オリオンズ時代とは? わかりやすく解説

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オリオンズ時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 14:42 UTC 版)

フランク・マンコビッチ」の記事における「オリオンズ時代」の解説

1962年昭和37年)、大毎オリオンズ在籍していた捕手ニック・テスタ紹介で、近鉄バファローズ入団する話が持ち上がった近鉄前年末、実業家転身するとして自ら去ったロン・ボトラ代わる外国人としてマンコビッチ獲得決め当時兵役中だったマンコビッチの除隊済み次第入団させる計画であった一時はマンコビッチの前歴AAどまりであることを知り近鉄逡巡する一幕もあったが、マンコビッチの球を受けたことがあるテスタ強力に推薦し近鉄もマンコビッチの渡航手配シーズン開始から投げる、などと話が進んでいた。しかし、話はその後うやむやとなり、近鉄別の外国人獲得した中止理由としては、除隊手続き実際に進んでいないことがわかり、もう待っていられないという判断があったためともAAという前歴獲得意欲薄れたためとも言われている。 結局テスタのいる大毎入団することになり、7月13日日本へ来た。除隊したばかりで練習していないから、という本人希望で、採用数日様子見て決めることになったが、大毎首脳陣印象はよく、監督宇野光雄19日時点採用決めていた。ところが所属球団変更生じた手続き上の瑕疵により、そのままでは不法入国者となるおそれがあることが判明した外国人選手オールスター戦までに契約が済まなければその年は出場できないという規約もあり、厳し日程であったが、球団所管省に交渉し7月26日大毎との契約こぎつけた同日行われた入団発表の際に、登録名を「マニー」とすることが発表された。呼称に関しては、ファミリーネームのマンコビッチやその短縮形では日本語下品な意味を連想させるとの配慮があったとされる規約上は7月28日東映戦から出場する資格があったものの、この日は台風試合中止となり、7月31日阪急戦が初登となった。この日は4回から登板し最初打者レインズ三振に取って観衆から拍手贈られた。しかし続く中田本塁打を、太田にも二塁打打たれ、この回2点失ったその後は無失点おさえたが、毎回走者を出す不安定な投球で、マウンドではグラウンド開いた穴をしきりに足で均そうとするなど、神経質な一面見せた8月4日南海戦では南海3点先取された大毎が8回表に2点取り1点差に詰め寄った後の8回裏から登板したが、2点取り返され5-2大毎敗れた2度登板いずれも不調に終わったことから、実力を疑う見方出始め宇野監督起用控えようになった周囲疑念本人は「先発させてくれれば好投してみせる」と強気を崩さなかったが、先発での成績芳しいものではなかった。8月12日南海第1試合では先発登板したが、大毎得点する度に次の回で南海打たれ、5回途中で降板した。やはり先発登板した8月21日近鉄戦では、プロ初打席後藤忠弘相手制球苦しみボール先行からようやくフルカウントにしたところへ本塁打打たれた。 入団時「10勝できる自信がある」と述べていたマンコビッチであったが、1勝も挙げられないままシーズン終えた10月には麻布に家を購入し呼び寄せた妻子一緒に暮らし始めたが、結局この年退団することになる。

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オリオンズ時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 14:04 UTC 版)

