中日監督時代とは? わかりやすく解説

中日監督時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 12:58 UTC 版)

落合博満」の記事における「中日監督時代」の解説

2003年10月8日中日監督就任することが発表された(3年契約)。就任早々16人の選手背番号変更しユニフォームのデザイン中日伝統ロサンゼルス・ドジャース型のデザインか変更した。このユニフォーム退任する2011年まで使用された。 「この1年補強凍結し個々選手能力10%底上げして日本一獲る」と、トレードなどの補強凍結することを公言し引退試合後に巨人内部でのゴタゴタ巻き込まれ現役続行決意した川相昌弘横浜解雇されドミンゴ・グスマン広島解雇され筒井正也しか獲得しなかった。また、キャンプ初日紅白戦実施する異例采配スタートとなった2004年宣言通り就任初年度にしてリーグ優勝達成した開幕戦では3年一軍登板のなかった川崎憲次郎開幕投手起用し川崎は5失点降板する逆転勝ちした。エース川上憲伸を3戦目に先発させ3連敗リスク避けると同時に川崎開幕起用で「全選手横一線」と選手刺激与えること、FA中日加入しながら一度登板していない川崎最後のチャンス与えること、先発投手についての情報の漏洩がないかを確かめることが目的だったと、退任語っている(「外部漏らしそうなコーチには伝えていなかった」としている)。また、投手起用については投手コーチ森繁和リリーフ含めて全て決めていたが、この川崎開幕起用のみは落合決めた落合対し川崎開幕起用提案したところ「長いシーズンでは負けてもいい試合いくつかあるが、開幕戦からいきなり捨てゲーム作るのか」と呆れられたという。また、守備面においてはアライバコンビ使い続け落合もこのコンビ重宝していた。日本シリーズでは、先に3勝しながらも3勝4敗で敗れ日本一にはとどかなかった。 2005年主砲タイロン・ウッズ藤井秀悟対す殴打事件による出場停止や、交流戦における負け越しにより失速し2位に終わる。 2006年監督として2度目リーグ優勝達成普段ベンチに腰をかけて表情一つ変えない落合が、巨人との優勝決定戦ウッズ満塁本塁打放つ泣きながら抱きついて出迎え試合終了後優勝監督インタビューでも冒頭言葉出ないほど感極まっていた。日本ハムとの日本シリーズでは1勝4敗で敗れまたも日本一ならず。オフ球団新たに2年契約結んだ2007年ペナントレースでは連覇逃し2位セ・リーグでは同年から導入されクライマックスシリーズ阪神に2連勝巨人に3連勝勝ち進み日本シリーズ出場した日本ハム戦い4勝1敗で日本一奪取したが、中日球団として53年ぶり2度目日本一であり、更にその後行われたアジアシリーズでもチームアジアチャンピオン導いた。これらの功績認められ自身にとって、また中日監督選手として初となる正力松太郎賞受賞した2008年3位に終わる。監督就任5年目順位勝利数勝率いずれもワーストだった。主力不振衰え福留孝介メジャー移籍や、北京五輪で5人の主力選手抜けたことで打撃力がリーグワーストの成績陥ったことが響いたクライマックスシリーズ2ndステージでは、巨人に1勝したのみ終わり敗退オフ球団新たに3年契約結んだ2009年2位に終わる。クライマックスシリーズ2ndステージでも、巨人に1勝したのみ終わり敗退した川上タイロン・ウッズ中村紀洋チーム去り谷繁元信ケガ離脱したこともあり、7月には首位巨人1.5ゲーム差まで迫った失速し最終的に首位12ゲーム差つけられた。 2010年監督として3度目リーグ優勝達成井端弘和ケガによる離脱トニ・ブランコ不調により得点力大幅に低下し一時首位に8ゲーム差つけられたが、ホームゲームにおいて勝率.746と無類強さ発揮し9月10日首位に立ち、巨人・阪神との激し三つ巴争い制して143試合目にして優勝達成クライマックスシリーズ2ndステージで巨人を4勝1敗で破り日本シリーズ進出したが、パ・リーグ3位から勝ち上がってきたロッテに2勝4敗1分で敗れ日本一はならなかった。なお、中日球団7年連続指揮した監督となったが、与那嶺要1972年 - 1977年)と星野仙一第二次政権時の1996年 - 2001年)の6年連続上回り球団歴代1位となった2011年1月14日2011年度野球体育博物館野球殿堂競技者表彰選出された。この年攻撃陣の絶不調により前半戦苦戦し8月3日には5位に転落首位ヤクルトとは最大10ゲーム差つけられたが、9月入りリーグトップの投手陣働きにより巻き返しゲーム差縮めたシーズン中9月22日球団から同年シーズン限りでの監督退任発表されるが、10月6日首位浮上18日142試合目にして優勝決め監督として4度目リーグ優勝)、強力な投手力球団史上初のリーグ連覇達成した監督としての契約10月限り切れていたので、以降1日ごとの契約更新となったヤクルトとのクライマックスシリーズファイナルステージを4勝2敗(リーグ優勝アドバンテージ1勝を含む)で制し2年連続監督として5度目)の日本シリーズ進出決め試合後には当初予定されていなかった胴上げが行われた。日本シリーズは3勝4敗で前年続き日本一逃したため、これが中日監督としての最後胴上げとなった11月10日セ・リーグより最優秀監督賞選出されたことが発表された。 11月20日日本シリーズ福岡ソフトバンクホークス敗れた試合終了以って監督退任となった落合監督務めた時期中日は、8年間でリーグ優勝4回、日本シリーズ出場5回、日本一1回Bクラス(4位以下)0回だった。歴代中日監督では、最高の成績である。

