ブルゴーニュの和睦提案
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/24 03:18 UTC 版)
「アラスの和約 (1435年)」の記事における「ブルゴーニュの和睦提案」の解説
1429年にジャンヌ・ダルクがオルレアン包囲戦、パテーの戦いでイングランドに連勝、7月17日にランス大聖堂でフランス王シャルル7世の戴冠式が行われると、イングランド優勢だった戦況の風向きが変わり始め、フランスとブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)の間で度々休戦協定が交わされ、ブルゴーニュが同盟国イングランドにフランスとの和睦を勧告するようになった。イングランドはまだ戦況が自国に有利な立場だったため話に応じなかったが、ブルゴーニュは戦争の負担増加を理由に単独講和・離脱をほのめかし、徐々にフランスへ傾いていった。この時期、ルネ・ダンジューはブルゴーニュ側の捕囚となっていたが、シャルル7世はルネを釈放すべく大元帥アルテュール・ド・リッシュモン(後のブルターニュ公アルテュール3世)を善良公の下へ派遣し、1437年に彼の尽力でルネは金4000エキュで釈放された。ルネの母親はブルゴーニュとフランスの和睦を願っていたが、ルネはそれに応えて善良公と交渉し、1435年アラスの和約に結び付いたとされる。 ブルゴーニュとローマ教皇庁が和睦を働きかけると、乗り気でなかったイングランドも承諾して、1435年に善良公が主催するアラス会議が開かれた。しかし一方で、ブルゴーニュとフランスは和睦に向けてイングランドを抜いた話し合いを会議開催前からしており、1434年12月から1435年2月にかけて善良公とシャルル7世の側近アルテュール・ド・リッシュモンがヌヴェールで会談、和睦の条件を取り決めていた。これがアラスの和約の元になっていた。
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