アラスの和約_(1435年)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > アラスの和約_(1435年)の意味・解説 

アラスの和約 (1435年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/25 05:26 UTC 版)

アラスの和約フランス語: Traité d'Arras, 英語: Treaty of Arras)は、百年戦争中の1435年9月21日フランスブルゴーニュが結んだ講和条約。ブルゴーニュはそれまで同盟していたイングランド側から離脱してフランスと和睦、百年戦争の帰趨を決定した。


注釈

  1. ^ それでも1430年になるとブルゴーニュはイングランドの出兵に応じ、1度はフランスの休戦が切れたのをいいことにコンピエーニュ包囲戦に加わったが、ジャンヌを捕らえた他は包囲が失敗に終わる、領地ピカルディーがフランスに荒らされるなど損失の方が大きかった[1]
  2. ^ 会談内容はフランス・ブルゴーニュ間の和睦の予備交渉であり、そのために同席したブルボン公シャルル1世とフィリップ善良公の和睦に成功、和睦条件も大まかな項目が決められ進展していった。また、フランスはイングランドの交渉に臨む前に、交渉決裂後はブルゴーニュを交渉相手に変更する予備案を考え、イングランドよりブルゴーニュに向けて準備を整えていた[4]
  3. ^ ただ、両国は原則論に固執してばかりではなく、落とし所も探っていた。イングランドはフランスの土地の割譲や政略結婚(ヘンリー6世とシャルル7世の娘を結婚)を提案したが、一時的な休戦を求めるイングランドの姿勢を見抜いていたフランスは反対、交渉は成立しなかった。フランスからもイングランドに捕らえられていたオルレアン公シャルルの釈放、ヘンリー6世がシャルル7世に臣従するなら土地保有を認める案が出されたが、いずれも実現せず交渉は決裂に終わった[6]

出典

  1. ^ 清水、P225 - P227、P243 - P245、P250 - P258
  2. ^ エチュヴェリー、P184 - P200、清水、P195 - P211、カルメット、P219 - P224、城戸、P211 - P214
  3. ^ エチュヴェリー、P211 - P213、城戸、P215 - P217
  4. ^ エチュヴェリー、P211、清水、P354 - P355、カルメット、P226 - P227、城戸、P246 - P248
  5. ^ エチュヴェリー、P214、清水、P357、カルメット、P228、城戸、P218 - P233
  6. ^ 城戸、P237 - P245
  7. ^ エチュヴェリー、P214 - P217、清水、P357 - P359、カルメット、P228 - P231、城戸、P248 - P252
  8. ^ カルメット、P231 - P235、城戸、P287
  9. ^ カルメット、P235 - P245、城戸、P287
  10. ^ エチュヴェリー、P219 - P224、P241 - P245、清水、P359 - P362、P365 - P372、城戸、P287 - P288
  11. ^ 城戸、P252 - P253


「アラスの和約 (1435年)」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「アラスの和約_(1435年)」の関連用語

アラスの和約_(1435年)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



アラスの和約_(1435年)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのアラスの和約 (1435年) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS