第三次イタリア戦争とは? わかりやすく解説

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第三次イタリア戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/28 20:12 UTC 版)

第三次イタリア戦争、または四年戦争英語: Four Years' War[注釈 1]は、イタリア戦争の一部である。フランス王フランソワ1世とその同盟国ヴェネツィア共和国神聖ローマ皇帝カール5世、イングランド王ヘンリー8世教皇国家と戦い、最終的には敗北した。この戦争は、カール5世が1519年に神聖ローマ皇帝に選出されたことと、ローマ教皇レオ10世マルティン・ルターに対抗するためにカール5世と同盟したことに起因する。


注釈

  1. ^ 戦争自体は1521年から1526年までの5年だが、戦闘は1525年のパヴィアの戦いで実質的には終了したので「四年」戦争と呼ばれている。
  2. ^ シャルル自身も第4代ブルボン公ジャン1世の男系子孫ではあるものの傍系であり、結婚の前はモンパンシエ伯であった。

出典

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  2. ^ Mallett and Shaw, The Italian Wars, 142–43.
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  4. ^ Guicciardini, History of Italy, pp. 316–318.
  5. ^ Monreal and Jimeno, Conquista, p. 67.
  6. ^ a b Blockmans, Emperor Charles V, pp. 51–52.
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  10. ^ Oman, Art of War, pp. 176–178.
  11. ^ Blockmans, Emperor Charles V, p. 57; Taylor, Art of War in Italy, pp. 125–126.
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  15. ^ Blockmans, Emperor Charles V, p. 45.
  16. ^ Gunn, "Suffolk's March", pp. 631–633.
  17. ^ Konstam, Pavia 1525, p. 27.
  18. ^ Konstam, Pavia 1525, p. 27–28.
  19. ^ Konstam, Pavia 1525, p. 28; Taylor, Art of War in Italy, pp. 53–54.
  20. ^ Konstam, Pavia 1525, p. 28.
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  26. ^ Konstam, Pavia 1525, pp. 34–35.
  27. ^ Konstam, Pavia 1525, pp. 36–39.
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  31. ^ Blockmans, Emperor Charles V, p. 59; Konstam, Pavia 1525, pp. 46–50.
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  36. ^ Guicciardini, History of Italy, p. 348.
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  41. ^ Knecht, Renaissance Warrior, p. 242.
  42. ^ Guicciardini, History of Italy, p. 359.
  43. ^ Urzainqui et al., Conquista de Navarra, p. 21.
  44. ^ Guicciardini, History of Italy, p. 357. 神聖ローマ帝国のフランスに対する要求はまず皇帝の宮中伯ビューレンによって当時まだピッツィゲットーネで囚われていたフランソワ1世にもたらされた。フランスの県を要求したのは皇帝側についたブルボン公に相応な報酬をあげるためである。
  45. ^ Guicciardini, History of Italy, p. 359
  46. ^ Guicciardini, History of Italy, p. 360.
  47. ^ Guicciardini, History of Italy, p. 363.
  48. ^ Blockmans, Emperor Charles V, p. 60, 68; Guicciardini, History of Italy, pp. 363–364; Oman, Art of War, p. 211.
  49. ^ Urzainqui et al., Conquista de Navarra, p. 21. 条約では「異教者」の消滅の必要が強調された。
  50. ^ Guicciardini, History of Italy, p. 366.
  51. ^ Guicciardini, History of Italy, pp. 365–366. グイチャルディーニによると、クレメンス7世は「皇帝が偉大になることは必ず自分の(皇帝への)隷属に繋がる」と考えたという。
  52. ^ Guicciardini, History of Italy, p. 369, 392.



第三次イタリア戦争

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イタリアの軍事史」の記事における「第三次イタリア戦争」の解説

1519年神聖ローマ皇帝カスティーリャアラゴン王位を持つカール5世即位すると、ハプスブルク王朝大帝国西欧出現する事となった。危機感強めたフランスヴェネツィアとの同盟維持しつつ、教皇イングランド王支持得たハプスブルク王朝大領土に対抗する動き見せた教皇軍がミラノ占領してスフォルツァ家復位させる事態に、フランス軍教皇軍の傭兵隊長(コンドッティエーレ)プロスペル・コロンナ、及びフランチェスコ・スフォルツァ(マッシミリアーノの弟)らが率いミラノ軍に攻撃仕掛けたフランス軍本国兵・傭兵含めて3名を超えていたとされるが、フランチェスコによって召集され6000名の兵士(殆どがミラノ領内召集された)に敗れ去った(ビコッカの戦い)。フランス軍ミラノ公国から敗走し本国へと撤収したイタリア諸侯勝利を経て到来した同盟軍主力部隊パヴィアの戦いフランス軍完膚なきまでに打ち破り指揮を執っていたフランソワ1世捕虜となった監獄フランソワ1世マドリード条約認めさせられ、同条約イタリア地域に関してミラノ公国ナポリ王国対す領土権主張放棄定められた。

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