国際情勢の変化
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太平洋戦争以後、米ソ対立による冷戦体制の下、アメリカ合衆国は資本主義陣営の盟主として、また世界最大の軍事力を誇る国として世界の警察を自負し、西側社会ひいては世界の安全保障を主導する世界戦略をとってきた。これは古典的な「パクス・アメリカーナ」であり、米国を中心とした政治的・経済的・軍事的な世界秩序を構築して影響下にある国々の経済の相互依存性を維持し、欧州とアジアでの対抗勢力の拡大を阻止するものであった。 この為、米国は欧州と東アジアにおいて、積極的に友好国に海外基地を設けて、駐留米軍を前方展開させ続けた。この時代のアメリカ軍は、典型的な工業化時代の軍隊であり、重厚長大な階層化組織と多数の重装備を有していた。 1991年にソビエト連邦の崩壊により冷戦が終焉を迎え、これまでのイデオロギー対立の下で抑えられていた宗教と民族の違いによる対立が顕在化し、グローバリゼーションと地域主義とのせめぎあいといった新たな問題が生じたことで、米国はその世界戦略の見直しを迫られた。 それまで冷戦期を通じて自国の軍事力を世界的に展開してきた米国は、その戦略地域として東西対立の最前線であった東西ドイツ、朝鮮半島や日本といった地域に駐留軍を配置してきており、新たな戦略地域として、大西洋地域やインド洋地域への重点化が焦点となったのである。ソ連崩壊後、これらの地域においては、それまでクレムリンやホワイトハウスに抑圧されていた世界各地の民族問題が再燃し、各地で紛争が激化した。これらの紛争に対して、アメリカ軍は、国連ソマリア活動やデリバレート・フォース作戦、アライド・フォース作戦において武力介入を実施した また、これまで米国の拠点としてきた東アジア情勢においては、ソ連の崩壊によって軍事的な緊張は緩和されたが、独自の体制を続ける中国や北朝鮮といった国々が依然として強大な、又は無視できない軍事力を保有し、決定的な対立の回避に努める一方で、これらの国々の不当な拡大・威嚇には依然とした抑止力が不可欠であった。米国は日本並びに韓国などの同盟国の自主防衛力に一定の期待をすることで、東アジアを安定化させ、米国と南アジアから中東かけてのシーレーンを確保しながら、米国自身の軍事力は南アジアから中東地域への戦略的展開の自由度を確保していた。
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国際情勢の変化
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「キャサリン・オブ・アラゴン」の記事における「国際情勢の変化」の解説
皇帝選挙に敗北したフランソワ1世は、1518年の同盟によって予定される会見を開こうとするが、キャサリンはヘンリー8世に、フランス王に先立って新皇帝カール5世に会うよう勧めた。1520年5月24日に、新皇帝とヘンリー8世、そしてキャサリンは対面する。キャサリンは甥の姿に将来の名君としての資質を見出して感動した。そして、6月4日からのフランソワ1世夫妻との会見は「金襴の陣」と呼ばれる華麗なものだった。このとき、すでにヘンリー8世には新たな愛妾メアリー・ブーリン(ケアリー卿夫人)がおり、金襴の陣にも夫と共に同伴していた。 ヘンリーは後継ぎが欲しいという気持ちが高まり、1520年頃からキャサリンとは離婚して、別の女性を王妃にして産ませようと考えるようになった。国王自身が戦場に赴くため男子の継承者が重視されていた時代であり、それまでイングランドが女王の下で安泰だったことがなかったためでもある。テューダー朝の歴史はまだ浅く、薔薇戦争の惨禍はまだ記憶に生々しく残っていた時代であり、王家の安定的な継続はヘンリー8世個人の私欲にとどまらない切実な問題であった。さらに、ヘンリーはキャサリンのたび重なる流産と死産は亡き兄アーサーの怨念ではないか、兄の妻と結婚したものは呪われるという聖書の教え通り、この結婚は呪われているとすら考えるようになっていた。 1521年5月、キャサリンの友人でもあったバッキンガム公が大逆罪によって処刑される。有力貴族を簡単に排除できることを知り、この一件を契機にヘンリー8世は利己的で不安定さが顕著となる。親皇帝派のバッキンガム公の処刑を受け、フランソワ1世はネーデルランドへ侵攻し第三次イタリア戦争が勃発する。ここで漁夫の利を得るため、イングランドはカール5世と新たな条約を結び、メアリー王女とカール5世が婚約することとなり、キャサリンはこの外交的勝利を大いに喜んだ。 またこの頃、マルティン・ルターによる宗教改革が行われており、1521年5月、ヘンリー8世は『七秘蹟の擁護』を著し、10月に教皇レオ10世から「信仰の擁護者」(ラテン語: Fidei defensor)の称号を与えられる。この七秘蹟とは、洗礼、堅信、聖体拝領、告解、終油、聖職者の叙階、婚姻のことを指し、ルターは洗礼と聖体拝領以外は聖書に根拠がないと糾弾していた。 1525年2月、パヴィアの戦いでフランスは国王フランソワ1世が捕虜になる程の大敗を喫するが、資金の尽きたカール5世はメアリー王女の持参金を目当てに、身柄と持参金の引渡しを要求する。イングランド側が断ると、カール5世は婚約を破棄してポルトガル王女イザベルとすぐさま結婚した。カール5世の裏切りに対する国王の怒りはキャサリンに向けられた。以後、イングランドはフランスに接近することとなる。 1525年6月16日、ヘンリー8世は庶子ヘンリー・フィッツロイに対し爵位と官位を与え、キャサリンも式典に同席させられた。キャサリンはメアリー王女の正統性を主張した結果、メアリーは王位継承者としてラドロー城に赴任することとなる。 コニャック同盟戦争の推移の中で、1526年、フランソワ1世はヘンリー8世との協力が必要になり、同盟を結ぶ。
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