ピエール1世・ド・クルトネーとは? わかりやすく解説

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ピエール1世・ド・クルトネー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/28 10:54 UTC 版)

ピエール1世・ド・クルトネー
Pierre Ier de Courtenay
クルトネー領主

出生 1126年
フランス王国ランス
死去 1180年3月10日/1183年4月10日
エルサレム王国アッコン
埋葬 イングランド王国エクセター大聖堂
配偶者 エリザベート・ド・クルトネー
子女 一覧参照
家名 クルトネー家
父親 フランスルイ6世
母親 アデル・ド・サヴォワ
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ピエール・ド・フランスPierre de France[1])またはピエール1世・ド・クルトネー (Pierre Ier de Courtenay、1126年頃 - 1180年3月10日から1183年4月10日の間)は、フランス王子。クルトネー、モンタルジ、シャトー=ルナール、シャンピニェル、タンレー、シャルニー、シャンテコックの領主。フランスルイ6世と王妃アデル・ド・サヴォワの六男で、クルトネー家の初代である。

生涯

1147年、彼は兄ルイ7世ロベールに同行して第2回十字軍に参加した。彼はラタキヤダマスカスの包囲戦を含めた全ての戦いに参加している。十字軍の騎士の中には、未来の妻の父、ルノー・ド・クルトネーもいた。

ピエールの兄アンリとロベールはルイ7世の権威に反抗したが、ピエール自身は1149年から1150年まで忠実に王に従った。

ピエールは1179年に、シャンパーニュ伯アンリ1世、甥であるボーヴェ司教フィリップ・ド・ドルーとともに再び十字軍に参加し、聖地へ向かっている[2]。ピエールの没年は1180年から1183年の間とされている。

子女

1150年より以前、クルトネー領主ルノーの娘エリザベートと結婚、以下の子女をもうけた[3]

脚注

  1. ^ Généalogie de Pierre Ier de France sur le site Medieval Lands.
  2. ^ Reto R. Bezzola, Les Origines et la formation de la littérature courtoise en occident (500-1200), volume 3, H. Champion, 1966, p. 374
  3. ^ Dynastie de Courtenay.
  4. ^ Descendence de Robert Ier de Courtenay

参考文献

  • 下津清太郎 編 『世界帝王系図集 増補版』 近藤出版社、1982年



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