川上哲治との関係
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現役時代は川上と毎年打率上位を争い(与那嶺入団以降では、川上・与那嶺がいずれも3回首位打者を獲得している)、現役引退後も互いに監督として競い合った。与那嶺が1960年限りで巨人を退団し中日に移籍したのは、水原茂の後任として監督に就任した川上が、成績が急低下した与那嶺を戦力外と見なし、自身のチーム構想に組み入れなかったことが原因とされている。そのため川上を激しく敵視しており、関連するエピソードをいくつも残している。 当時同じ中日選手だった板東英二の著書『プロ野球知らなきゃ損する』には「中日の選手が川上さんと呼ぶと『川上じゃない、哲と呼べ』と訂正させた」、「ベテランなのに若手と一緒に泥まみれになり、哲をやっつける為に鬼の形相でキャンプ練習に取り組んでいた」「与那嶺さんが巨人との試合で逆転ホームランを打った時、ウォーリーの大合唱が起きて試合が中断するほどだった」などの記述があり、近藤貞雄も「ドラゴンズの人間がうっかり彼の前で『川上さんが』などと口にしようものなら、『川上さんなんて言わんでよろしい、テツでいい』と一喝するなど、ライバル意識は衰えることがなかった」と著書で記している。中日監督時代には、川上率いる巨人との試合で劣勢になると「哲のヤロー!! チックショー!!」と叫んだり、試合前のミーティングでも「哲に負けるな!!」と片言の日本語で吠えまくっていたという。1974年に川上率いる巨人のV10を阻むセントラル・リーグ優勝を決めた際には、「とうとうやったヨ、哲やっつけたヨ。Happyネ。長い間日本にいて良かったヨ、本当に良かったヨ……」と大はしゃぎしていたという。なお、川上はこの年限りで巨人軍監督を引退しており、与那嶺はまさに1960年のリベンジを果たした形となった[要出典]。 もっとも、川上本人も憎まれていたことは十分に承知しており、「(川上が巨人の監督に就任した当時の)与那嶺は既に体力が衰えていたため、彼を戦力外としたのは仕方のないことだった」「与那嶺は日本語が上手くなかったためにコーチとしての留任も全く考えられなかった」と川上は語っている。 1978年に二軍外野守備・走塁コーチとして巨人に復帰し、1980年には打撃コーチを務めたが、同年に長嶋茂雄が監督を解任されると、同時に与那嶺も辞表を提出した。この時の長嶋解任には川上が関わっていたとする説があり、それに反発してコーチを辞任したのではないかと見られている。コーチ辞任後は巨人OB会には不参加を貫いた(コーチ時代はOB戦に出場している)ほか、1996年にナゴヤ球場で行われた中日対巨人のOB戦では、川上が巨人OBの監督として出場した一方、与那嶺は中日OBとして出場している。その一方で、川上が関与していなかった世界少年野球大会では巨人のユニフォームを着用し、協賛行事の日米OBオールスターゲームに出場したことがある。
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川上哲治との関係
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江夏豊は自身の著書で阪神監督時代の藤本の立場を示すエピソードとして、以下のように記している。 江夏が若手の頃、オールスターゲームに出場した時、川上哲治セ・リーグ監督の指示により、登板数が多かった(オールスターで3連投)。当時の江夏自身はそれに満足していた。しかし、オールスター明けの阪神巨人戦の試合前において、藤本は川上を阪神ベンチに呼び出し「おい哲!うちの豊(江夏のこと)を乱暴に使いやがって!この馬鹿野郎!」とものすごい剣幕で叱った。上記のように投手の酷使を嫌っていた藤本だが、かつての教え子とは言え、ライバル球団の監督を叱るという意外な出来事に対して、既に名監督として評されていた川上は直立不動で藤本の話を聞いていた。入団まもない頃だった江夏は藤本に非常に可愛がられていた。野球人として最晩年にさしかかっていたその頃の藤本は、孫のような年齢の江夏の目には好々爺のような存在に映っていて、藤本は江夏に野球界の昔話をのんびり聞かせるのが大好きだったという 。その藤本がこのとき、昔の鬼監督時代に突然戻って川上を怒鳴りつけ、天下の川上監督が為すすべなく立ち尽くしていたその光景に江夏は心底衝撃を受けたという。
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