ジャン1世_(ブルボン公)とは? わかりやすく解説

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ジャン1世 (ブルボン公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/31 05:58 UTC 版)

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ジャン1世
Jean Ier
第4代ブルボン公
在位 1410年 - 1434年

出生 1381年
死去 1434年2月5日
イングランド王国ロンドン
埋葬 フランス王国、スヴィニー修道院
配偶者 マリー・ド・ベリー
子女 シャルル
ルイ
ルイ
家名 ブルボン家
父親 ブルボン公ルイ2世
母親 フォレ女伯アンヌ・ドーヴェルニュ
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ジャン1世(Jean Ier, 1381年 - 1434年2月5日)は、第4代ブルボン公(在位:1410年 - 1434年)、クレルモン伯ルイ2世とその妻のフォレ女伯アンヌの長男。

生涯

継承前のクレルモン伯時代の1400年ベリー公ジャン1世の娘マリーと結婚し、オーヴェルニュ公位とモンパンシエ伯位を得た。この結婚でベリー公の死後2つの領土はクレルモン伯とマリー夫妻に相続されるが、2人の男系子孫が断絶した場合はこれらを含むブルボン家の所領を全て王家に返上する条件が決められた[1]。2人の間には3男が生まれた。

1410年に父が亡くなりブルボン公位を継承、同年に舅のベリー公・相婿のアルマニャックベルナール7世オルレアン公シャルルらと共にアルマニャック派に加わり、ブルゴーニュ派を率いるブルゴーニュジャン1世(無怖公)と衝突、1411年ピカルディー攻撃、1412年イングランドとの密約、1413年カボシュの反乱フランス語版に乗じたパリ奪取に加わった[2]

1415年アジャンクールの戦いでイングランド軍の捕虜となり、ロンドンで虜囚として1434年に死んだ。所領は妻マリーが管理していたが、1416年にベリー公が死んで受け継がれるはずだったオーヴェルニュとモンパンシエの継承を王家が認めなかったため、これらが息子シャルルに受け継がれるには9年後の1425年までかかった[3]

脚注

  1. ^ 上田、P29、P52 - P54。
  2. ^ エチュヴェリー、P74 - P75、P77、P78、P81 - P82、清水、P86 - P87。
  3. ^ エチュヴェリー、P94、清水、P98、上田、P93、P127 - P128。

参考文献

  • ジャン=ポール・エチュヴェリー著、大谷暢順訳『百年戦争とリッシュモン大元帥』河出書房新社、1991年。
  • 清水正晴『《青髯》ジル・ド・レの生涯』現代書館、1996年。
  • 上田耕造『ブルボン公とフランス国王 -中世後期フランスにおける諸侯と王権-晃洋書房、2014年。
先代:
ルイ2世
ブルボン公
1410年 - 1434年
次代:
シャルル1世



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