ロッテ復帰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 14:21 UTC 版)
2011年12月23日、千葉ロッテマリーンズへの復帰が決定し、発表された。大村の放出を決定したフロントが退任し、後任が大村の呼び戻しに好意的だったため、ロッテ復帰への障害は無くなっていた。登録名はサブロー、背番号も3に決まった。3年連続ロッテ在籍時の個人応援歌が変更されている。 2012年 開幕から5番を任されたが、その後不振のジョシュ・ホワイトセルに代わって4番に起用され、前半戦のチーム快進撃を支える。しかし、夏場に調子を落とし、ホワイトセル復帰後は6番や7番などの下位に回った。守備は、当初は左翼手で、ホワイトセル離脱後は主に指名打者を務め、井口資仁やホワイトセルなど他の野手が指名打者で出場する場合には左翼手も務めた。また、シーズン前から一塁手の練習も始め、9月21日のオリックス戦で初めて一塁手として出場した。この年は最終的に自己最多となる137試合に出場したが、打率.239、7本塁打、52打点と不本意な成績に終わった。それでも得点圏打率は.290、リーグトップの78四球を記録する。シーズン終了後に右肘の手術を受けた。 2013年 開幕戦は6番・指名打者で先発する。シーズン序盤から不振が続き代打での出場が多くなる。6月29日のソフトバンク戦では9回裏、代打で登場して12年ぶりのサヨナラ打を放つ。調子が上がらないまま7月末に怪我で2軍落ちをする。8月末に1軍に復帰。その後は復調し、主に左翼手でスタメンの座を取り戻した。しかしシーズンを通しては73試合の出場で打率.245、5本塁打、24打点と、またしても不本意な成績に終わった。しかも例年は高い打率を残す得点圏打率が.183、と持ち味の勝負強さを発揮できなかった。前年は指名打者の出場が多かったが、当シーズンはクレイグ・ブラゼルやG.G.佐藤の加入もあり左翼手として守備についた試合の方が多かった。 2014年 8年間続けてきた開幕スタメンを逃すも、開幕戦で9回に代打で出場し、安打を放つ。しかし、その後は振るわず、10打席以上連続無安打が続くも、4月4日、対日本ハム戦でシーズン初タイムリーを含むマルチ安打を放ってからは、徐々に調子を上げてゆく。5月は打撃絶好調で、2005年から10年連続となる4番も務め、月間MVP候補に挙がる程の活躍を見せた。(.324、2本塁打、11打点、OPS.867)。一時は打率が.330を超えるも、交流戦に入ってからは徐々に調子を落とし、終盤には途中加入のアルフレド・デスパイネの活躍と、自身の失速が重なり、出番が激減。最終的には打率.248、4本塁打、25打点と前年とほぼ同様の成績に終わった。一方で、得点圏打率は.284と昨年から大幅に上昇した。また2年ぶりに右翼の守備にもついた。 2015年 開幕から不調が続き主に代打起用。6月15日の対ヤクルト戦で初ホームランを放つもその後も調子は上がらなかった。10月4日の対日本ハム戦で勝ち越し2点タイムリーを放ち、チームのCS出場に貢献した。しかしCSは出番がなくシーズンが終わり最終的に36試合で打率.217(46打数10安打)、本塁打1、打点4と不調なシーズンとなった。 2016年 8月31日、球団オフィシャルサイトにて2016年限りでの現役引退が発表された。年齢に加え、本年は一度も一軍に昇格出来なかったことで退き際を悟ったという。現役引退に際し、「今季限りでの現役を引退することを決めました。千葉ロッテマリーンズで2005年に31年ぶりの日本一など、日本一を2度経験することも出来ました。幸せな野球人生でした。それはすべて、どんな時も応援してくれたファンの皆様、そして関係者を始め、色々な形でサポートしてくれた方々のおかげだと思っています。感謝をしています。22年間、本当にありがとうございました。」とコメントした。9月25日の対オリックス戦(QVCマリン)で引退試合を行い、「4番・指名打者」として先発出場した。9回表にはDHを解除し、左翼手および右翼手の守備に就いた。打撃では、最後の打席となった第4打席で二塁打を記録し、自ら引退の花道を飾った。引退の挨拶では、「私にはもう1つの夢があります。この千葉ロッテマリーンズを日本一の球団にすることです。その夢に向かって、勇往邁進してまいります。」と述べている。なお、ロッテ球団としては初のパブリックビューイングも実施された。また、引退セレモニー、および(引退に際しての)現役生活を振り返る記事等を通して、西岡剛、鈴木大地、西野勇士等から、一人の野球人として的確なアドバイスを送ったことに対する感謝の言葉が寄せられたほか、引退試合では巨人時代のチームメイト(阿部慎之助、坂本勇人、長野久義、内海哲也、山口鉄也、2014 - 2015年にロッテに在籍したルイス・クルーズ)が応援に駆け付ける等、その人望の厚さが伺える引き際となった。12月2日、自由契約公示された。
