太平洋戦争中盤の戦い
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「舞風 (駆逐艦)」の記事における「太平洋戦争中盤の戦い」の解説
1942年(昭和17年)8月7日、アメリカ軍はガダルカナル島とフロリダ諸島に上陸しガダルカナル島の戦いがはじまった。舞風以下第4駆逐隊はソロモン諸島へ進出、駆逐艦輸送作戦(鼠輸送)に従事する。8月18日、第4駆逐隊第1小隊(嵐、萩風)はガダルカナル島で空襲を受け「萩風」が損傷、戦線離脱を余儀なくされた。一方、第4駆逐隊第2小隊(野分、舞風)は第十戦隊長良以下各艦と共に第三艦隊(司令長官南雲忠一中将、参謀長草鹿龍之介少将、旗艦翔鶴)に同行、8月24-25日の第二次ソロモン海戦参加した。第2小隊(野分、舞風)は第十一戦隊(比叡・霧島)の直衛であった。24日、2隻(霧島、舞風)はB-17の爆撃を受けるが至近弾であり、被害はなかった。本海戦で日本海軍は空母「龍驤」等を撃沈されて敗北し、トラック泊地に一時撤収する。9月1日、「舞風」でジャイロコンパスの故障が発生、「野分」とは別行動になった。翌日、「舞風」は「筥崎丸」のショートランド回航を護衛した。 その後、2隻(野分、舞風)は最前線に進出した。10月3日(日進、野分、舞風)、10月6日(浦波、敷波、野分、舞風、秋雲、巻雲)、10月9日(黒潮、親潮、早潮、龍田、野分、舞風)と鼠輸送を実施した。 10月26日、第4駆逐隊(嵐、舞風、野分)は駆逐艦6隻(第16駆逐隊《初風、雪風、天津風、時津風》、第17駆逐隊《浜風》、第61駆逐隊《照月》)と共に南太平洋海戦に参加する。第4駆逐隊(嵐、舞風)は第一航空戦隊の空母3隻(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)直衛、「野分」は補給部隊護衛艦としてアメリカ軍機動部隊艦載機と交戦した。戦闘で空母2隻(翔鶴、瑞鳳)、重巡2隻(筑摩、熊野)がそれぞれ損傷し、駆逐艦2隻(初風、舞風)は損傷空母2隻を護衛してトラック泊地へ向かった。11月2日、駆逐艦部隊(第4駆逐隊《嵐、野分、舞風》、第17駆逐隊《谷風、浦風、浜風、磯風》、第10駆逐隊《秋雲》、第61駆逐隊《秋月》)は損傷艦艇(空母2隻《翔鶴、瑞鳳》、重巡2隻《熊野、筑摩》)を護衛してトラック泊地を出港、日本本土へ向かった。内地で整備修理後、12月1日に呉を出発。ふたたびソロモン海へ進出する。 12月7日、駆逐艦11隻による鼠輸送中に僚艦「野分」が航行不能となる損傷を受け、半年以上戦線を離脱する。「野分」は秋月型駆逐艦2番艦「照月」に護衛されつつ、夕雲型駆逐艦4番艦「長波」に曳航されてショートランド泊地まで退避した。「舞風」はショートランドに停泊中の「野分」をトラック泊地まで曳航した。 1943年(昭和18年)1月5日より、ラバウルからラエへ陸軍第51師団の一部などを輸送する十八号作戦に参加。これは「舞風」と第17駆逐隊(「谷風」、「浦風」、「浜風」、「磯風」)が「ぶらじる丸」、「妙高丸」、「くらいど丸」、「日龍丸」、「智福丸」を護衛するものであった。「舞風」は1月3日にラバウルに到着。船団は1月5日にラバウルから出発。船団は空襲を受け、1月7日に「日龍丸」が被弾沈没。「舞風」は救助活動を行なった。同日ラエ到着。ラエでも空襲を受け、「妙高丸」が被弾擱坐した。揚陸完了後、1月8日に船団はラエ発。1月10日、船団はアメリカ潜水艦「アルゴノート」の攻撃を受けた。上空を哨戒中の艦爆が潜水艦を爆撃し、続いて「舞風」が爆雷攻撃を行った。「アルゴノート」は突然艦首を海面から突き出し、それに対して「舞風」と「磯風」が砲撃を行い「アルゴノート」を撃沈した。同日、船団はラバウルに到着。 1月14日-15日、駆逐艦9隻(秋月《第十戦隊旗艦》、時津風、黒潮、谷風、浦風、浜風、磯風、舞風、嵐)で鼠輸送を実施、この任務中に第4駆逐隊司令駆逐艦「嵐」が被弾して内地修理を必要とする損傷を受け、勝見基中佐(谷風駆逐艦長)が戦死した。有賀司令は他駆逐隊からの応援を断り、4駆僚艦「舞風」に「嵐」の曳航を命じている。