ロッテ移転後とは? わかりやすく解説

ロッテ移転後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 01:01 UTC 版)

川崎球場」の記事における「ロッテ移転後」の解説

その後1992年平成4年7月3日4日千葉ロッテマリーンズ近鉄バファローズ2連戦開催された。1993年平成5年8月6日15年ぶりのセ・リーグ公式戦として横浜ベイスターズ阪神タイガース戦が組まれたものの当日雨天中止となり予備日設定されなかったため、前述1992年ロッテ近鉄戦が川崎最後1軍公式戦となった公式戦開催試合数はセ・リーグが1394試合パ・リーグが1059試合の計2453試合この他日本シリーズ2試合パ・リーグプレーオフ4試合オールスターゲーム7試合などが行われた。オープン戦1994年平成6年3月19日横浜対日本ハム戦が開催され横浜前身大洋以来16年ぶりに川崎主催した試合となった2軍では1992年平成4年10月3日巨人対中日のジュニア日本選手権が行われた他、1996年平成8年)に巨人主催イースタン・リーグ2軍公式戦1試合開催された。1997年平成9年)にも巨人主催二軍公式戦1試合開催されたが、これが川崎最後プロ野球公式戦となった(この2試合ともに後述する巨人阿波野秀幸登板)。 プロ野球の開催なくなったが、以前より会場となっていた高校野球首都大学野球社会人野球東京スポニチ大会都市対抗野球神奈川予選)などアマチュア野球公式戦その後継続して行われたフィールド人工芝になってからはアメリカンフットボールXリーグ」の公式戦本格的に行われるようになった1993年夏の高校野球神奈川県大会で雨天順延による影響により、決勝戦会場となった。 他にもプロレス会場として使用され、特にプロレス団体FMW川崎球場聖地呼び通算7回(スタンド撤去前は6回)に亘って興行としてFMW川崎球場大会開催している。川崎球場観客動員記録持っているのもプロ野球ではなくFMWであるが、これはプロレスではスタンドだけでなく、フィールド部分アリーナ席として使用するためである。 この間富士見公園内にある各施設老朽化問題視され川崎市再整備計画について検討開始し川崎球場1998年平成10年秋季国民体育大会かながわ・ゆめ国体終了後撤去しその後市内他の場所代替施設建設する方針1995年平成7年11月決定したこれに伴い、かつて頓挫した新鶴見のドーム球場構想が再び浮上したが、市の財政難もあって計画事実上頓挫した川崎球場取り壊されることなくその後野球をはじめ各種イベントが行われた他、草野球等の一般利用などに供用された。 1999年平成11年12月に市が実施した耐震検査結果スタンド部分震度6程度地震倒壊する危険性があることが指摘され2000年平成12年1月に市は、3月31日限り川崎球場閉鎖してスタンド解体撤去を行うと発表した建築当時予算総額6000万円抑制され鉄骨米軍使用していた鋼材日本鋼管持ち込んだ廃材使用されるなど躯体脆弱な上、高度成長期大気汚染によって老朽化がより著しく進行した可能性があるとも言われた。この間、市側が抜本的な改修補強をほとんど行ってこなかったのが最終的にとなった撤去決定知らせを受け、ロッテファン中心とする野球ファン有志2月26日川崎球場借り切ってお別れイベント実施。このイベントではオリオンズOBによる紅白戦行われスタンドではかつての低迷期のようにキャッチボールをするファンベンチに横になって仮眠を取るファン見られたが、流しそうめんまで敢行したファンはいなかった。アマチュア野球最後公式戦3月開催され社会人野球東京スポニチ大会となった3月26日に「川崎球場ファイナルシーン」と銘打って、かつて川崎球場本拠とした横浜ロッテによるオープン戦開催され、これが川崎球場最後プロ野球試合となった当日別れを惜しむファン詰めかけ、場外長蛇の列ができ、スタンドでは21,000人の観客最後試合見届けた試合打撃戦の末、ロッテ22-6勝利したが、本塁打ロッテ側のみに10本(プロ野球公式戦での1チーム最多本塁打記録は9本)、しかも本来は長距離打者ではない小坂誠1イニング2本塁打の快記録作った当時横浜近鉄時代10.19で2試合連続リリーフ登板した阿波野秀幸川崎時代ロッテ最終期エースだった小宮山悟在籍しており、登板はなかったものの多く観衆から声援受けた試合終了後閉場セレモニーが行われ、市民フィールド上で「ありがとう」人文字造った。この日、満塁を含む2本塁打打ったロッテ堀幸一は「僕がプロ入り初めての一軍試合本塁打打ったのはここ。最後試合打てて、いい思い出になる」、10.19第2試合同点本塁打放ったロッテ打撃コーチ高沢秀昭は「自分のいい時も悪い時も知っている球場10.19でのホームラン今でも話題上るのは嬉しい」、その本塁打打たれ阿波野は横浜市出身とあって川崎では高校時代からプレーしており「高校野球でも負けたし今でも高沢さんが申し訳なさそうにダイヤモンドを回る姿が忘れられない。この球場いい思い出はつくれなかったけど、一球の重み教えてくれた、僕の野球人生なくてはならない球場」と、それぞれに思い出語っていた。 直後3月31日川崎球場閉場した。 「川崎劇場ファイナルスコア観衆2万1000人) チーム123456789R千葉ロッテ 0 0 1 4 6 0 0 8 3 22横浜 1 3 0 0 1 1 0 0 0 6勝:黒木知宏 敗:斎藤隆 本塁打ロ:堀幸一ジェフ・バリー初芝清小坂誠(以上は各2本)、福浦和也立川隆史

※この「ロッテ移転後」の解説は、「川崎球場」の解説の一部です。
「ロッテ移転後」を含む「川崎球場」の記事については、「川崎球場」の概要を参照ください。

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