※この「ロッテ復帰」の解説は、「サブロー」の解説の一部です。
「ロッテ復帰」を含む「サブロー」の記事については、「サブロー」の概要を参照ください。
ロッテ復帰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 02:51 UTC 版)
2009年11月23日に千葉ロッテマリーンズへ復帰し、11月28日に入団会見が行われ背番号は49に決まった。翌年3月9日には登録名の姓を本名の「藪田」から略字を使った「薮田」に変更している。 2010年は開幕当初は、抑えに起用予定の小林宏之が故障で出遅れたため、暫定的に抑えを任されたが、小林の復帰後はセットアッパーとなり、小林は一軍昇格後に抑えを任された。自身もシーズンを通して活躍。特にクライマックスシリーズから日本シリーズでは7試合に登板して10イニングで自責点0と際立った活躍を見せた。チームはペナントレースこそ3位に終わったが、2005年以来のクライマックスシリーズで勝利し、日本シリーズ進出となり、日本一に輝いた。 2011年は小林宏の移籍に伴い自身初のシーズンを通してのクローザーの役目を任される。防御率・WHIPは高水準を記録し、ブラウンセーブは2回、31セーブを記録するなど自身の役割を充分に全うしたシーズンとなった。一方チームは最下位に沈んだ。リーグ3位とはいえ、昨年日本一となったチームがその翌年に最下位に終わったのはパ・リーグ初となる。 2012年も昨シーズンに引き続きクローザーを務めた。8月30日、通算1000投球回数達成。「正直、ここまでこられるとは思っていませんでした」と謙虚にコメントした。しかし、僅差や同点の場面で打ち込まれるパターンが多く、61試合に登板したが1勝6敗、防御率3.34、救援失敗数は両リーグ最多タイの8度と不本意なシーズンとなってしまった。チームも前半戦は首位に立ったが、後半戦で一気に失速し、10月3日のオリックス・バファローズ戦でアーロム・バルディリスにサヨナラ適時打を浴び、5位に終わった。 2013年は右肩痛からの回復を目指し二軍でリハビリを続けていたが一軍での登板がなく、9月29日に現役引退を発表した。10月6日の本拠地最終戦となった対オリックス戦の試合後に、同じく今季限りでの現役引退を表明した小野晋吾と共に引退セレモニーを行い、マウンドに立ち打席に立ったサブローに対し三球三振に打ち取り、ファンへの挨拶の後ナインに胴上げされ、グラウンドを1周した。
※この「ロッテ復帰」の解説は、「薮田安彦」の解説の一部です。
「ロッテ復帰」を含む「薮田安彦」の記事については、「薮田安彦」の概要を参照ください。
ロッテ復帰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 19:18 UTC 版)
「ブライアン・シコースキー」の記事における「ロッテ復帰」の解説
2007年12月14日に翌2008年シーズンより5年ぶりに千葉ロッテマリーンズに復帰することが発表された。4月4日に復帰後初勝利を挙げると、前年退団した薮田安彦、藤田宗一、小林雅英(YFK)に代わるリリーフの柱として若手投手陣を引っ張り、リリーフながら5勝を挙げるなど活躍。シーズン後半にはシコースキー、川崎雄介、荻野忠寛を中心とした勝利の方程式が確立された。オールスターゲーム後の防御率は0.00だった。 2009年前半は安定感を誇り、シーズン途中より荻野に代わって抑えに定着。8勝5敗15セーブ、防御率2.19の成績を残す一方、救援失敗も相次ぎ、被本塁打は8と前年に比べて増加した。 ロッテは2010年シーズンも残留を求めて交渉を行っていたが、合意に至らず11月17日に退団が発表された。
※この「ロッテ復帰」の解説は、「ブライアン・シコースキー」の解説の一部です。
「ロッテ復帰」を含む「ブライアン・シコースキー」の記事については、「ブライアン・シコースキー」の概要を参照ください。
- ロッテ復帰のページへのリンク