阪神監督時代とは? わかりやすく解説

阪神監督時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 05:24 UTC 版)

岡田彰布」の記事における「阪神監督時代」の解説

2003年オフ星野仙一が健康問題のために監督勇退したのを受け、後任として一軍監督就任球団史上初の大阪府出身監督となった就任時の挨拶は「期待してもらって結構です」。監督初年度2004年井川慶優勝貢献した選手不調に加え伊良部秀輝セットポジション欠点ジョージ・アリアス好不調の波の激しさマイク・キンケード度重なる死球によるけが、さらにジェロッド・リガン負傷やその年に開催アテネオリンピック野球出場したジェフ・ウィリアムス安藤優也不在による戦力低下響いて4位に終わった2005年9月7日ナゴヤドーム中日との2ゲーム差での首位決戦において、9回表微妙な本塁クロスプレーアウト判定伏線になり(本塁憤死した走者奇しくも中村豊)、その直後の9回裏本セーフ判定激昂し選手全員一時引き揚げさせ抗議その後試合再開するも、赤星憲広落球一打サヨナラ負けピンチになる。ここで監督就任後初めマウンド向かいクローザー久保田智之にかけた言葉は「もう打たれろ! 打たれてもお前は悪ないからな。オレ責任持つからもうムチャクチャほったれ(投げたれ)!」というものだった久保田後続渡邉博幸タイロン・ウッズ連続三振抑え11回表の中村豊本塁打決勝点となり死闘制した。 この一見投げやりにも取れ言葉の裏には、たとえこの試合負けさらには優勝逃したとしても全責任自分背負うという強い覚悟込められていた。試合終了後中日監督落合博満に「今日監督負けた」とまで言わしめた。結果的にこの戦いを境に阪神連勝重ね亡父誕生日に当たる9月29日甲子園球場での対巨人戦リーグ優勝達成した。 しかし、日本シリーズ千葉ロッテマリーンズに4戦4敗のストレート負けとなったまた、その際リードされているからという理由JFKジェフ・ウィリアムス藤川球児久保田智之)を起用しなかったことにファン解説者マスコミなどから不満があがった11月19日甲子園球場開催されファン感謝デーイベント「夢のOB交流戦」という紅白戦で、岡田白組プレイングマネージャーとして出場試合最後に代打オレ」で打席に立ち、サヨナラ2点本塁打打ちMVP輝いた2006年3月6日絶滅危惧されている野生トラ保護するため、トラ保護基金に2006年シーズンの公式勝利数と同じ数のトラ保護レンジャー用の装備寄付する表明。そして、2006年勝利数と同じ84分の装備品代金756,000円(1セット約9,000円)を寄付した。この活動評価され12月12日インド政府から「阪神最後まで諦めない姿勢勇気づけられた。支援に非常に感謝している」などと記され感謝メッセージ受け取っている。 2007年6月8日の対オリックス戦甲子園球場)の8回裏打者鳥谷敬守備妨害巡り球審谷博抗議行った際に谷の胸を突き飛ばし現役コーチ及び監督生活を通じて初めての退場処分を受ける。8月16日対中日戦(京セラドーム)では、8回裏一塁走者二塁アウトになったことをめぐり二塁塁審井野修抗議して胸を突き飛ばしたため、2度目退場となった。なお、同じシーズン中2度退場になった監督は他にも複数いるが、阪神では岡田が初であり、セ・リーグ日本人監督でも初めであった。なお余談ではあるがその2人の審判はのちに中日落合博満監督退場処分としている。 2008年チーム開幕からスタートダッシュ成功し首位独走していたが、北京オリンピック野球日本代表主力である新井貴浩矢野輝弘藤川球児派遣して以後チーム状態が空転し始め打撃陣の不振故障者の続出などで、一時13ゲーム差をつけていた巨人終盤逆転されペナントレース優勝逃した。この責任を取る形でこのシーズン限りでの辞任発表したクライマックスシリーズ1ステージ最終戦敗退したことでこのシリーズ最後指揮となった試合終了後選手会長赤星憲広発案により、選手コーチから監督務めた年数と同じ5回胴上げされた。

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阪神監督時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 14:09 UTC 版)

