太平洋戦争中盤の行動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 00:31 UTC 版)
「秋風 (駆逐艦)」の記事における「太平洋戦争中盤の行動」の解説
1943年(昭和18年)4月1日、第34駆逐隊(司令天谷嘉重大佐)は解隊され、「秋風」は第十一航空艦隊直属となった。隻数の減少にくわえ、もともと単艦行動が多かったため駆逐隊を編制する意味が薄れたためと思われる。「秋風」は4月3日に佐世保へ帰投し、続いて舞鶴海軍工廠で整備をおこなった。 5月25日、「秋風」は横須賀を出撃し、6月3日ラバウルに進出した。6月下旬以降、日本軍はニュージョージア島の戦いやブーゲンビル島の戦いなどで、米軍に圧倒されつつあった。7月27-28日にはニューブリテン島グロスター岬で駆逐艦2隻(三日月、有明)が座礁と空襲により沈没した。救助のため「秋風」が派遣され、2隻の乗組員を救助した。8月2日、秋風はラバウル南方で空襲を受け、大破する。艦長の佐部鶴吉少佐を含め秋風の主要幹部はほぼ戦死し、兵曹長(掌砲長)が指揮をとってラバウルに戻った。宮田敬助(当時、駆逐艦嵐水雷長。秋風水雷長の寺田武夫中尉は、海兵同期)によれば、「秋風」の艦橋はつぶれ、マストと一番煙突は跡形もなかったという。後任の艦長は、三日月沈没時の艦長だった山崎仁太郎少佐(海兵58期)になった。 9月6日に佐世保へ帰投、つづいて舞鶴に回航されて修理をおこなった。11月4日、「秋風」は舞鶴を出撃し、11月18日にラバウルへ到着した。ふたたび南東方面の最前線で、輸送任務や護衛任務に従事する。12月1日、被曳航タンカー「第二十南油」を曳航していた海軍徴傭船「康寧丸」(中村汽船、2,345トン)がアメリカ潜水艦「ピート」の雷撃で撃沈されてしまった。そのため護衛の水雷艇「鴻」が第二十南油を曳航したものの風浪により切断されてしまう。4日、「秋風」は現場に到着し「第二十南油」を曳航するが、翌5日朝に風浪により曳航索が切れてしまう。曳航のメドがたたないため「秋風」は「鴻」と共に周辺を警戒。6日朝に駆逐艦「夕凪」が到着し、「第二十南油」を曳航するもこれも失敗。「鴻」と「夕凪」は燃料欠乏により6日に現場を離れてラバウルへ向かった。入れ替わりに吹雪型駆逐艦「天霧」(駆逐艦長花見弘平少佐)がやってきたが、7日、「秋風」の右舷に「天霧」の艦首が衝突し、双方ともに損傷する。「秋風」は応急修理のためカビエンへ向かい、「天霧」は「第二十南油」を曳航したがこれも失敗し、損傷部の状況を考慮し「第二十南油」を残しカビエンに向かった。以後「第二十南油」は消息不明となり、17日に沈没認定がされた。12月21日、「秋風」はラバウルで空襲を受けて損傷し、トラック泊地で応急修理をおこなった。
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