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中日監督時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 22:48 UTC 版)

与田剛」の記事における「中日監督時代」の解説

2019年春季キャンプ松坂大輔右肩故障藤嶋健人血行障害ドラフト1位根尾昂肉離れ起こすなど、怪我人相次いだ3・4月は首位争いをするなど善戦していたが、ソイロ・アルモンテ笠原祥太郎平田良介福田永将など主力選手怪我不調などで相次いで離脱してから一転借金9になるなど、苦戦続いた7月に8連勝し2位タイまで追い上げたが、その後好調高橋周平アルモンテ相次いで負傷離脱したこともあり、大幅に失速終盤9月14日大野雄大が対阪神戦ナゴヤドーム)でノーヒットノーラン達成するなど、上位球団相手善戦したが、同24日の対DeNA戦ナゴヤドーム)に敗れ7年連続Bクラス3年連続5位が確定した2020年怪我人多く出たことも影響し8月6日時点最大借金9と低迷した。しかし、シーズン後以降復調し、6回終了時リードしていた場合37連勝記録するなど、就任時から取り組んだブルペン整備功を奏して勝ちパターン確立した10月23日には貯金8を記録最終的に6055敗5分と貯金5でシーズン終えた3位入り8年ぶりのAクラス達成2013年から連続Bクラス7年ストップさせ、監督通算成績も5割に戻した2021年阪神から自由契約となった福留孝介14年ぶりにチーム復帰果たし6月には加藤匠馬交換トレードとして千葉ロッテから加藤翔平獲得した投手力ではリーグトップの防御率維持する一方打撃力ではリーグ最下位クリーンナップ一角を担う高橋周平阿部寿樹不振響いたまた、8月にはトミー・ジョン手術受けて復帰を目指していた木下雄介亡くなる悲しい出来事もあった。2年連続Aクラスならびに10年ぶりのリーグ優勝期待されたが、最終的に557117分け2年ぶりのBクラスとなる5位に陥落。「3年優勝争いができなかった」として成績不振責任をとって監督退任申し入れをし、10月12日球団から発表された。

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