ドルー家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/21 07:07 UTC 版)
ドルー家(仏: Maison de Dreux)は、フランス王家カペー家の分枝の一つ。ブルターニュ公国を統治した系統はブルターニュ家(Maison de Bretagne)とも呼ばれる。また、ブルターニュ継承戦争以後に公位を継承した家系はモンフォール家(Maison de Montfort)とも呼ばれる。
フランス王ルイ6世の息子でルイ7世の弟にあたるロベール1世がドルー伯に叙せられたことから始まる。ロベール1世の孫の代で家系は二分、兄のロベール3世はドルー伯を継承し、その家系は16世紀まで伯爵家として続いた。一方、弟のピエール1世はブルターニュ女公アリックス・ド・トゥアールと結婚してブルターニュを統治することになった。通常、ドルー家と言えば、このブルターニュ公の家系を指すことが多い。
ブルターニュはその名が示す通り、ケルト系のブルトン人が住む地方であり、現在でもその要素が濃い。従って、ドルー家の君主も自らをブルトン人と意識するようになった。ブルターニュ公国はブルゴーニュ公国とともに百年戦争の局面を左右することになる。
ドルー伯系
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ブルターニュ系
ドルー家のブルターニュ公位獲得
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ブルターニュ継承戦争
1341年にジャン3世が嗣子無くして没すると、姪であるジャンヌ・ド・パンティエーヴル及びその夫であるシャルル・ド・ブロワ(シャティヨン家出身でギーズの領主、ブロワ伯の弟)と、ジャン3世の異母弟ジャン・ド・モンフォール(イングランド側の史料ではこちらをジャン4世とよぶことも)、およびその息子ジャン4世(フランス側の史料)との間で相続争いが勃発した。世に言うブルターニュ継承戦争である。時は百年戦争真っ只中であり、ブルターニュの相続争いも百年戦争にリンクした。フランス王フィリップ6世は甥に当たるシャルルを支持し、イングランド王エドワード3世はモンフォール父子を支持した。
戦争は一進一退が続いたが、1364年のオーレの戦いでシャルルが戦死したことにより、翌1365年のゲランド条約でジャン4世の公位が認められた(モンフォールは戦時中に死去)。ジャン4世は公位の代償としてフランス王シャルル5世への臣従を余儀なくされるが、後に反旗を翻してイングランドに亡命する。しかし、1380年にシャルル5世が死去してシャルル6世が新王に即位すると、和解して帰国した。
1392年、ジャン4世は腹心のオリヴィエ・ド・クリッソンと仲違いし、オリヴィエがシャルル6世の許に亡命する事件が起きた。シャルル6世はこれを機にブルターニュを併合しようと画策したが、精神に異常をきたしてジャン4世はことなきを得た。
百年戦争における活動
1399年にジャン4世が死去して息子のジャン5世がブルターニュ公位に就いた。同時期にイングランドではランカスター朝が成立し、イングランド王ヘンリー5世はノルマンディーに侵攻する。1415年のアジャンクールの戦いでヘンリー5世はフランス軍を撃破し、多数の貴族を捕虜としたが、その中にはジャン5世の弟であるアルテュール・ド・リッシュモン(後のアルテュール3世)がいた。リッシュモンの能力を恐れるヘンリー5世は監禁して己に従うよう強要、ヘンリー5世の父ヘンリー4世の後妻となっていた母ジャンヌ・ド・ナヴァールが当時イングランドで監禁されていたため、リッシュモンは従わざるを得なかった。
1422年にヘンリー5世、シャルル6世が相次いで死ぬと、フランスにはそれぞれの息子ヘンリー6世とシャルル7世の2人の王が並び立った。ジャン5世はシャルル7世に忠誠を誓ったが、その際に直立かつ帯剣のまま従属の誓いを行っている。ヘンリー6世の叔父で既にブルゴーニュ公国との提携を済ませていた摂政のベッドフォード公ジョンはブルターニュ公国も引き入れようと画策、ジャン5世も一度はイングランド側になびくが、後に再びシャルル7世側に就く。リッシュモンもシャルル7世側に加わり、イングランド側に戻ることは2度となかった。
1424年のシャンベリーの協定でシャルル7世、ブルターニュ公国、ブルゴーニュ公国の間で相互不可侵が確約され、リッシュモンはフランス元帥に任じられるが、シャルル7世の不信やラ・トレモイユの暗躍により下野を余儀なくされる。その状況が一変するのがオルレアン包囲戦とジャンヌ・ダルクの登場である。リッシュモンはジャンヌと合流してパテーの戦いでイングランド軍に勝利、シャルル7世のランス大聖堂での戴冠、ジャンヌの火刑と慌ただしく事態が進む中、シャルル7世の姑ヨランド・ダラゴンの尽力によりラ・トレモイユは1433年に追放され、リッシュモンは元帥に復帰する。
水を得た魚の如く活発になったリッシュモンは1445年から1448年にかけて常備軍を組織し、火砲に改良を加えて集中的に用いるようにした。リッシュモンは軍事面だけではなく政治面でも優れた能力を発揮し、1435年のアラスの和約で鍵とも言えるブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)との同盟に成功した。イングランド軍は1450年のフォルミニーの戦いでリッシュモン率いる火砲部隊に粉砕され、1453年のカスティヨンの戦いを経て百年戦争はフランスの勝利に終わった。
1457年にリッシュモンは甥でジャン5世の息子フランソワ1世・ピエール2世兄弟が相次いで死去した後を継いでブルターニュ公アルテュール3世となったが、高齢だったため翌1458年に栄光に満ちた65年の生涯を閉じた。
断絶とブルターニュの王領併合
アルテュール3世没後は甥で弟リシャールの息子フランソワ2世が公位に就く。時のフランス王ルイ11世は中央集権化を目指してブルゴーニュ公国を始めとする諸侯・貴族を粛清し、国内統一の総仕上げとしてブルターニュに食指を動かしていた。フランソワ2世はルイ11世と対立して反乱を起こし、ルイ11世の息子シャルル8世とも対立して道化戦争が発生した。だが、フランス軍は1488年のサン=トーバン=デュ=コルミエの戦いでブルターニュ軍を破り、フランソワ2世は止む無く和睦を結んだ。息子の無いフランソワ2世はシャルル8世の許可なく娘を結婚させてはならない不利な条件を結ばされ、同年に失意のうちに没する。
