第2次作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 05:48 UTC 版)
軍の撤退後もエミューの収穫物襲撃は続いた。農家等は、エミューが数千頭単位で農地を襲撃するようになった原因である猛暑と旱魃に言及し、再び支援を求めた。ジェームズ・ミッチェル西オーストラリア州首相は軍事支援の再開に向け強い支持を行った。さらに、基地司令の報告では、最初の作戦においてエミュー300頭が殺されていたことが示された。 国防大臣は農家の要請と基地司令の報告を採択し、11月12日までに軍隊が先の取組を再開することを承認した。大臣は上院において、エミューの厖大な個体群による農業への深刻な脅威に兵士が立ち向かう必要がある理由を説き、決定を弁護した。軍隊は西オーストラリア政府が必要な人員を確保することを期待して銃の貸与に同意したが、州には経験豊富な機関銃士が明らかに不足しており、再びメレディス少佐が戦地に配された。 軍隊は1932年11月13日に戦地に赴き、最初の2日間で約40頭のエミューを殺害するなどある程度の戦果を収めた。3日目の11月15日は戦果が大幅に下がったが、12月2日までに毎週およそ100頭のエミューが銃殺された。メレディス少佐は12月10日に呼び戻されたが、その報告では弾薬9860発をもって986頭を殺害したとしており、確認された殺害1件につき10発の割合となる。加えて、即死でなかった傷のため負傷エミュー2500頭が死亡したとする。
※この「第2次作戦」の解説は、「エミュー戦争」の解説の一部です。
「第2次作戦」を含む「エミュー戦争」の記事については、「エミュー戦争」の概要を参照ください。
- 第2次作戦のページへのリンク