オリオンズ時代
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「フランク・マンコビッチ」の記事における「オリオンズ時代」の解説
1962年(昭和37年)、大毎オリオンズに在籍していた捕手のニック・テスタの紹介で、近鉄バファローズに入団する話が持ち上がった。近鉄は前年末、実業家に転身するとして自ら去ったロン・ボトラに代わる外国人としてマンコビッチ獲得を決め、当時兵役中だったマンコビッチの除隊が済み次第、入団させる計画であった。一時はマンコビッチの前歴がAAどまりであることを知り、近鉄が逡巡する一幕もあったが、マンコビッチの球を受けたことがあるテスタが強力に推薦し、近鉄もマンコビッチの渡航を手配、シーズン開始から投げる、などと話が進んでいた。しかし、話はその後うやむやとなり、近鉄は別の外国人を獲得した。中止の理由としては、除隊手続きが実際には進んでいないことがわかり、もう待っていられないという判断があったためとも、AAという前歴で獲得意欲が薄れたためとも言われている。 結局テスタのいる大毎に入団することになり、7月13日に日本へ来た。除隊したばかりで練習していないから、という本人の希望で、採用は数日様子を見て決めることになったが、大毎首脳陣の印象はよく、監督の宇野光雄も19日時点で採用を決めていた。ところが所属球団変更で生じた手続き上の瑕疵により、そのままでは不法入国者となるおそれがあることが判明した。外国人選手はオールスター戦までに契約が済まなければその年は出場できないという規約もあり、厳しい日程であったが、球団が所管省に交渉し、7月26日に大毎との契約にこぎつけた。同日行われた入団発表の際に、登録名を「マニー」とすることが発表された。呼称に関しては、ファミリーネームのマンコビッチやその短縮形では日本語で下品な意味を連想させるとの配慮があったとされる。 規約上は7月28日の東映戦から出場する資格があったものの、この日は台風で試合が中止となり、7月31日の阪急戦が初登板となった。この日は4回から登板し、最初の打者レインズを三振に取って観衆から拍手が贈られた。しかし続く中田に本塁打を、太田にも二塁打を打たれ、この回2点を失った。その後は無失点におさえたが、毎回走者を出す不安定な投球で、マウンドではグラウンドに開いた穴をしきりに足で均そうとするなど、神経質な一面を見せた。8月4日の南海戦では南海に3点を先取された大毎が8回表に2点を取り、1点差に詰め寄った後の8回裏から登板したが、2点を取り返され、5-2で大毎は敗れた。2度の登板がいずれも不調に終わったことから、実力を疑う見方も出始め、宇野監督も起用を控えるようになった。 周囲の疑念に本人は「先発させてくれれば好投してみせる」と強気を崩さなかったが、先発での成績も芳しいものではなかった。8月12日の南海戦第1試合では先発で登板したが、大毎が得点する度に次の回で南海に打たれ、5回途中で降板した。やはり先発で登板した8月21日の近鉄戦では、プロ初打席の後藤忠弘を相手に制球に苦しみ、ボール先行からようやくフルカウントにしたところへ本塁打を打たれた。 入団時「10勝できる自信がある」と述べていたマンコビッチであったが、1勝も挙げられないままシーズンを終えた。10月には麻布に家を購入し、呼び寄せた妻子と一緒に暮らし始めたが、結局この年で退団することになる。
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オリオンズ時代
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オープン戦で活躍し、開幕戦から5番打者を打つ など、高卒1年目からレギュラーとして活躍。デビュー戦の4打席目(それまでの3打席は無安打)には早くも敬遠を受けた。6月7日以降には3番打者に定着し、オールスターゲームにもファン投票で選出され、スタメン出場を果たす。安打が1本足りず打率3割は逃すが、シーズンを通して打率・本塁打・打点部門のすべてでリーグ10位以内に入り(本塁打はリーグ6位)、出塁率は山内一弘と中西太に次いでリーグ3位の.414を記録した。139試合・592打席・490打数・84得点・146安打・24二塁打・7三塁打・87四球・5敬遠・5犠飛・出塁率.414はすべて高卒新人の歴代最高記録であり(三塁打はタイ記録)、打率.298・67打点・232塁打・10死球も1986年の清原和博に破られるまでは歴代最高記録であった。このうち87四球は新人の日本記録で、当時のパ・リーグ記録でもあった。同年は新人王を獲得する。この年に記録したRCWIN4.40は高卒新人選手としては歴代1位である(高卒2年目の翌1956年も4.39を記録)。