星野仙一」の記事における「阪神監督時代」の解説

中日監督退任した直後NHKから野球解説者復帰打診受けていたが、2001年オフ12月17日低迷続いていた阪神タイガース監督就任背番号中日監督時代と同じ77ヘッドコーチには中日時代からの片腕存在島野育夫チーフ打撃コーチ田淵幸一招聘した。田淵阪神コーチ断った場合星野阪神監督引き受けなかったと田淵語っている。 島野10月中日二軍監督就任し複数年契約予定であったが、胃の手術のため正式契約はまだ済んでいなかった。中日との交渉難航し最終的に星野中日白井文吾オーナー西川順之助球団社長らと会い話をつけた(西川最初難色示し野崎も「私が逆の立場なら難色示していただろう」と述べている)。 阪神との初交渉控えた12月11日巨人監督勇退したばかり長嶋茂雄スポーツ報知新年企画対談した際、阪神ユニフォームを着るよう説得された。長嶋から「安芸キャンプコーヒー飲ませてよ」と言われた際には返す言葉がなかったという。 星野オーナー久万俊二郎推薦したのは前任監督野村克也だという。著書によると野村任期途中で自分では阪神再建不可能と悟り、「負け癖のある今の状態の阪神再建できるとすれば熱血指導型の西本幸雄さんか星野だ」と考えていた。当時阪神OB会が強い権力持ちベンチにも入って選手勝手に指導したりする場面もあり、野村との確執があったともいう。星野オーナー直談判し、「ここまで低迷したのは、失礼ですがオーナー全てあなたの責任ですよ。」と発言した球団社長野崎勝義も「星野監督誕生させたのは野村克也さんの直言がキーワードになった」と記している 星野著書の中で、『野村さんは阪神での3年間、「弱者強者に勝つ野球」というものを標榜されていたそうだが、私の場合は「弱者強者にする野球」だ。野村さんといえばご存知ID野球野球考えスポーツ、頭でやるスポーツとして捉え指導していくスタイルの人だが、私が阪神選んだのは端的にいうと体野球だ。これはどちらがいいとか悪いとかの問題ではなく、弱いチーム選手鍛えて戦っていくため順番として問題として考えてもらえればいいだろう』と記している。 オフオリックスからジョージ・アリアスFA日本ハムから片岡篤史獲得した就任1年目2002年にはチーム史2度目開幕7連勝記録し5月6月首位走った故障者が出始め息切れ結果的に4位に終わる。優勝争いから脱落した9月に「今岡井川以外は全員トレード要員だから覚悟しておくように」と全選手通告したオフ通告通り24人の選手放出し広島からFA宣言した金本知憲テキサス・レンジャーズ自由契約となった伊良部秀輝中日自由契約になった久慈照嘉日本ハムから下柳剛中村豊らをトレード獲得するなど、投打大型補強行った首脳陣フロント陣では一軍ブルペンコーチに西本聖一軍バッテリーコーチ達川光男二軍投手コーチ山口高志編成部顧問岡田英津也伊藤菊雄招聘した。 翌2003年は、金本伊良部下柳矢野桧山進次郎片岡井川慶アリアスジェロッド・リガンジェフ・ウィリアムス主力選手活躍加え今岡誠赤星憲広藤本敦士吉野誠若手急成長し、首位独走7月8日にはセ・リーグ史上最速となる優勝マジック49点灯させた。結局この年圧倒的な強さチーム18年ぶり、監督としては自身3度目リーグ優勝を果たす。巨人には1710敗1分け18年ぶりに勝ち越した。しかしダイエーとの日本シリーズでは3勝4敗で敗れる。 しかし、かねてから星野には高血圧症という持病があり、2002年ペナント開幕戦の対巨人戦では試合後に体調崩しベンチ裏で記者待たせになっていたことがあったり、2003年野崎覚えているだけで試合中4回倒れており、その都度島野ヘッド敵陣バレないよう指揮を執っていた。7月27日対中日戦では試合中気分悪くなり、1時間ほど指揮島野任せベンチ裏で横になっていたこともあった。どちらのときも平常時72から135までに安定している血圧値が165から210にまで上昇していたという[要出典]。 日本シリーズ前日10月16日メディアで星野監督日本シリーズ終了後勇退」と報じられ[要出典]、シリーズ終了後10月28日に「健康上の理由」で退任することを正式に発表した星野後任田淵推薦する固辞した為、守備走塁コーチ岡田彰布昇格2010年行われた阪神ファンが選ぶ阪神監督というアンケート2位岡田彰布に倍以上の差をつけ、1位になっている

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阪神監督時代

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金本知憲」の記事における「阪神監督時代」の解説

2015年10月17日2016年シーズンからの阪神タイガース監督就任要請受諾した発表。同球団の第33監督就任背番号現役時代と同じ6に決定10月22日監督として初め臨んだドラフト会議では、明治大学髙山俊交渉めぐって東京ヤクルトスワローズ競合抽選となり、一度ヤクルト監督真中満交渉引き当てたかに思われたが、直後当たりくじ引いたのは金本のほうであったことがわかり、壇上でのインタビューで「ビデオ判定ホームラン覆った心境」と話した2016年中日との開幕3連戦京セラドーム大阪)では黒星スタートとなるも第2.3戦を勝利し2勝1敗で開幕カード勝ち越した。だが巨人相手最初の3連戦を2勝1敗で勝ち越すも、その後苦戦続き甲子園での巨人戦2度同一カード3連敗喫するなど引き分け挟み9連敗喫した9月19日にようやく勝利した甲子園での9連敗響き対戦成績9勝15敗1分け負け越しリーグ優勝した広島にも7勝18敗と大きく負け越すなど苦戦続き金本政権1年目は4位で終わったまた、先発陣である藤浪晋太郎広島戦序盤で5失点し、懲罰完投こそさせなかったものの結果的に8回161球を投げさせたことや、延長戦投手打席が回るも代打出さず、それが響いて敗れるなど采配疑問視されることもあった。 2017年前年引き続き若手積極的に起用する中、打撃陣ではFA移籍加入した糸井嘉男福留孝介などのベテラン打線の軸に据え投手陣では前年一軍登板無し終わっていた桑原謙太朗セットアッパー抜擢するなど中継ぎ陣の強化推進したことによって前年より安定感のあるチーム状況作り出した。それにより開幕カード負け越しによる4位スタート除けば最低順位3位シーズン通してリーグ上位推移し最終的に7861敗4分と17勝ち越し記録し順位2位前年から大きく躍進した。しかし、金本政権下では初出場となったクライマックスシリーズにおいて3位横浜DeNA対戦し1勝2敗で1stステージ敗退となった就任1年目であった前年散見されたような疑問視される采配改善見せ積極的休養やそれに伴う選手起用代打起用投手継投など各所勝利に導く好采配見せることもあった。 2018年開幕から若手選手結果残せず、この年獲得した大砲候補であったウィリン・ロサリオも全く結果残せ極度貧打悩まされ、また投手陣前年ほどの安定感見られず、9月下旬までは何とかCS出場争い加わっていたものの、雨天中止多さによる日程厳しさ絶好調であった北條糸井らの故障離脱もあり大失速し17年ぶりの最下位になった。この成績責任を取る形で金本辞任したその後記者会見が行われたが、写真テレビカメラNGという異例の対応が取られた。

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