ツヴィングリの宗教改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 03:54 UTC 版)
「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「ツヴィングリの宗教改革」の解説
スイスのバーゼルでは1431年以降、大規模な公会議(バーゼル公会議)が長期にわたって開催され、ヨーロッパ各地から学者・文人が集まり、1460年にはバーゼル大学も創設されて盟約者団やアルザス地方から多くの学生を集め、人文主義運動の一大拠点となっていた。『阿呆船』の大ベストセラーで知られるゼパスティアン・ブラント(英語版)もこの大学で学んだ。画家では、若きアルブレヒト・デューラーやハンス・ホルバインがこの地で活躍した。ヨーロッパ中を放浪した人文主義者エラスムスも、1514年以降はここに定住した。詩人で音楽家のグラレアヌス、ザンクト・ガレンの宗教改革者ヨアヒム・ヴァディアン(英語版)、そしてフルドリッヒ・ツヴィングリもこの地で学んでいる。ツヴィングリはウィーンに滞在して人文主義の影響を強く受けたのち、1502年にはバーゼルに戻って勉学に精励し、1506年には修士の学位を取得して同年から1516年まではグラールスの司祭、1516年から1518年末まではアインジーデルン修道院の司教司祭を務めた。エラスムスとは司祭時代の1514年に出会い、親交を結んだ。このころにはツヴィングリもスイス人文主義の頂点に立つ存在となっていた。1518年末、都市チューリヒはすでに高名な人文主義者となっていたツヴィングリを司祭として招いた。
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