バットの芯で正確に球を捕らえ、事も無げにヒットを打つ様から、新人にして「安打製造機」と呼ばれた。 翌1956年もリーグ9位の打率.282・リーグ4位の15本塁打を残すなど、高卒から2年連続で打率・本塁打・打点の部門のすべてでリーグ10位以内に入り、95四球で2年連続となるリーグ最多四球を記録。一塁手のベストナインに選出される活躍を見せた。しかし3年目以降はランナーがたまって打席が回ってくると「ここで打てなくて負けたら自分のせいだ」とマイナス思考に陥って凡退する、打てないと給料が下がることを気に病む、といったことを繰り返して精神面で深みに嵌り、伸び悩んだ。荒川博など早稲田出身者による宿舎での打撃論議の中で、様々なアドバイスを受けるが、結果には繋がらなかった。榎本は幼少時代に貧乏に苦しんだという経験によるトラウマから、凡退する度に「打率が3割を切ると給料がさがる」、「3割を打たなければ給料が上がらない。おばあちゃんを楽にしてやれない」と思い込み、肩に無駄な力が入りすぎてフォームが崩れて打てなくなり、さらにファンからの野次を真に受けて落ち込むなど、悪循環の繰り返しでスランプに陥っていた。 チーム事情もあり、1958年はクリーンナップを外れて1番打者を務めた期間もあった。1959年は主に2番打者を務め、10月には右翼手として起用された。同年オフ、チームメイトで先輩の荒川博に合気道を紹介され、藤平光一に師事。そこで合気道をヒントにして得た打法と呼吸を研究して精神面の強化を図り、打席内で体の力を抜く方法を会得する。 翌1960年には3番打者、一塁手に戻り、打率.344で首位打者を獲得する活躍を見せた。リーグ5位の66打点も残し、チームのリーグ優勝に貢献。山内一弘・田宮謙次郎・葛城隆雄らと共に「大毎ミサイル打線」の一翼を担った。大洋との日本シリーズでは第2戦に島田源太郎から2点本塁打を放つが、15打数3安打に終わり、チームも日本一には届かなかった。 1961年は主に1番打者や2番打者として出場。9月に24歳9か月で通算1000本安打を達成し、プロ野球史上最年少記録を樹立した。シーズン終盤まで張本勲と首位打者争いを繰り広げ、1番打者でスタメン出場した10月17日の東映戦(シーズン最終戦)では、タイトル争いのため1回に敬遠を受けた。同年シーズンはリーグ2位の打率.331、自己最多の180安打を記録する。 1962年からは3番打者に戻り、5月2日から6月3日にかけて23試合連続安打を記録した。翌1963年もリーグ2位の打率.318を記録するなど、チームの主力打者として活躍。1960年から1964年にかけ、毎年打率でリーグ5位以内に入った。1963年から1965年にかけては3番打者のほかに4番打者を任されることも多くなり、特に主力選手が抜けた1964年以降はチームの顔として期待されるようになる。 1965年は低迷するが、1966年にはシーズンを通してほぼ3番打者を務め、リーグ1位の打率.351・リーグ4位の24本塁打・リーグ3位の74打点という自己最高の成績を残して自身2度目の首位打者を獲得。当時のパ・リーグ新記録となる通算843四死球を樹立し、自身4度目の最多安打も記録した。翌1967年はリーグ7位の打率・リーグ2位の出塁率を残す。 1968年5月14日から6月18日までは2番打者を務め、それ以降は5番打者に定着し、シーズンではリーグ4位の打率.306を記録した。同年7月21日の対近鉄戦(東京スタジアム)ダブルヘッダー第一試合の第1打席にて、鈴木啓示投手の初球を打って右翼線への二塁打とし、プロ野球史上3人目となる通算2000本安打を達成。31歳7か月での達成はプロ野球史上最年少記録である。続いて行なわれたダブルヘッダー第二試合では、近鉄の安井智規がセーフティバントを試みて一塁ベースへ駆け込んだ際、榎本と強く接触したため、二人は口論から殴り合いに発展した。これが発端となって両チーム全員入り乱れての大乱闘となり、近鉄の控え内野手であった荒川俊三が榎本の頭部をバットで殴った。榎本は意識を失って倒れ、担架で球場医務室に運ばれるという災難に見舞われている。 1970年は5月下旬から主に1番打者として起用され、6月13日の西鉄戦では代打サヨナラ本塁打を放つなど、規定打席不足ながら打率.284・15本塁打の成績を残し、チームのリーグ優勝に貢献。巨人との日本シリーズでは、江藤慎一、前田益穂と併用され3試合の出場にとどまるが、7打数3安打と活躍した。 1971年には江藤が一塁手に定着し、出場機会が急減。同年はプロ野球史上5人目となる通算3500塁打を達成したが、負け試合だったということもあり、榎本に手を差し出したチームメイトは小山正明だけであった。
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