中日選手兼任監督時代とは? わかりやすく解説

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中日選手兼任監督時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 02:07 UTC 版)

谷繁元信」の記事における「中日選手兼任監督時代」の解説

2013年10月9日GMとして復帰した落合博満推薦により、2014年シーズンより選手兼任監督としてチーム指揮執ることが球団より発表された。NPBでは古田敦也ヤクルト以来7年ぶり、チームとしては野口明以来59年ぶりとなる選手兼任監督となった2014年シーズンは、7月22日の対DeNA戦横浜スタジアム)で2回無死一、二塁の場面で久保康友から本塁打放ち野村克也記録更新するNPB新記録新人から26年連続本塁打。また選手兼任監督本塁打同じく1977年野村以来37年ぶりとなった8月27日、対DeNA戦ナゴヤドーム)で捕手として2922試合目の公式戦出場達成し、これも野村持っていた記録34年ぶりに更新した同年監督としてチームBクラスから脱出させることができず、選手としてもオールスターゲーム出場果たしたもののシーズン打撃では1割台に終わり1995年以来100試合未満出場終わった2015年シーズンからは肩書き監督選手変更となる。3月27日開幕戦には先発マスク松井雅人譲り2014年まで続いていた開幕戦での先発マスク21年連続途切れた4月30日の対巨人戦東京ドーム)で先発出場し、野村克也以来史上2人目の通算3000試合出場達成した本人実感なかったらしい)。5月2日DeNA戦では9回からマスクかぶったが、本塁上のクロスプレーセーフ判定されたことを巡り山路哲生球審触れて抗議し退場宣告された。退場処分受けたのはプロ27年目、出場3001試合目で初めて。翌5月3日日本プロフェッショナル野球組織熊﨑勝彦コミッショナーから厳重注意制裁金20万円処分科されたが、翌々日5月4日阪神甲子園球場行われた阪神タイガース7回戦でシーズン初の安打得点記録すると、ランディ・メッセンジャーから3点本塁打記録し汚名返上果たし、これで安打本塁打ともに27年連続となり、自身の持つプロ野球記録更新した27年連続ホームラン記録前述野村リッキー・ヘンダーソン上回る世界記録であり、2022年に『プロ野球選手による本塁打最多連続シーズン数』としてギネス世界記録認定受けた後半戦チーム最下位思わしくない状況であったが、7月25日神宮球場での東京ヤクルトスワローズ戦の7回から捕手として途中交代出場。この出場により野村克也当時西武ライオンズ)が持つ通算試合出場数の3017試合肩を並べ迎えた7月28日本拠地ナゴヤドームでの阪神タイガースとの試合で8番・捕手先発出場し、通算3018試合出場達成野村記録塗り替え前人未到記録達成した9月13日時点では腰痛影響と、後半戦自身出場控え杉山翔大桂依央利といった若手捕手積極的に起用し続けてきたことの影響出場試合数27試合留まり同日にはサンケイスポーツより、9月15日には中日新聞日刊スポーツより同年限り現役引退し今後監督専念する報じられた。そして9月21日同日巨人戦終了後ナゴヤドーム記者会見し「とうとうこの時が来たなという思いと、やっと来たなという思い。その両方がある」と心境語り正式に現役引退することを表明した。なお監督としての任期4年契約)が2年残っていたため、2016年度からは監督専任の形でチームに残る。順位は5位に終わり中日監督就任から2年連続Bクラス1969年1970年水原茂以来45年ぶり。 9月24日選手として本拠地ナゴヤドームでの最終戦となる阪神戦臨み試合終了後には同じく同年シーズン限り現役引退する和田一浩胴上げが行われた。谷繁自身胴上げ促され、いったんはシーズン低迷などのためか固辞したものの、最終的に和田後押しなどから根負けし和田と同じ5回の胴上げ受けた9月26日には横浜スタジアム行われた古巣DeNA戦引退試合)に臨み、8番・捕手先発出場し、2回表二死一・二塁で現役最終打席迎えカウント2-2から井納翔一直球を打つが、遊撃手倉本寿彦正面に転がるゴロ打ち取られた。打席終了後ベンチ前に戻ると1998年優勝日本一喜び分かち合ったDeNA三浦大輔両親・3人の息子たち出迎えられた。試合終了後古巣計らいもあり、ビジターゲームでは異例となる場内一周行った後、スタンドから「谷繁コール」が湧き起こる中、谷繁と同じく同年シーズン限りでの現役引退表明していた和田小笠原道大らも含めホームベース付近に両軍選手たち集合し背番号と同じ27年間の現役生活別れを告げる谷繁を5回胴上げした。 なお、引退試合翌日27日に自らの出場選手登録抹消し28日赤田龍一郎登録しているが、山本昌引退登板となった10月7日シーズン最終戦広島戦マツダ=本来の日程雨天順延)において赤田抹消し、自らを再度登録している(出場はなかった)。 12月2日付で、日本野球機構NPB)から自由契約選手として公示された。

※この「中日選手兼任監督時代」の解説は、「谷繁元信」の解説の一部です。
「中日選手兼任監督時代」を含む「谷繁元信」の記事については、「谷繁元信」の概要を参照ください。

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