阪神監督時代
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2003年オフ、星野仙一が健康問題のために監督を勇退したのを受け、後任として一軍監督に就任。球団史上初の大阪府出身の監督となった。就任時の挨拶は「期待してもらって結構です」。監督初年度の2004年は井川慶ら優勝に貢献した選手の不調に加え伊良部秀輝のセットポジションの欠点、ジョージ・アリアスの好不調の波の激しさ、マイク・キンケードの度重なる死球によるけが、さらにジェロッド・リガンの負傷やその年に開催のアテネオリンピックの野球に出場したジェフ・ウィリアムスと安藤優也の不在による戦力低下が響いて4位に終わった。 2005年9月7日ナゴヤドーム、中日との2ゲーム差での首位決戦において、9回表の微妙な本塁クロスプレーでアウトの判定が伏線になり(本塁憤死した走者は奇しくも中村豊)、その直後の9回裏本塁セーフの判定に激昂し、選手全員を一時引き揚げさせ抗議。その後試合は再開するも、赤星憲広の落球で一打サヨナラ負けのピンチになる。ここで監督就任後初めてマウンドへ向かい、クローザー・久保田智之にかけた言葉は「もう打たれろ! 打たれてもお前は悪ないからな。オレが責任持つからもうムチャクチャほったれ(投げたれ)!」というものだった。久保田は後続の渡邉博幸、タイロン・ウッズを連続三振で抑え、11回表の中村豊の本塁打が決勝点となり死闘を制した。 この一見投げやりにも取れる言葉の裏には、たとえこの試合に負け、さらには優勝を逃したとしても全責任を自分が背負うという強い覚悟が込められていた。試合終了後、中日監督の落合博満に「今日は監督で負けた」とまで言わしめた。結果的にこの戦いを境に阪神は連勝を重ね、亡父の誕生日に当たる9月29日、甲子園球場での対巨人戦でリーグ優勝を達成した。 しかし、日本シリーズは千葉ロッテマリーンズに4戦4敗のストレート負けとなった。また、その際にリードされているからという理由でJFK(ジェフ・ウィリアムス、藤川球児、久保田智之)を起用しなかったことにファンや解説者にマスコミなどから不満があがった。 11月19日、甲子園球場で開催されたファン感謝デーのイベント「夢のOB交流戦」という紅白戦で、岡田は白組のプレイングマネージャーとして出場。試合の最後に「代打、オレ」で打席に立ち、サヨナラ2点本塁打を打ちMVPに輝いた。 2006年3月6日、絶滅が危惧されている野生のトラを保護するため、トラ保護基金に2006年シーズンの公式勝利数と同じ数のトラ保護レンジャー用の装備を寄付すると表明。そして、2006年の勝利数と同じ84個分の装備品の代金75万6,000円(1セット約9,000円)を寄付した。この活動が評価され、12月12日にインド政府から「阪神の最後まで諦めない姿勢に勇気づけられた。支援に非常に感謝している」などと記された感謝のメッセージを受け取っている。 2007年6月8日の対オリックス戦(甲子園球場)の8回裏、打者鳥谷敬の守備妨害を巡り球審の谷博に抗議を行った際に谷の胸を突き飛ばし、現役・コーチ及び監督生活を通じて初めての退場処分を受ける。8月16日の対中日戦(京セラドーム)では、8回裏に一塁走者が二塁でアウトになったことをめぐり二塁塁審の井野修に抗議して胸を突き飛ばしたため、2度目の退場となった。なお、同じシーズン中に2度退場になった監督は他にも複数いるが、阪神では岡田が初であり、セ・リーグ日本人監督でも初めてであった。なお余談ではあるがその2人の審判はのちに中日の落合博満監督を退場処分としている。 2008年、チームは開幕からスタートダッシュに成功し首位を独走していたが、北京オリンピックの野球日本代表に主力である新井貴浩・矢野輝弘・藤川球児を派遣して以後、チーム状態が空転し始め、打撃陣の不振や故障者の続出などで、一時は13ゲーム差をつけていた巨人に終盤で逆転されペナントレース優勝を逃した。この責任を取る形でこのシーズン限りでの辞任を発表した。クライマックスシリーズ第1ステージ最終戦で敗退したことでこのシリーズが最後の指揮となった。試合終了後、選手会長の赤星憲広の発案により、選手・コーチから監督を務めた年数と同じ5回胴上げされた。
