはこの誘致受け入れ1992年平成4年)から同球場本拠地にすることを発表した発表当初移転後当面の間川崎でも年間10試合程度公式戦開催予定する方向検討していたが、突如移転発表態度硬化した川崎市が、その抗議の意味で、川崎球場改修を盾に移転に関する収入補償求めてきた。これに対しロッテは、これまで長年にわたり川崎市川崎球場改修新施設整備求めてきたのを、ことごとく無視されたり反故にされ続けてきた経緯からこれ反発し、この要求拒否するとともに川崎での試合開催予定数も大幅に削減することを決めた川崎球場プロ野球本拠地として1991年終了した。なお、ロッテこの年球団史上初の観客動員100万達成となったロッテ観客動員数千葉移転後大幅に伸び、また川崎時代およびそれ以前とは異なり千葉移転後ロッテ球団運営積極的な方策を取ることが大幅に増え、さらにそれが功を奏して若年層ファン獲得にも成功したことから、ロッテファン気質オリオンズ時代とは異なるものとなったマリーンズファン参照)。 ロッテ本拠地として最終戦同年10月17日ダイエー戦(ダブルヘッダー第2試合)で7回降雨コールド勝利した勝利投手小宮山悟)。 ロッテ川崎時代リーグ優勝経験はないが、パ・リーグ2シーズン制時代1981年昭和56年)に川崎前期優勝決めており、これがプロ野球本拠地時代川崎において唯一の本拠地チーム胴上げとなった

※この「ロッテ本拠地時代」の解説は、「川崎球場」の解説の一部です。
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