中日監督時代
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2003年10月8日、中日の監督に就任することが発表された(3年契約)。就任早々、16人の選手の背番号を変更し、ユニフォームのデザインを中日伝統のロサンゼルス・ドジャース型のデザインから変更した。このユニフォームは退任する2011年まで使用された。 「この1年は補強を凍結し、個々の選手の能力を10%底上げして日本一を獲る」と、トレードなどの補強を凍結することを公言し、引退試合後に巨人内部でのゴタゴタに巻き込まれて現役続行を決意した川相昌弘、横浜を解雇されたドミンゴ・グスマン、広島を解雇された筒井正也しか獲得しなかった。また、キャンプ初日に紅白戦を実施する、異例の采配スタートとなった。 2004年、宣言通り就任初年度にしてリーグ優勝を達成した。開幕戦では3年間一軍登板のなかった川崎憲次郎を開幕投手に起用し、川崎は5失点で降板するも逆転勝ちした。エースの川上憲伸を3戦目に先発させ3連敗のリスクを避けると同時に、川崎の開幕起用で「全選手横一線」と選手に刺激を与えること、FAで中日に加入しながら一度も登板していない川崎に最後のチャンスを与えること、先発投手についての情報の漏洩がないかを確かめることが目的だったと、退任後語っている(「外部に漏らしそうなコーチには伝えていなかった」としている)。また、投手起用については投手コーチの森繁和がリリーフを含めて全て決めていたが、この川崎の開幕起用のみは落合が決めた。落合が森に対し、川崎の開幕起用を提案したところ「長いシーズンでは負けてもいい試合がいくつかあるが、開幕戦からいきなり捨てゲームを作るのか」と呆れられたという。また、守備面においてはアライバコンビを使い続け、落合もこのコンビを重宝していた。日本シリーズでは、先に3勝しながらも3勝4敗で敗れ、日本一にはとどかなかった。 2005年、主砲のタイロン・ウッズの藤井秀悟に対する殴打事件による出場停止や、交流戦における負け越しにより失速し、2位に終わる。 2006年、監督として2度目のリーグ優勝を達成。普段はベンチに腰をかけて表情一つ変えない落合が、巨人との優勝決定戦でウッズが満塁本塁打を放つと泣きながら抱きついて出迎え、試合終了後の優勝監督インタビューでも冒頭で言葉が出ないほど感極まっていた。日本ハムとの日本シリーズでは1勝4敗で敗れまたも日本一ならず。オフに球団と新たに2年契約を結んだ。 2007年、ペナントレースでは連覇を逃し2位。セ・リーグでは同年から導入されたクライマックスシリーズで阪神に2連勝、巨人に3連勝と勝ち進み、日本シリーズに出場した。日本ハムと戦い4勝1敗で日本一を奪取したが、中日球団として53年ぶり2度目の日本一であり、更にその後行われたアジアシリーズでもチームをアジアチャンピオンに導いた。これらの功績が認められ、自身にとって、また中日の監督・選手として初となる正力松太郎賞を受賞した。 2008年は3位に終わる。監督就任5年目で順位・勝利数・勝率のいずれもワーストだった。主力の不振や衰え、福留孝介のメジャー移籍や、北京五輪で5人の主力選手が抜けたことで打撃力がリーグワーストの成績に陥ったことが響いた。クライマックスシリーズ2ndステージでは、巨人に1勝したのみに終わり敗退。オフに球団と新たに3年契約を結んだ。 2009年は2位に終わる。クライマックスシリーズ2ndステージでも、巨人に1勝したのみに終わり敗退した。川上、タイロン・ウッズ、中村紀洋がチームを去り、谷繁元信がケガで離脱したこともあり、7月には首位巨人に1.5ゲーム差まで迫ったが失速し、最終的に首位と12ゲーム差をつけられた。 2010年、監督として3度目のリーグ優勝を達成。井端弘和のケガによる離脱、トニ・ブランコの不調により得点力が大幅に低下し、一時は首位に8ゲーム差をつけられたが、ホームゲームにおいて勝率.746と無類の強さを発揮し、9月10日に首位に立ち、巨人・阪神との激しい三つ巴の争いを制して143試合目にして優勝を達成。