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阪神監督時代
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中日監督を退任した直後、NHKから野球解説者復帰の打診を受けていたが、2001年オフの12月17日に低迷が続いていた阪神タイガースの監督に就任。背番号は中日監督時代と同じ77。ヘッドコーチには中日時代からの片腕的存在島野育夫、チーフ打撃コーチに田淵幸一を招聘した。田淵が阪神のコーチを断った場合、星野は阪神の監督を引き受けなかったと田淵に語っている。 島野は10月に中日二軍監督に就任し、複数年契約の予定であったが、胃の手術のため正式契約はまだ済んでいなかった。中日との交渉は難航し、最終的には星野が中日の白井文吾オーナー、西川順之助球団社長らと会い話をつけた(西川は最初難色を示し、野崎も「私が逆の立場なら難色を示していただろう」と述べている)。 阪神との初交渉を控えた12月11日、巨人監督を勇退したばかりの長嶋茂雄とスポーツ報知の新年企画で対談した際、阪神のユニフォームを着るよう説得された。長嶋から「安芸キャンプでコーヒー飲ませてよ」と言われた際には返す言葉がなかったという。 星野をオーナーの久万俊二郎に推薦したのは前任監督の野村克也だという。著書によると野村は任期途中で自分では阪神再建は不可能と悟り、「負け癖のある今の状態の阪神を再建できるとすれば、熱血指導型の西本幸雄さんか星野だ」と考えていた。当時の阪神はOB会が強い権力を持ち、ベンチにも入って選手を勝手に指導したりする場面もあり、野村との確執があったともいう。星野もオーナーに直談判し、「ここまで低迷したのは、失礼ですがオーナー、全てあなたの責任ですよ。」と発言した。球団社長の野崎勝義も「星野新監督を誕生させたのは野村克也さんの直言がキーワードになった」と記している 星野は著書の中で、『野村さんは阪神での3年間、「弱者が強者に勝つ野球」というものを標榜されていたそうだが、私の場合は「弱者を強者にする野球」だ。野村さんといえばご存知ID野球。野球は考えるスポーツ、頭でやるスポーツとして捉え、指導していくスタイルの人だが、私が阪神で選んだのは端的にいうと体の野球だ。これはどちらがいいとか悪いとかの問題ではなく、弱いチームの選手を鍛えて、戦っていくための順番として問題として考えてもらえればいいだろう』と記している。 オフにオリックスからジョージ・アリアス、FAで日本ハムから片岡篤史を獲得した。 就任1年目の2002年にはチーム史上2度目の開幕7連勝を記録し、5月・6月首位を走ったが故障者が出始めて息切れ、結果的に4位に終わる。優勝争いから脱落した9月に「今岡、井川以外は全員がトレード要員だから覚悟しておくように」と全選手に通告した。オフに通告通りに24人の選手を放出し、広島からFA宣言した金本知憲、テキサス・レンジャーズを自由契約となった伊良部秀輝、中日を自由契約になった久慈照嘉、日本ハムから下柳剛・中村豊らをトレードで獲得するなど、投打の大型補強を行った。首脳陣とフロント陣では一軍ブルペンコーチに西本聖、一軍バッテリーコーチに達川光男、二軍投手コーチに山口高志、編成部顧問に岡田英津也、伊藤菊雄を招聘した。 翌2003年は、金本、伊良部、下柳、矢野、桧山進次郎、片岡、井川慶、アリアス、ジェロッド・リガン、ジェフ・ウィリアムスら主力選手の活躍に加え、今岡誠、赤星憲広、藤本敦士、吉野誠ら若手が急成長し、首位を独走、7月8日にはセ・リーグ史上最速となる優勝マジック49を点灯させた。結局、この年、圧倒的な強さでチーム18年ぶり、監督としては自身3度目のリーグ優勝を果たす。巨人には17勝10敗1分けと18年ぶりに勝ち越した。しかしダイエーとの日本シリーズでは3勝4敗で敗れる。 