太平洋戦争中の普及
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/19 23:40 UTC 版)
太平洋戦争中に、厚生省によって「モンペ普及運動」として奨励された。戦局悪化に伴い空襲時の防空用に女性の着用が義務付けられ、昭和17年(1942年)婦人標準服として腰丈の着物と共に半ば強制された(その前から男性には国民服が制定されていた)。白木屋の火事と並び、もんぺ着用もズロースを普及させたと言われている。もんぺは現在でも動きやすい作業衣装として販売されている。 国家に半ば強制された歴史もあり、もんぺは劣悪な国民の戦時生活の代名詞として用いられることもある。歌手の淡谷のり子は、戦地で慰問演奏の際に「もんぺなんかはいて歌っても誰も喜ばない」「化粧やドレスは贅沢ではなく歌手にとっての戦闘服」と、もんぺを穿かずステージ衣装で出演し、当局から睨まれる一因となった。また漂泊の俳人、種田山頭火にも「もんぺ部隊」と題して国防婦人会を詠んだ作品がある。 日本に支配されていた朝鮮でも着用が奨励されたため、日本の敗戦後には、日本支配の象徴の一つとみなされ、もんぺを履いていた日本人女性がこれを引き裂かれる事件が度々起こった。しかし一方で、1950年代には、警察を始めとする官庁などが、国民にもんぺの着用を奨励する事もあった。現代の韓国では、一部の女性が、もんぺをレトロなファッションとして好んで身に付けることもある。
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