榎本喜八」の記事における「オリオンズ時代」の解説

オープン戦活躍し開幕戦から5番打者を打つ など、高卒1年目からレギュラーとして活躍デビュー戦の4打席目(それまでの3打席無安打)には早くも敬遠受けた6月7日以降には3番打者定着しオールスターゲームにもファン投票選出されスタメン出場を果たす。安打1本足りず打率3割は逃すが、シーズン通して打率本塁打打点部門のすべてでリーグ10以内入り本塁打リーグ6位)、出塁率山内一弘中西太次いでリーグ3位の.414を記録した139試合・592打席490打数84得点146安打24二塁打・7三塁打87四球・5敬遠・5犠飛出塁率.414はすべて高卒新人歴代最高記録であり(三塁打タイ記録)、打率.298・67打点232塁打10死球1986年清原和博破られるまでは歴代最高記録であったこのうち87四球新人日本記録で、当時パ・リーグ記録でもあった。同年新人王獲得するこの年記録したRCWIN4.40は高卒新人選手としては歴代1位である(高卒2年目の翌1956年も4.39を記録)。バット正確に球を捕らえ事も無げにヒットを打つ様から、新人にして「安打製造機」と呼ばれた。 翌1956年リーグ9位の打率.282・リーグ4位の15本塁打を残すなど、高卒から2年連続打率本塁打打点部門のすべてでリーグ10以内入り95四球2年連続となるリーグ最多四球記録一塁手ベストナイン選出される活躍見せた。しかし3年目以降ランナーたまって打席回ってくると「ここで打てなくて負けた自分のせいだ」とマイナス思考に陥って凡退する、打てないと給料が下がることを気に病む、といったことを繰り返して精神面深みに嵌り、伸び悩んだ荒川博など早稲田出身者による宿舎での打撃論議の中で、様々なアドバイスを受けるが、結果には繋がらなかった。榎本幼少時代に貧乏に苦しんだという経験によるトラウマから、凡退する度に「打率が3割を切ると給料がさがる」、「3割を打たなければ給料上がらないおばあちゃん楽にしてやれない」と思い込み、肩に無駄な力が入りすぎてフォーム崩れて打てなくなり、さらにファンからの野次真に受けて落ち込むなど、悪循環繰り返しスランプに陥っていた。 チーム事情もあり、1958年クリーンナップ外れて1番打者務めた期間もあった。1959年は主に2番打者務め10月には右翼手として起用された。同年オフチームメイト先輩荒川博合気道紹介され藤平光一師事。そこで合気道ヒントにして得た打法呼吸研究して精神面強化図り打席内で体の力を抜く方法会得する。 翌1960年には3番打者一塁手戻り打率.344で首位打者獲得する活躍見せたリーグ5位の66打点残しチームリーグ優勝貢献山内一弘田宮謙次郎葛城隆雄と共に大毎ミサイル打線」の一翼担った大洋との日本シリーズでは第2戦に島田源太郎から2点本塁打放つが、15打数3安打終わりチーム日本一には届かなかった。 1961年は主に1番打者2番打者として出場9月24歳9か月通算1000本安打を達成しプロ野球史上最年少記録樹立したシーズン終盤まで張本勲首位打者争い繰り広げ、1番打者スタメン出場した10月17日東映戦(シーズン最終戦)では、タイトル争いのため1回敬遠受けた同年シーズンリーグ2位の打率.331、自己最多の180安打記録する1962年からは3番打者戻り5月2日から6月3日にかけて23試合連続安打記録した。翌1963年リーグ2位の打率.318を記録するなど、チーム主力打者として活躍1960年から1964年にかけ、毎年打率リーグ5位以内入った1963年から1965年にかけては3番打者のほかに4番打者任されることも多くなり、特に主力選手抜けた1964年以降チームの顔として期待されるうになる1965年低迷するが、1966年にはシーズン通してほぼ3番打者務めリーグ1位の打率.351・リーグ4位の24本塁打リーグ3位74打点という自己最高の成績残して自身2度目首位打者獲得当時パ・リーグ新記録となる通算843四死球樹立し自身4度目最多安打記録した。翌1967年リーグ7位の打率リーグ2位の出塁率を残す。 1968年5月14日から6月18日までは2番打者務めそれ以降5番打者定着しシーズンではリーグ4位の打率.306を記録した同年7月21日の対近鉄戦(東京スタジアムダブルヘッダー第一試合の第1打席にて、鈴木啓示投手初球打って右翼線への二塁打とし、プロ野球史上3人目となる通算2000本安打を達成31歳7か月での達成プロ野球史上最年少記録である。続いて行なわれダブルヘッダー第二試合では、近鉄安井智規セーフティバント試みて一塁ベース駆け込んだ際、榎本強く接触したため、二人口論から殴り合い発展した。これが発端となって両チーム全員入り乱れて大乱闘となり、近鉄控え内野手であった荒川俊三榎本頭部バット殴った榎本意識失って倒れ担架球場医務室運ばれるという災難見舞われている。 1970年5月下旬から主に1番打者として起用され6月13日西鉄戦では代打サヨナラ本塁打放つなど、規定打席不足ながら打率.284・15本塁打成績残しチームリーグ優勝貢献巨人との日本シリーズでは、江藤慎一前田益穂併用され3試合出場にとどまるが、7打数3安打活躍した1971年には江藤一塁手定着し出場機会急減同年プロ野球史上5人目となる通算3500塁打達成したが、負け試合だったということもあり、榎本に手を差し出したチームメイト小山正明だけであった

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