しかし、かねてから星野には高血圧症という持病があり、2002年のペナント開幕戦の対巨人戦では試合後に体調を崩しベンチ裏で記者を待たせ横になっていたことがあったり、2003年は野崎が覚えているだけで試合中4回倒れており、その都度島野ヘッドが敵陣にバレないよう指揮を執っていた。7月27日の対中日戦では試合中に気分が悪くなり、1時間ほど指揮を島野に任せベンチ裏で横になっていたこともあった。どちらのときも平常時72から135までに安定している血圧値が165から210にまで上昇していたという[要出典]。 日本シリーズ前日の10月16日、メディアで「星野監督、日本シリーズ終了後に勇退」と報じられ[要出典]、シリーズ終了後の10月28日に「健康上の理由」で退任することを正式に発表した。星野は後任に田淵を推薦するが固辞した為、守備走塁コーチの岡田彰布が昇格。 2010年に行われた阪神ファンが選ぶ阪神名監督というアンケートで2位岡田彰布に倍以上の差をつけ、1位になっている。
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阪神監督時代
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2015年10月17日、2016年シーズンからの阪神タイガース監督就任要請を受諾したと発表。同球団の第33代監督に就任。背番号は現役時代と同じ6に決定。10月22日、監督として初めて臨んだドラフト会議では、明治大学・髙山俊の交渉権をめぐって東京ヤクルトスワローズと競合抽選となり、一度はヤクルト監督の真中満が交渉権を引き当てたかに思われたが、直後に当たりくじを引いたのは金本のほうであったことがわかり、壇上でのインタビューで「ビデオ判定でホームランに覆った心境」と話した。 2016年の中日との開幕3連戦(京セラドーム大阪)では黒星スタートとなるも第2.3戦を勝利し2勝1敗で開幕カードを勝ち越した。だが巨人相手に最初の3連戦を2勝1敗で勝ち越すも、その後は苦戦が続き、甲子園での巨人戦は2度の同一カード3連敗を喫するなど引き分けを挟み9連敗を喫した。9月19日にようやく勝利したが甲子園での9連敗が響き対戦成績9勝15敗1分けと負け越し、リーグ優勝した広島にも7勝18敗と大きく負け越すなど苦戦が続き金本政権1年目は4位で終わった。また、先発陣の柱である藤浪晋太郎が広島戦の序盤で5失点し、懲罰で完投こそさせなかったものの結果的に8回161球を投げさせたことや、延長戦で投手に打席が回るも代打を出さず、それが響いて敗れるなど采配を疑問視されることもあった。 2017年は前年に引き続き若手を積極的に起用する中、打撃陣ではFA移籍で加入した糸井嘉男や福留孝介などのベテランを打線の軸に据え、投手陣では前年一軍登板無しに終わっていた桑原謙太朗をセットアッパーに抜擢するなど中継ぎ陣の強化を推進したことによって前年より安定感のあるチーム状況を作り出した。それにより開幕カード負け越しによる4位スタートを除けば最低順位は3位とシーズンを通してリーグ上位を推移し、最終的には78勝61敗4分と17の勝ち越しを記録し順位は2位と前年から大きく躍進した。しかし、金本政権下では初出場となったクライマックスシリーズにおいて3位横浜DeNAと対戦し1勝2敗で1stステージ敗退となった。就任1年目であった前年に散見されたような疑問視される采配は改善を見せ、積極的休養やそれに伴う選手起用、代打起用、投手の継投など各所で勝利に導く好采配を見せることもあった。 2018年は開幕から若手選手が結果を残せず、この年獲得した大砲候補であったウィリン・ロサリオも全く結果を残せず極度の貧打に悩まされ、また投手陣も前年ほどの安定感が見られず、9月下旬までは何とかCS出場権争いに加わっていたものの、雨天中止の多さによる日程の厳しさや絶好調であった北條や糸井らの故障離脱もあり大失速し、17年ぶりの最下位になった。この成績の責任を取る形で金本は辞任した。その後、記者会見が行われたが、写真やテレビカメラはNGという異例の対応が取られた。
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