アラス会議とは? わかりやすく解説

アラス会議

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/24 03:18 UTC 版)

アラスの和約 (1435年)」の記事における「アラス会議」の解説

1435年7月から8月まで、アラスでフランス・イングランド・ブルゴーニュの3ヶ国がそれぞれの代表使節団派遣仲介目的教皇庁代表として教皇エウゲニウス4世名代教皇使節ニッコロ・アルベルガティ(英語版枢機卿交えた会議8月5日に聖ヴァースト修道院始まった当時アラス家屋2400といわれ、使節団1000人の随行団を引き連れ、それらの警護商人集いアラス人口超える5000人以上の人が行交っていたとされるフランスブルボン公リッシュモンなどが大貴族、各都市の代表やシャルル7世役人など雑多な顔触れと共に参加イングランドヘンリー・ボーフォート枢機卿首席代表として参加ブルゴーニュ善良公が領内貴族都市代表などを連れて参加した教会側も前教皇マルティヌス5世の代から和睦交渉携わっていたアルベルガティが参加した他、別グループとしてスイスバーゼル公会議からも使節派遣されている。 会議イングランドとフランス主張真っ向から対立フランス王イングランド王ヘンリー6世であり、シャルル7世はその家臣であるというトロワ条約内容持ち出して主張対すフランスイングランドフランス王位を放棄パリその周辺地域明け渡せば北のノルマンディーと西のギュイエンヌ領有認めるという、イングランドとは反対提案をした。話は平行線辿り9月6日イングランド使節団アラス退去した。それを待っていたかのようにフランスブルゴーニュ間の交渉活発になり、表ではリッシュモン善良公が交渉打ち合わせ、裏でシャルル7世役人善良公の官僚達を買収ヌヴェール決めた和睦条件下地にして、より詳細突き詰めていき両国会談短期間進められていった。 そして9月21日フランスブルゴーニュ和睦発表されアラスの和約締結された。内容次の通り1419年善良公の父ジャン1世(無怖公)を暗殺した事件シャルル7世善良公に謝罪する。 ペロンヌ・アミアン・サン=カンタンなど幾つかの土地シャルル7世善良公に譲渡する善良公1代に限りシャルル7世への臣従免除する和約はアルベルガティら教会側が保証し合わせてイングランド・ブルゴーニュの同盟決めたトロワ条約無効宣言フランス主導権巡り争ったアルマニャック派とブルゴーニュ派和解果たされた。なお、締結前の9月14日ヘンリー6世叔父摂政ベッドフォード公ジョンルーアン急死しているが、交渉失敗による心労とされている。

※この「アラス会議」の解説は、「アラスの和約 (1435年)」の解説の一部です。
「アラス会議」を含む「アラスの和約 (1435年)」の記事については、「アラスの和約 (1435年)」の概要を参照ください。

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