公位を継いだ一人娘アンヌは神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世との結婚で打開を図ろうとするも、シャルル8世との結婚を余儀なくされる。結果、ブルターニュはフランスに併合されるに至った。
系図
ルイ6世 フランス王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フィリップ 共同フランス王 | ルイ7世 フランス王 | ロベール1世 ドルー伯 | ピエール・ド・クルトネー | コナン4世 ブルターニュ公 | ヘンリー2世 イングランド王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ロベール2世 ドルー伯 | ギー・ド・トゥアル ブルターニュ公 | コンスタンス ブルターニュ女公 | ジョフロワ2世 ブルターニュ公 | ジョン イングランド王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ロベール3世 ドルー伯 | ティボー4世/1世 シャンパーニュ伯 ナバラ王 | ピエール1世 ブルターニュ公 | アリックス・ド・トゥアール ブルターニュ女公 | エレオノール・ド・ブルターニュ | アルテュール1世 ブルターニュ公 | ヘンリー3世 イングランド王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ジャン1世 ドルー伯 | ジャン1世 モンフォール伯 | ヨランド・ド・ドルー | ユーグ4世 ブルゴーニュ公 | ベアトリス・ド・ナヴァール | ブランシュ・ド・ナヴァール | ジャン1世 ブルターニュ公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ロベール4世 ドルー伯 | ベアトリス モンフォール女伯 | ギー6世 リモージュ子爵 | マルグリット・ド・ブルゴーニュ | アレグザンダー3世 スコットランド王 | マーガレット・オブ・イングランド | ジャン2世 ブルターニュ公 | ベアトリス・オブ・イングランド | エドワード1世 イングランド王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ジャン2世 ドルー伯 | ヨランド・ド・ドルー モンフォール女伯 | アルテュール2世 ブルターニュ公 | マリー・ド・リモージュ | マリー・ド・ブルターニュ | ギー4世 サン=ポル伯 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ロベール5世 ドルー伯 | ジャン3世 ドルー伯 | ピエール1世 ドルー伯 | ジャンヌ2世 ドルー女伯 | マオー・ド・シャティヨン | シャルル ヴァロワ伯 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ジャンヌ1世 ドルー女伯 | ジャン・ド・モンフォール (ジャン4世) | ジャン3世 ブルターニュ公 | イザベル・ド・ヴァロワ | ギー パンティエーヴル伯 | マルグリット・ド・ヴァロワ | ギー ブロワ伯 | フィリップ6世 フランス王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヘンリー4世 イングランド王 | ジャンヌ・ド・ナヴァール | ジャン4世(5世) ブルターニュ公 | ジャン ブルゴーニュ公 | ジャンヌ・ド・パンティエーヴル ブルターニュ女公 | シャルル ブルターニュ公 | シャルル6世 フランス王 | ルイ1世 オルレアン公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ジェームズ1世 スコットランド王 | ジャン5世(6世) ブルターニュ公 | ジャンヌ・ド・ヴァロワ | ルイ フランス王太子 | マルグリット・ド・ブルゴーニュ | アルテュール3世 ブルターニュ公 | リシャール エタンプ伯 | マルグリット・ドルレアン | シャルル7世 フランス王 | イザベル・ド・ヴァロワ | シャルル1世 オルレアン公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
イザベラ・ステュアート | フランソワ1世 ブルターニュ公 | ピエール2世 ブルターニュ公 | フランソワ2世 ブルターニュ公 | マルグリット・ド・フォワ | マーガレット・ステュアート | ルイ11世 フランス王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マルグリット・ド・ブルターニュ | シャルル8世 フランス王 | アンヌ ブルターニュ女公 | ルイ12世 フランス王 | ジャンヌ・ド・フランス | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
クロード ブルターニュ女公 | フランソワ1世 フランス王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フランソワ3世 ブルターニュ公 | アンリ2世 ブルターニュ公 フランス王 | シャルル2世 オルレアン公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
- ドルー伯系
- ブルターニュ系
- ブルターニュ=モンフォール系
関連項目
脚注
ドルー家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/22 06:44 UTC 版)
詳細は「ドルー家」を参照 ルイ7世の弟ロベール1世はドルー伯に封じられ、その家系であるドルー家の本家は14世紀まで続いた。 ドルー伯ロベール3世の弟ピエール1世はブルターニュ公国の女公アリックス・ド・トゥアールと結婚し、この家系はフランス内で独自の勢力を築いた。しかし、最後の公フランソワ2世には娘のアンヌしかおらず、彼女がヴァロワ家のシャルル8世と結婚したことで、ブルターニュは後にフランス王領へと併合される。
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