クライマックスシリーズ2ndステージで巨人を4勝1敗で破り日本シリーズに進出したが、パ・リーグ3位から勝ち上がってきたロッテに2勝4敗1分で敗れ、日本一はならなかった。なお、中日球団で7年連続で指揮した監督となったが、与那嶺要(1972年 - 1977年)と星野仙一(第二次政権時の1996年 - 2001年)の6年連続を上回り、球団歴代1位となった。 2011年1月14日、2011年度野球体育博物館(野球殿堂)競技者表彰に選出された。この年は攻撃陣の絶不調により前半戦は苦戦し、8月3日には5位に転落、首位ヤクルトとは最大10ゲーム差をつけられたが、9月に入りリーグトップの投手陣の働きにより巻き返し、ゲーム差を縮めた。 シーズン中の9月22日、球団から同年シーズン限りでの監督退任が発表されるが、10月6日に首位に浮上、18日に142試合目にして優勝を決め(監督として4度目のリーグ優勝)、強力な投手力で球団史上初のリーグ連覇を達成した。 監督としての契約は10月限りで切れていたので、以降は1日ごとの契約更新となった。ヤクルトとのクライマックスシリーズファイナルステージを4勝2敗(リーグ優勝アドバンテージ1勝を含む)で制し、2年連続(監督として5度目)の日本シリーズ進出を決め、試合後には当初予定されていなかった胴上げが行われた。日本シリーズは3勝4敗で前年に続き日本一を逃したため、これが中日監督としての最後の胴上げとなった。11月10日、セ・リーグより最優秀監督賞に選出されたことが発表された。 11月20日、日本シリーズで福岡ソフトバンクホークスに敗れた試合終了を以って、監督退任となった。 落合が監督を務めた時期の中日は、8年間でリーグ優勝4回、日本シリーズ出場5回、日本一1回、Bクラス(4位以下)0回だった。歴代の中日監督では、最高の成績である。
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中日監督時代
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2019年は春季キャンプで松坂大輔が右肩を故障、藤嶋健人が血行障害、ドラフト1位の根尾昂が肉離れを起こすなど、怪我人が相次いだ。3・4月は首位争いをするなど善戦していたが、ソイロ・アルモンテ、笠原祥太郎、平田良介、福田永将など主力選手が怪我や不調などで相次いで離脱してから一転、借金9になるなど、苦戦が続いた。7月に8連勝し、2位タイまで追い上げたが、その後好調の高橋周平、アルモンテが相次いで負傷離脱したこともあり、大幅に失速。終盤は9月14日に大野雄大が対阪神戦(ナゴヤドーム)でノーヒットノーランを達成するなど、上位球団相手に善戦したが、同24日の対DeNA戦(ナゴヤドーム)に敗れ、7年連続Bクラスと3年連続5位が確定した。 2020年は怪我人が多く出たことも影響し8月6日時点で最大借金9と低迷した。しかし、シーズン後半以降は復調し、6回終了時にリードしていた場合、37連勝を記録するなど、就任時から取り組んだブルペン整備が功を奏して勝ちパターンを確立した。10月23日には貯金8を記録。最終的には60勝55敗5分と貯金5でシーズンを終えた。3位に入り、8年ぶりのAクラスを達成。2013年からの連続Bクラスを7年でストップさせ、監督通算成績も5割に戻した。 2021年は阪神から自由契約となった福留孝介が14年ぶりにチーム復帰を果たし、6月には加藤匠馬の交換トレードとして千葉ロッテから加藤翔平を獲得した。投手力ではリーグトップの防御率を維持する一方、打撃力ではリーグ最下位でクリーンナップの一角を担う高橋周平や阿部寿樹の不振が響いた。また、8月にはトミー・ジョン手術を受けて復帰を目指していた木下雄介が亡くなる悲しい出来事もあった。2年連続のAクラスならびに10年ぶりのリーグ優勝が期待されたが、最終的には55勝71敗17分けで2年ぶりのBクラスとなる5位に陥落。「3年間優勝争いができなかった」として成績不振の責任をとって監督退任の申し入れをし、10月12日に球団から発表された。
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