太平洋戦争以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 08:49 UTC 版)
敗戦後、「氷川丸」はGHQの日本商船管理局(en:Shipping Control Authority for the Japanese Merchant Marine, SCAJAP)によりSCAJAP-H022の管理番号を与えられ、帰国者の引き揚げ任務に従事。45000人を日本へ運んだ。続いて国内航路に就役し、輸送任務に従事。1953年(昭和28年)、11年ぶりにシアトル航路に復帰した。最終航海は、1960年(昭和35年)8月27日に横浜からシアトルへ出港。10月1日に横浜に戻ると、10月3日に神戸に到着。神戸から横浜に回航され、太平洋横断238回をもって航海を終えた。のべ25,000人余りの乗客を運んだという。 解体予定もあったが、市や市民の保存を望む声によって同年12月に「宿泊施設を兼ねた観光船」に転用される。この際、船尾の貨物施設やプロペラシャフトの撤去など、横浜船渠第一号船渠(現在日本丸メモリアルパーク)で大規模な補修が実施された。1961年(昭和36年)5月、山下公園に係留される。以後の所有は氷川丸マリンタワー株式会社(以下、「氷川丸マリンタワー」と記す)になり、ユースホステル・見学施設として運営された。後に船体がエメラルド・グリーンに塗り替えられた。船内では船上結婚式、ビアガーデン、ライブ、サロン・コンサート、パーティ、年越しカウントダウンなどの催事・イベントが実施された。この間、船体はブルーに塗り替えられていた時期を経て1980年代後半に日本郵船時代の黒い塗装に再度塗り直されている。 2003年(平成15年)、「氷川丸」は横浜市指定有形文化財に指定された。しかし、入場者数の減少のため、氷川丸マリンタワーは2006年(平成18年)10月13日、同年12月25日で氷川丸の運営を終了し、船体を日本郵船に譲渡することを発表した。その後、予定通りに運営を終了し、氷川丸マリンタワーは2006年12月31日付で解散した。 2007年(平成19年)8月より船体の部分的な修繕・内装の修復を行っていたが、日本郵船より一般公開を再開する旨が発表される。2008年(平成20年)4月25日、「氷川丸」竣工から78年目にあわせ、「日本郵船氷川丸」の名称で一般公開を開始した。 毎日正午になると時報代わりに汽笛を鳴らす、この他前述のカウントダウンでは新年を迎える際に氷川丸の汽笛を鳴らすのが慣例になっている。船体の大規模な修繕は1961年(昭和36年)より実施されておらず老朽化が進行している。 2016年(平成28年)、戦前で作られた貨客船としての文化的価値が評価されて、国の重要文化財(歴史資料)に指定された。「明治丸」に続く二番目の船の文化財となったが、海上で保存されている船舶では初の文化財である。
※この「太平洋戦争以後」の解説は、「氷川丸」の解説の一部です。
「太平洋戦争以後」を含む「氷川丸」の記事については、「氷川丸」の概要を参照ください。
太平洋戦争以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 07:37 UTC 版)
太平洋戦争によって日本は商船の80%を失った。しかし、造船業と海運業は他の多くの産業同様に終戦直後から着実な復活を開始した。 終戦時にはGHQによって造船能力を年15万トンに制限され、100総トン以上の全ての船がGHQの管理下に入れられたが、1947年からは規制が順次緩められ、1950年の朝鮮戦争と1956年の第二次中東戦争(スエズ動乱)をきっかけに日本に長期の造船ブームをもたらした。 1946年、日本郵船は終戦以後の早い段階からGHQの許可を得て、貨客船「氷川丸」の太平洋定期航路が再開された。 1951年のサンフランシスコ講和条約以後は、米アメリカン・プレジデント・ライン社 (APL) の「プレジデント・クリーブランド」(15,973総トン)と「プレジデント・ウィルソン」(12,597総トン)によって米国シアトルとの定期客船航路が開設された。 1952年と1953年には大阪商船会社(現商船三井の母体の1つ)が2隻の南米移民用外航貨客船「さんとす丸」(1952年、8,515総トン)と「あめりか丸」(1953年、8,354総トン)を使って南米航路を再開した。その後、2代目「ぶらじる丸」(1954年、10,100総トン)、「あるぜんちな丸」(1958年、10,863総トン)、「さくら丸」(1962年、12,628総トン)などの5隻の外航貨客船によって日本 - 香港と日本 - 北米の航路が再開された。 1964年の東京オリンピック以降は、航空機による海外渡航が一般化したため旅客輸送需要は激減し始めた。南米航路も移民の減少と共に需要は減少した。日本に限らず世界的に、これ以降は客船としての船舶の需要は低下を続け、一部のクルーズ船を除けば外航航路の客船は消滅していく。 代わって世界中で海上輸送の需要が増加を続け、戦前戦中の造船技術を背景にブロック工法のような新たな造船技術の開発によって世界の造船業における地位を確実なものにしていった。1956年には英国を抜いて世界一の造船量となり、1975年には世界の造船量の50%を越える量を世界の海に送り出した。 1950年代から始まった高度経済成長によって、海運業においても大型石油タンカーや大型コンテナ船のような船が多数登場し、自動車運搬船、鉱石運搬船、LNGタンカーも次々と作られ海外航路に投入されていった。また、内航航路でも大型カーフェリーが多数登場した。 日本でのこの増船の波は、1973年からの第一次オイルショックによって日本経済が停滞した数年後の1977年をピークに下降線をたどった。特に需要の減った石油タンカーは契約キャンセルされるなど造船需要が激減すると同時に、1980年の貨載量56.5万トンを最後に巨大化に終止符が打たれた。
※この「太平洋戦争以後」の解説は、「船」の解説の一部です。
「太平洋戦争以後」を含む「船」の記事については、「船」の概要を参照ください。
- 太平洋戦争以後のページへのリンク