中書省の実態消滅と廃止
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 00:47 UTC 版)
北宋になると、中書省の長官は門下省や尚書省と同様に実官ではなくなり、功臣に対する没後の贈官へと形骸化した。 元代では、中書省は、中央政府の統治機関となり、また、各地方にも同様の行中書省(行省)が設置された。そして、この行省が、今日みられる地方行政区画としての各省の起源となった。ただし、三田村泰助が言うようにこの「中書省」はモンゴルの伝統的な執政府であるエケ・ジャルグチ(大法官)やエケ・ビチグチ(大書記官)の漢人官僚による訳語に過ぎない。笠沙雅章によると、その職務も詔勅の起草に止まらず枢密院(軍政)、御史台(監察、司法)が扱う以外の全ての政治権力が集中した強力なものであった。すなわち唐代の中書省とは全く別の機構である。 明代の初代皇帝洪武帝も当初は中書省を設置し、その長官たる丞相が宰相となった。しかし1380年(洪武13年)の胡惟庸の獄を機としてともに廃止された。この中書省も唐代のそれではなく元代の中書省を引き継いだ機関であった。すなわち唐代の中書省は唐末から五代にかけて消滅しており、ここでの元代からの中書省の廃止と混同してはならない。しかしこの洪武帝の中書省廃止は、丞相をはじめとしてあらゆる宰相職を廃止したという意義がある。これによって六部の長官である6人の尚書が直接皇帝の命令を受けるという皇帝独裁体制が成立した。
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