野球人として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 08:13 UTC 版)
現役時代は俊足巧打の外野手として鳴らした。甘いマスクと華のあるプレー、実直な姿勢などが幅広い年代のファンに愛され、イチローも子供の頃に憧れた選手として名前を挙げている。打席での構えでバットをグルグル回す「円月打法」から広角に打ち分け、安打製造機と呼ばれた。 左利き(左投左打・食事も左)だが、ペンのみ右手を使用。 柔和な風貌とは対照的に硬骨漢で知られ、上層部相手にも「言うべきことは言う」という姿勢を貫いており、多くのエピソードを持つ。中日時代は選手会長として球団側に物申す選手であった(人気・実力を持ちながらトレードに出されたのはそれが一因とされる〈後述〉)。また、西武時代には監督の森祇晶が、「清原和博を三塁にして、秋山幸二を中堅、田尾に一塁を守らせる」構想を練ったが田尾は反対した。そのことがスタメン起用の減少、シーズンオフのトレードにつながったとも言われるが定かではない。田尾本人は「森監督は勝負師でしたが、僕とは馬が合わなくて、根本(陸夫)さんにトレードに出してくれと直訴し阪神に行くことになったんですよ」と語っている。阪神時代も、チーム成績が低迷したため若手育成目的の選手起用をする監督の村山実に対し、勝つための野球をすべきであると主張した。田尾によると「その年の開幕前、村山監督に助言を求められ、言いたいことを言ったら、イヤな奴と思われたんでしょう。5月に二軍行きを命じられたんですよ。その時、村山監督がいる間はクビにならないと決めた。僕のエネルギー源でしたね。弱みを見せないで、やる気を前面に出しながら、若手の模範になってやろうと。それで二軍で結果を残して、一軍に上げざるを得ない状況にして、そのあとサヨナラ本塁打を3本打ったんですよ。翌年も1本打っているんですが、僕のサヨナラ本塁打は村山監督の時だけなんですよ」と語っている。徒党を組んだり派閥を作ったりすることも嫌っており、中日時代には当時「犬猿の仲」と噂され、それぞれを筆頭にチーム内が二派に分かれているとも言われた星野仙一、谷沢健一の両者ともそれぞれ普通に付き合っていた。なお、谷沢は星野の没後に、自身のYoutubeチャンネルで決して星野とは不仲ではなかったことを語っている。 チームが広島と激しく優勝争いをしていた1984年のシーズン中、選手会長として優勝時の年俸アップを球団に打診したが色よい返事が得られなかった。優勝を逸してシーズンが終わった後「希望通り2位になりましたよ」と球団サイドとの話し合いで発言した。田尾が西武にトレードされたのはそのあとである。 2005年シーズンに楽天の監督を務めた際は、選手を「使えない」と否定することから入らないことを心掛けていた。しかし、その一方試合後のコメントでは選手陣のミスプレーや好不調に苦言を呈する場面も少なくなく、開幕2日目の投壊による大敗後には「二軍のレベルにも達していない」と辛辣な発言をしていた。実際、西武時代の監督であった広岡達朗も現役時代の田尾の後輩との接し方やその際の言動に関して「相手のミスや弱点を見抜くことはできるものの、そこからそれをどう改善していくのかについては見出すことが得意ではなく、指導者に必要とされる根気強くサポートできるだけの器量や辛抱強さに欠いていると思われる部分が見受けられる」と評したこともある。 楽天監督時代には球団オーナーの三木谷浩史との確執が取りざたされた。監督就任時には田尾が「フランチャイズが仙台なので、ユニフォームに『東北』、『仙台』などの地域名を入れて欲しい」と三木谷に言い、三木谷が「いい案だねえ」と答えたのにもかかわらずユニフォームには地域名は一文字も入ってなかったとのこと。なお、退団後の2010年から「TOHOKU」と入った限定ユニフォームという形でこの案は採用されている。ただし、島田の回想によると、三木谷本人は球団の地元での人気の基盤を作った功績は全く否定しておらず、翌年も田尾の続投を期待していたものの、結局は島田たちフロント幹部の結論を受け入れざるを得なかったという。 山崎武司は「田尾監督の指導によるフォームの改造が、楽天時代に好成績を残すことができるようになった要因の一つだと思っています」と述べている。 監督退任後の2006年には『行列のできる法律相談所』にゲスト出演し、監督解任時の交渉について語っている。3年契約の途中での契約解除だったこともあり、楽天フロントに「残りの契約分は功労金を出すことは約束するが、楽天および球団の名誉を棄損する言動を行った場合は減額する」という条件を出されたことに激怒し、2006年の1年分の補償だけは認めたものの、それ以外の功労金に対しては拒否する態度を示した。 2016年2月7日放送の『サンデーモーニング』のコーナー「御意見番スポーツ」にゲスト出演した際、世論が清原和博の覚醒剤取締法違反事件に揺れる中、楽天監督時代の2005年に球団が清原の獲得に動いていたという秘話を明かし、「あのとき、来てくれていれば、違う方向にいったかもしれない」と残念がった。
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