バーゼル公会議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 22:33 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動バーゼル公会議(バーゼルこうかいぎ)は、1431年にスイスのバーゼルで開会されたキリスト教の公会議。公会議主義者と教皇支持派の争いの場となった。
- 名称については、諸事情により公会議の開催地がバーゼルからフェラーラ、フィレンツェ、ローマへと移動したため、後の会期とあわせてバーゼル・フェラーラ・フィレンツェ公会議といわれることもある。また前期と後期の会議をわけて後期の会議をフィレンツェ公会議あるいはフェラーラ・フィレンツェ公会議と呼ぶこともある。
- 1437年の公会議が分裂後、教皇らに反発してバーゼルに残り、対立教皇を選出したグループをバーゼル公会議派と呼ぶことがある。
経緯
コンスタンツ公会議での公会議定期開催の決定を受けて、教皇マルティヌス5世はパヴィア、ついでシエナで公会議を行おうとしたが果たせず、1431年にバーゼルに会議を招集した。マルティヌス5世が開会を待たずに死去したため、開催は次の教皇エウゲニウス4世に引き継いで行われた。
1431年7月23日に開会したものの、ほとんど参加者が集まらなかったため、冬に入って教皇は公会議を解散しようとした。が、参加者たちはコンスタンツ公会議の精神を再確認して命令を拒否。逆に教皇を公会議に召喚するに至って、教皇対公会議主義者の争いという様相を呈し始めた。この段階ではまだ公会議側に理があるとみる人々が多かったため、二年にわたる駆け引きの後に(世俗諸侯の圧力もあって)教皇側は譲歩を余儀なくされ、1433年に解散命令を撤回し、公会議を正統なものとして存続を認めた。
以降も公会議では、教皇不在のままでさまざまな討議が行われ、教会改革を目指した多くの決定が行われた。また、公会議は懸念となっていたフス派の問題にも一応の解決を見るなど、一定の成果をあげていた。しかし、公会議と教皇の間の関係は、東方正教会との合同会議をどこで行うかという問題をめぐって1437年に入って最終的に決裂することになった。
以降の経緯についてはフィレンツェ公会議を参照のこと。
参考文献
- Lexikon des Mittelalters. Bd. I. München/Zürich: Artemis 1980 (ISBN 3-7608-8901-8), Sp. 1517-1521.
外部リンク
- Council of Basel 1431-45 A.D.バーゼル公会議(英語サイト)
バーゼル公会議
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「フェリクス5世 (対立教皇)」の記事における「バーゼル公会議」の解説
1431年にスイスでバーゼル公会議が開催されると、教皇エウゲニウス4世に批判的な公会議主義者が教皇支持派と対立して論争を引き起こした。1437年、教皇側が公会議を正教会と合同開催するため、イタリア(フィレンツェ公会議、もしくはフィレンツェ・フェラーラ公会議)への公会議の移転を発表するに至って遂に公会議は分裂し、教皇に従ってフィレンツェ・フェラーラ公会議に移動する者と、バーゼル公会議に残留する者とに分かれた。 バーゼルに残った急進的な公会議主義者たちは、教皇権を超える公会議の権威を主張して、教皇を公会議によって選出する制度を提唱した。これに基いて、公会議に対抗した教皇エウゲニウス4世の退位を一方的に宣言、バーゼル公会議の後ろ盾を務めていたアメデーオ8世を新たな教皇に推挙した。1439年、アメデーオ8世は公会議主義者の諸侯の要請に応じて、教皇フェリクス5世として戴冠した。公爵にして教皇となったアメデーオ8世は、サヴォイア公爵の紋章と共に教皇冠をあしらった紋章を制定、教皇の衣服と杖を身に纏って行動した。翌1440年、サヴォイア公位を子のルドヴィーコに譲る。 その後、長らく両教皇と両公会議は対立を続けていくが、エウゲニウス4世の下、フィレンツェ・フェラーラ公会議は諸々の改革を実施し、実現はしなかったもののカトリックと正教会の合同を決議するなどの成果を挙げた。一方、バーゼル公会議は思想の過激さのために信用を失墜させてしまい、加えて1443年に財政難のためにサヴォイア公国領のローザンヌへ移動した。不利になるにつれてバーゼル公会議派の諸侯が見切りをつけ始め、次第にフィレンツェ・フェラーラ公会議を支持するようになった。1449年、後を継いだ教皇ニコラウス5世によってバーゼル公会議の閉会が宣言されると、フェリクス5世もこれに従って1449年4月7日に教皇位請求権を放棄、世俗君主に戻った。 教会に対立したという事実から、しばしば後の教皇(ピウス2世など)は、アメデーオ8世を他の対立教皇達と同じく教会に背いた不信心者として批判する言説を残した。とはいえサヴォイア家にとってはその後のイタリア統一の大きな足がかりを作った中興の祖であった。その子孫である初代イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世によって教皇領は廃止の道をたどり、最後の世俗権力を失うことになる。
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