第2次中日監督時代
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1995年9月20日に中日への監督復帰が発表され、同年オフに再任。直後にロッテから無償トレードで愛甲猛、ロッテとの3対3トレードで仁村徹、酒井忠晴、山本保司を放出し、樋口一紀、前田幸長、平沼定晴、西武との2対2トレードで前原博之、清水雅治を放出し、山野和明、村田勝喜、韓国から宣銅烈を獲得。第二次政権1年目は前年の5位から2位になった。同年はナゴヤ球場の最後の試合で巨人に優勝を決められ、監督としては初めて相手球団の胴上げを見ることになった。 1996年、9月20日の対巨人戦(東京ドーム)の試合終了後引き揚げてくる審判団を待ち受け、上本孝一審判員に暴言を吐き、もみ合いになった際に田中俊幸審判員を蹴るという暴行を働いた。翌日セ・リーグから厳重戒告と制裁金100万の処分が科された。オフにレオ・ゴメスを獲得。 1997年1月30日に妻と死別。春にナゴヤドームが完成。球場が広くなったことで長打力偏重だったチームの体質改善が求められたが、間に合わず、星野自身も「最下位覚悟で優勝を狙う」と先行きを危ぶむ発言。予想通り機動力、守備力の不足は開幕から露呈して低迷、高木時代の1992年以来5年ぶりとなる最下位に転落。チーム打率リーグ最下位、チーム防御率5位と投打共に振るわなかった。オフに外国人選手ではアロンゾ・パウエルは退団し、韓国から李鍾範、サムソン・リー、阪神との2対2トレードで大豊泰昭、矢野輝弘を放出し、関川浩一、久慈照嘉、ロッテから南渕時高を獲得。また、投手コーチの小松辰雄は退団し、後任に宮田征典、打撃コーチに水谷実雄、外野守備走塁コーチに二宮至、二軍監督には仁村徹、二軍投手コーチに梶本隆夫を招聘。ドラフト会議では、大学の後輩川上憲伸が入団。 1998年は肩の故障で伸び悩んでいた野口茂樹がエース級へ育ち、14勝し最優秀防御率、川上も14勝で新人王、中継ぎ陣では落合英二が最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得し、新人の正津英志も活躍した。チーム打率はリーグ5位だったが、チーム防御率は12球団トップ、盗塁はリーグトップを記録し、2位へ浮上した。明治大学の後輩であり、前年のパ・リーグ最多勝投手であった武田一浩をFAで獲得した。宮田は一年で辞任し、後任に山田久志が就任し、内野守備走塁コーチには高代延博を招聘した。ドラフト会議では、福留孝介、岩瀬仁紀が入団。 1999年は1954年の西鉄ライオンズ以来45年ぶりとなる開幕11連勝を飾った勢いでそのまま首位を突っ走り、自身2度目のリーグ優勝を果たした。昨年に引き続き、チーム防御率は12球団1位。福岡ダイエーホークスとの日本シリーズは前評判では中日圧倒的優位だったが、1勝4敗で敗れた。 2000年、宣は現役を引退、サムソンは退団した。メルビン・バンチは最多勝、エディ・ギャラードは最優秀救援投手、岩瀬は2年連続で最優秀中継ぎ投手と投手陣のタイトルホルダーを多く輩出したものの、チーム防御率4.19でリーグ5位に低迷した。5月6日、ナゴヤドームでの対横浜ベイスターズ戦で、立浪和義が自身への投球をストライクと判定されたことへの不満から球審を務めていた橘高淳を両手で突いて退場処分となり、立浪の退場が宣告された直後に星野は橘高に体でぶつかっていったため暴行を働いたとして退場処分を受けた。この件では二人のほか、橘高を殴って肋骨骨折などの重傷を負わせた大西崇之も退場処分となり、後日星野・立浪・大西に対し、第三者から異例の刑事告発がなされた(起訴猶予処分)。詳細は橘高の項を参照。 出場停止5日間となり、監督代行はヘッドコーチの島野育夫が務めた。優勝した巨人に9勝18敗と大きく負け越し、1998年以来2年ぶりとなる2位が確定した。 2001年は巨人キラーとして名を馳せた川崎憲次郎を獲得して臨んだが、その川崎がオープン戦で早々離脱するなどチームは総崩れ、4年ぶりにBクラスに転落。広島以外の4球団に負け越した。井端弘和は規定打席到達。5位に終わった責任をとる形で同年9月25日辞任を表明し、記者会見で「成績不振が理由のすべてではない。初監督の時は5年、今回は6年目。同じ人間が長い間権力の座に座ることは、組織上好ましくない」などと述べた。なお、星野は次年から阪神タイガース、2011年からは東北楽天ゴールデンイーグルスの監督・チーム関係者になったりと中日とは疎遠になっていき、現役、コーチ・監督を合わせて23年、中日一筋で4度のリーグ優勝立役者だが53年ぶりの日本一には全く関わっていない。 中日のオーナーを長く務めた加藤巳一郎からの全面的に信頼を受けていた。 著書の中で「私が怒る時は、常に本気で怒る。叱るときは全身で叱る。自らの本心を隠したり抑えたりできないのは、私の長所であり、また、短所でもあるが、少なくともスポーツマンの世界で発揚する理想だと考えている。時には怒鳴り上げ、壁を蹴り、灰皿を投げ付けて怒る。私くらい怒っていることが周囲に丸分かりの監督もいないだろう」と記している。 監督時代、第一製薬(のちの第一三共)の胃腸薬・センロックのCMに出演。「いつでも夢を」の替え歌をバックにベンチで興奮する姿(実際の公式戦中の映像を使用)やゴルフをラウンドする映像が流れた。また、監督就任前に、ライオンズマンション、ハウス食品の叉焼麺・坦々麺・カレーライスのCMにも出演している(田淵幸一・山本浩二と共演)。
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第2次中日監督時代
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2011年9月22日、落合の後任として2012年から監督に就任することが球団から発表された。「まさに青天の霹靂で驚いています。落合さんという大監督の後ということもあり悩みはしましたが、やはり野球人間なのでしょう。この年齢になっても、もう1度チャンスを頂けましたので、全力で頑張る覚悟です」と球団広報を通じてコメントした。 2012年は2位に終わり、クライマックスシリーズではファイナルステージで巨人に3連勝の後の3連敗で3勝4敗で敗退。 2013年は2001年以来12年ぶりのBクラスと1990年以来23年ぶりの4位が確定し、セ・リーグ5球団に全て負け越す結果となった。9月25日に同年限りで退任する意向であることが中日新聞で報道され、10月8日に退任の会見を行った。 現役時代の優勝経験は巨人のV9時代も重なってか、1974年の1度だけだったが、巨人のV10を阻んだ優勝でもある。また、コーチ時代は1982年に1度経験している。通算で2度リーグ優勝を経験しているが、日本シリーズではいずれも2勝4敗で敗れており、日本一は1度もなかった。2022年現在、最後の戦前生まれの日本プロ野球監督となっている。
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