「嵐」はショートランド泊地を経てトラック泊地に移動した。1月16日、第4駆逐隊司令駆逐艦は「舞風」になる。1月23日、陽炎型2隻(磯風、舞風)はサンタイサベル島レカタ基地への輸送を実施。1月26日、3隻(磯風、舞風、喜山丸)でコロンバンガラ島への輸送を実施。 詳細は「ケ号作戦」を参照 同時期、第十戦隊司令官木村進少将が旗艦「秋月」大破時(1月19日)に負傷したため、第二水雷戦隊司令官小柳冨次少将が1月21日附で第十戦隊司令官に任命された。その後、本艦はガダルカナル島撤退作戦(ケ号作戦)に参加した。「舞風」は有賀司令が座乗する第4駆逐隊司令艦としての参加である。第1回作戦では、夕雲型駆逐艦5番艦「巻波」(第三水雷戦隊司令官橋本信太郎少将座乗)が中破して「長月」に曳航されて退避し、旗艦を「白雪」に変更後、作戦を続行した。撤退作戦は成功したが夕雲型2番艦「巻雲」が沈没した。 2月4日、日本海軍は駆逐艦2隻(五月雨、朝雲)等を増強して第2回撤収作戦を実施する。零戦29機(1機喪失1機不時着)の護衛に対し、アメリカ軍は戦闘機31機・爆撃機32機を投入(10機喪失)。午後2時、「舞風」はアメリカ軍機の攻撃を受け、至近弾により航行不能となった。二列縦隊の左側先頭を航行していたためにアメリカ軍機の標的になり、至近弾で右舷に傾斜、火災も発生したという。「舞風」は睦月型8番艦「長月」に曳航されてショートランド泊地に避退した。なお第3回作戦では姉妹艦「磯風」が爆撃により大破。救援の為にまた「長月」が派遣されたが、「磯風」は「江風」に護衛され自力でショートランド泊地へ向かった。「舞風」は工作艦「長浦」の手で応急修理をおこなったのち、第16駆逐隊「雪風」と共に2月10日ショートランド泊地発、12日トラック泊地着。 2月13日、司令駆逐艦は「舞風」から「嵐」に変更。2月20日、第4駆逐隊司令は有賀幸作大佐から杉浦嘉十大佐(太平洋戦争開戦時の第17駆逐隊司令)に交代した(有賀は3月1日より高雄型重巡洋艦3番艦鳥海艦長)。司令駆逐艦も修理を終えた「萩風」に変更となった。3月6日、「舞風」は朝潮型駆逐艦3番艦「満潮」(同艦は第三次ソロモン海戦中に空襲で大破)を曳航する姉妹艦「浜風」(17駆)を護衛してトラック泊地を出発、3隻(舞風、浜風、満潮)はサイパンを経由して16日に横須賀へ到着した。17日より修理を開始する。 6月21日、第十戦隊司令官は小柳冨次少将から大杉守一少将に交代する。6月22日、舞風駆逐艦長は、中杉中佐から萩尾力中佐に交代。萩尾は、初春型駆逐艦6番艦「夕暮」艦長、神風型6番艦「追風」艦長、吹雪型10番艦「浦波」艦長等を歴任していた。 7月23日、修理を終えて横須賀を出撃。トラックへ進出する。8月6日、コロンバンガラ島輸送任務に従事していた駆逐艦4隻(萩風、嵐、江風、時雨)はレーダーを装備した米駆逐艦6隻に奇襲された。第4駆逐隊(萩風、嵐)と江風は一方的に撃沈され、第27駆逐隊司令駆逐艦「時雨」(司令原為一大佐座乗)のみ生還した(ベラ湾夜戦)。9月5日、生還した杉浦司令は第4駆逐隊司令駆逐艦を「野分」に変更。第4駆逐隊は2隻(野分、舞風)になったため、9月15日附で朝潮型駆逐艦6番艦「山雲」が第4駆逐隊に編入された。9月19日、第4駆逐隊(舞風、野分)は空母「瑞鳳」を護衛してブラウン環礁(エニウェトク環礁)に進出し、アメリカ軍機動部隊の出現に備えた。しかしアメリカ軍機動部隊と直接交戦する事はなかった。10月22日、ラバウル方面への輸送作戦中に輸送船「栗田丸」が撃沈された。2隻(野分、舞風)は生存者を救助した。 11月17日、第4駆逐隊司令は杉浦嘉十大佐から磯久研磨大佐に交代した。杉浦大佐は12月1日より妙高型重巡洋艦4番艦「羽黒」艦長となり、同艦沈没時に戦死(ペナン沖海戦)。一方、磯久大佐は、駆逐艦長月・霞・磯風駆逐艦長を務めた経歴を持っている。12月11日、第4駆逐隊(舞風、野分)は第三戦隊(金剛、榛名)を護衛してトラック出港、16日午前10時に佐世保へ到着した。2隻はただちに横須賀へ回航され、18日以降横須賀で待機した。12月22日、磯久司令は司令駆逐艦を「舞風」に変更。