ロッテ移転後
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その後、1992年(平成4年)7月3日と4日に千葉ロッテマリーンズ対近鉄バファローズ2連戦が開催された。1993年(平成5年)8月6日に15年ぶりのセ・リーグ公式戦として横浜ベイスターズ対阪神タイガース戦が組まれたものの当日は雨天中止となり予備日も設定されなかったため、前述の1992年のロッテ対近鉄戦が川崎で最後の1軍公式戦となった。公式戦の開催試合数はセ・リーグが1394試合、パ・リーグが1059試合の計2453試合。この他日本シリーズ2試合、パ・リーグのプレーオフ4試合、オールスターゲーム7試合などが行われた。オープン戦は1994年(平成6年)3月19日に横浜対日本ハム戦が開催され、横浜が前身の大洋以来16年ぶりに川崎で主催した試合となった。2軍では1992年(平成4年)10月3日に巨人対中日のジュニア日本選手権が行われた他、1996年(平成8年)に巨人主催のイースタン・リーグ(2軍)公式戦が1試合開催された。1997年(平成9年)にも巨人主催の二軍公式戦が1試合開催されたが、これが川崎で最後のプロ野球公式戦となった(この2試合ともに後述する巨人・阿波野秀幸が登板)。 プロ野球の開催はなくなったが、以前より会場となっていた高校野球や首都大学野球、社会人野球(東京スポニチ大会、都市対抗野球神奈川予選)などアマチュア野球の公式戦はその後も継続して行われた。フィールドが人工芝になってからはアメリカンフットボール「Xリーグ」の公式戦が本格的に行われるようになった。 1993年は夏の高校野球神奈川県大会で雨天順延による影響により、決勝戦会場となった。 他にもプロレスの会場として使用され、特にプロレス団体のFMWは川崎球場を聖地と呼び、通算7回(スタンド撤去前は6回)に亘って興行としてFMW川崎球場大会を開催している。川崎球場の観客動員記録を持っているのもプロ野球ではなくFMWであるが、これはプロレスではスタンドだけでなく、フィールド部分もアリーナ席として使用するためである。 この間、富士見公園内にある各施設の老朽化が問題視され、川崎市は再整備計画について検討を開始し、川崎球場は1998年(平成10年)秋季国民体育大会のかながわ・ゆめ国体終了後に撤去し、その後市内の他の場所に代替施設を建設する方針を1995年(平成7年)11月に決定した。これに伴い、かつて頓挫した新鶴見のドーム球場構想が再び浮上したが、市の財政難もあって計画は事実上頓挫した。川崎球場は取り壊されることなく、その後も野球をはじめ各種イベントが行われた他、草野球等の一般利用などに供用された。 1999年(平成11年)12月に市が実施した耐震検査の結果、スタンド部分が震度6程度の地震で倒壊する危険性があることが指摘され、2000年(平成12年)1月に市は、3月31日限りで川崎球場を閉鎖してスタンドの解体、撤去を行うと発表した。建築当時の予算が総額6000万円に抑制され、鉄骨に米軍が使用していた鋼材や日本鋼管が持ち込んだ廃材が使用されるなど躯体が脆弱な上、高度成長期の大気汚染によって老朽化がより著しく進行した可能性があるとも言われた。この間、市側が抜本的な改修や補強をほとんど行ってこなかったのが最終的に仇となった。撤去決定の知らせを受け、ロッテファンを中心とする野球ファン有志が2月26日、川崎球場を借り切ってお別れイベントを実施。このイベントではオリオンズOBによる紅白戦も行われ、スタンドではかつての低迷期のようにキャッチボールをするファンやベンチに横になって仮眠を取るファンも見られたが、流しそうめんまで敢行したファンはいなかった。アマチュア野球の最後の公式戦は3月に開催された社会人野球の東京スポニチ大会」となった。 3月26日に「川崎球場ファイナルシーン」と銘打って、かつて川崎球場を本拠とした横浜とロッテによるオープン戦が開催され、これが川崎球場で最後のプロ野球の試合となった。当日は別れを惜しむファンが詰めかけ、場外に長蛇の列ができ、スタンドでは21,000人の観客が最後の試合を見届けた。試合は打撃戦の末、ロッテが22-6で勝利したが、本塁打がロッテ側のみに10本(プロ野球公式戦での1チーム最多本塁打記録は9本)、しかも本来は長距離打者ではない小坂誠が1イニング2本塁打の快記録を作った。当時の横浜は近鉄時代に10.19で2試合連続リリーフ登板した阿波野秀幸や川崎時代のロッテ最終期のエースだった小宮山悟が在籍しており、登板はなかったものの多くの観衆から声援を受けた。試合終了後に閉場セレモニーが行われ、市民がフィールド上で「ありがとう」の人文字を造った。この日、満塁を含む2本塁打を打ったロッテの堀幸一は「僕がプロ入り初めての一軍の試合で本塁打を打ったのはここ。最後の試合で打てて、いい思い出になる」、10.19の第2試合で同点本塁打を放ったロッテ打撃コーチの高沢秀昭は「自分のいい時も悪い時も知っている球場。10.19でのホームランが今でも話題に上るのは嬉しい」、その本塁打を打たれた阿波野は横浜市出身とあって、川崎では高校時代からプレーしており「高校野球でも負けたし、今でも高沢さんが申し訳なさそうにダイヤモンドを回る姿が忘れられない。この球場でいい思い出はつくれなかったけど、一球の重みを教えてくれた、僕の野球人生になくてはならない球場」と、それぞれに思い出を語っていた。 直後の3月31日に川崎球場は閉場した。 「川崎劇場ファイナル」スコア(観衆=2万1000人) チーム123456789R千葉ロッテ 0 0 1 4 6 0 0 8 3 22横浜 1 3 0 0 1 1 0 0 0 6勝:黒木知宏 敗:斎藤隆 本塁打ロ:堀幸一、ジェフ・バリー、初芝清、小坂誠(以上は各2本)、福浦和也、立川隆史
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