ジャン1世 (ブルターニュ公)とは? わかりやすく解説

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ジャン1世 (ブルターニュ公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/27 09:44 UTC 版)

ジャン1世
Jean Ier
ブルターニュ公
在位 1237年 - 1286年

出生 (1219-03-22) 1219年3月22日
死去 (1286-10-08) 1286年10月8日(67歳没)
ブルターニュ公国、マルザン、リル城
埋葬 ブルターニュ公国、プリエール修道院
配偶者 ブランシュ・ド・ナヴァール
子女 一覧参照
家名 ドルー家
父親 ピエール1世
母親 ブルターニュ女公アリックス
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ジャン1世Jean Ier de Bretagne1219年3月22日 - 1286年10月8日)は、ブルターニュ。ジャン1世・ル・ルー(Jean Ier le Roux、赤髭のジャン1世)とも呼ばれた[1]。ブルターニュ摂政ピエール・モークレールと女公アリックスの長男。

生涯

1221年、母アリックスの死によってブルターニュ公位を継承したが、幼児であったため父ピエールが摂政となった。ピエール・モークレールがブルターニュの男爵たちの反乱を抑えた1232年から親政を開始した。1237年には家臣の一人であったピエール・ド・クランの反乱を鎮圧している。1242年、ルイ聖王にかわってポワトゥーで戦い、ラ・マルシュ伯を従わせた。

1236年、ナバラ王テオバルド1世シャンパーニュ伯としてはティボー4世)の王女ブランカ(ブランシュ・ド・ナヴァール)と結婚し、ナバラ王国の後継者とみなされた。1240年にはブルターニュからユダヤ人を追放した。1254年に最終的に、年3000リーブルの金と引き換えに、妻の実弟テオバルド2世が王位を継承することに同意し、ナバラ王位をあきらめた。

ジャン1世は多くのブルターニュ貴族や聖職者たちと争った。彼はナント司教と対立関係にあり、ブルターニュの司教から破門されたが、すぐに司教を従わせた。しかし貴族たちは、1257年に順番に武装蜂起して聖職者側についた。ジャン1世は最終的に彼らを抑え込んだ。

ジャン1世はその後、ルイ聖王の第8回十字軍に参加、聖王の命を奪った疫病から逃れて母国に帰還した。

子女

ナバラ王女ブランカとの間に8子をもうけた。

  • ジャン2世(1239年 - 1305年)
  • ピエール(1241年 - 1268年) - ディナン、エデ、レオン、エンヌボンの各領主
  • アリックス(1243年 - 1288年) - ブロワ伯ジャン1世の妻
  • ティボー(1245年 - 1246年)
  • ティボー(1247年)
  • アリエノール(1248年)
  • ニコラ(1249年 - 1251年)
  • ロベール(1251年 - 1259年)

関連項目

脚注

先代
ピエール1世
ブルターニュ
1237年 - 1286年
次代
ジャン2世



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