第4駆逐隊の次の任務は、高雄型重巡洋艦2番艦「愛宕」の護衛任務であった。 1944年(昭和19年)1月4日、3隻(愛宕、舞風、野分)は横須賀を出港、9日トラック泊地に着いた。1月15日附で第4駆逐隊(舞風、野分)は南東方面部隊に編入され、ラバウル方面の輸送任務に従事した。2月12日、2隻はトラック泊地帰投。第十戦隊所属の第17駆逐隊(浜風、谷風、浦風、磯風)は「舞風」と入れ違いでトラック泊地を去っていた。15日、第4駆逐隊3番艦「山雲」は輸送船「浅香丸」を護衛してトラック泊地を出発した。2月16日深夜、本土修理のためトラック泊地を出港した軽巡洋艦「阿賀野」が米潜水艦の雷撃で沈没。阿賀野救援に向かった軽巡洋艦「那珂」も空襲により撃沈された。トラック泊地に有力なアメリカ軍機動部隊が接近しつつあり、米潜水艦はその先鋒であった。
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太平洋戦争中盤の戦い
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「浜風 (陽炎型駆逐艦)」の記事における「太平洋戦争中盤の戦い」の解説
6月16日、第三戦隊(金剛、榛名)、第七戦隊(鈴谷、熊野)、第二航空戦隊(龍鳳)、第16駆逐隊「雪風」、第17駆逐隊各艦、秋月型「新月」等と横須賀を出港し、トラックへ進出した。6月22日、第十四戦隊(旗艦/那珂、五十鈴)、駆逐艦2隻(浜風、谷風)は第一次輸送部隊(横二特)としてナウルへ向かった。25日ナウル着後の「浜風」は第一次輸送部隊から分離され、26日着の第二次輸送部隊(長良、雪風)と合流しトラックへ戻った。 以降、「雪風」と「浜風」は外南洋部隊に編入され、ふたたびソロモン方面の戦闘や輸送作戦に参加する。7月5日のクラ湾夜戦では輸送隊(望月、三日月、浜風)として参加した。本海戦で旗艦「新月」が沈没、秋山輝男三水戦司令官以下司令部は全滅した。7月12-13日のコロンバンガラ島沖海戦では、第二水雷戦隊司令官伊崎俊二少将(旗艦「神通」)指揮下の警戒隊(先頭より三日月、神通、雪風、浜風、清波、夕暮)として参加、米艦隊を撃退し輸送作戦も成功したが軽巡洋艦「神通」が沈没、伊崎司令官以下二水戦司令部は全滅した。7月17日、第七戦隊(司令官西村祥治少将:旗艦「熊野」)指揮下の夜戦部隊(主隊《熊野、鈴谷、鳥海》・水雷戦隊《川内、雪風、浜風、清波、夕暮》・輸送隊《三日月、水無月、松風》)としてコロンバンガラ島へ進出するが米艦隊は出現せず、夜間空襲により重巡洋艦「熊野」損傷、駆逐艦「夕暮」と「清波」沈没という被害を受けた。7月23日、「雪風」、「三日月」、「浜風」はコロンバンガラ島への輸送作戦に参加、米軍魚雷艇を撃退して揚陸をほぼ終えた。 詳細は「第一次ベララベラ海戦」を参照 8月17日、第三水雷戦隊司令官伊集院松治少将(旗艦「漣」)指揮下の夜戦部隊(漣、時雨、浜風、磯風)と共に第一次ベララベラ海戦に参加した。この海戦での損害は軽微だったが、米軍駆逐艦4隻にも損害はなく、輸送作戦も上手くいかなかった。8月22日より、駆逐艦「時雨」、「浜風」、「磯風」、「漣」は第七聯合特別陸戦隊(サンタイサベル島のレカタ撤退及びブイン転進作戦「E作戦」)に従事するが、米軍機の妨害により一時中止。8月25日からの第2次作戦では、陽動部隊(川内、漣、松風)の支援を受け、駆逐艦「浜風」、「磯風」、「時雨」で輸送作戦を再開、レカタ到着後陸戦隊の収容に成功する。帰路、米軍陸上爆撃機の断続的な空襲を受けて「浜風」は損傷、最大発揮速力18ノットとなる。ラバウルに帰着後、「浜風」は「時雨、磯風」と別れ、日本本土へ回航された。9月21日に呉に帰港、10月20日まで呉工廠で修理する。11月3日、長浜を出港し、以降はトラック方面で護衛に従事した。12月21日、米潜水艦「スケート」に撃沈された輸送船「照川丸」救援のため、軽巡洋艦「能代」、駆逐艦「浜風」、「電」、「響」でトラックを出発し、「満潮」等と合流して「照川丸」生存者を救助した。
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