1500年 - 1599年
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「イタリア・ルネサンス年表」の記事における「1500年 - 1599年」の解説
1500年代(チンクエチェント Cinquecento):ローマを中心にルネサンス文化が最盛期を迎えるが、間もなく宗教改革が起こり、1527年のローマ略奪により荒廃。文化の中心はフランスやヴェネツィアなどに移り、マニエリスムと呼ばれる傾向が表れる。宗教改革への反動と外国の侵略によりイタリアのルネサンス文化は衰退に向かう。 1500年 - チェーザレ・ボルジア軍がフォルリを制圧、女傑カテリーナ・スフォルツァが軍門に下る。ロレンツォ・ディ・クレディによる「カテリーナ・スフォルツァの肖像」は修道院に隠棲したこの時期から晩年のもの( - 1506年)。 1500年 - ミケランジェロによる「サン・ピエトロのピエタ」完成(1498年 - )。 1501年 - エステ家のアルフォンソ(後のフェラーラ公アルフォンソ1世)とルクレツィア・ボルジアの結婚。 1501年 - アルドゥス・マヌティウスの印刷工房で初めてイタリック体の活字が用いられる(→1494年)。 1501年頃 - ジョヴァンニ・ベリーニ「ヴェネツィア元首レオナルド・ロレダン像」。 1502年 - メディチ家不在のフィレンツェでピエロ・ソデリーニが終身統領に選出される( - 1512年)。 1502年 - フィレンツェ第二書記局長マキャヴェッリが使節としてチェーザレ・ボルジアと和平交渉を行う。 1502年 - レオナルド・ダ・ヴィンチが建築技術監督兼軍事顧問としてチェーザレ・ボルジアに近侍する( - 1503年)。 1502年 - チェーザレ・ボルジアに対するマジョーネの乱が起こる。チェーザレは窮地に立たされるが形勢を逆転し、首謀者ヴィテロッツォ・ヴィテッリを処刑する。 1502年 - パルマ大学創建。 1502年頃 - ブラマンテがサン・ピエトロ・イン・モントリオ教会のテンピエット(殉教者記念礼拝堂)を建立する。 1503年 - 教皇アレクサンデル6世死去、その息子チェーザレ・ボルジアは捕縛される(ボルジア家の没落)。後継のピウス3世が短期間で亡くなると、デッラ・ローヴェレ家出身の教皇ユリウス2世が即位。 1503年 - チェリニョーラの戦いで、スペインのコルドバ将軍がナポリを征服(→1504年)。 1503年 - ガリリャーノの戦いで、スペイン軍とフランス軍が激突。追放されていたピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチが戦闘で逃走中にガリリャーノ川で溺死。 メディチ家当主は弟のジョヴァンニ枢機卿(後のローマ教皇レオ10世)に継承される。 1503年 - アメリゴ・ヴェスプッチ『新大陸』出版、コロンブスが到達した大陸をインドではなく「新大陸」と認定。 1503年 - レオナルド・ダ・ヴィンチがフィレンツェ政庁舎の大会議室壁画「アンギアーリの戦い」に着手(→1440年)。レオナルドの壁画の向かいには競作としてミケランジェロの「カッシナの戦い」も依頼された(→1364年)。 両作とも1505年ころまでに完成に至らず途中放棄され、1555年頃から始まったヴァザーリの改装によって失われる。 1503年 - マリオット・アルベルティネッリ「聖母のエリザベト訪問」。 1503年頃 - 【フランドル】ヒエロニムス・ボス「快楽の園」。 1504年 - スペインが派遣した総督(副王)によるナポリ支配が始まる( - 1700年)。 1504年 - ミケランジェロ、「ダビデ像」(フィレンツェ市庁舎ヴェッキオ宮殿前)。 1504年 - ヤコポ・デ・バルバリ「鉄手袋と石弓の矢のある死んだ山鶫」(アルテ・ピナコテーク蔵)。この画は西ヨーロッパ最古の静物画であり、トロンプ・ルイユの仕掛けがされている。 1504年 - ピエトロ・クリニート『栄えある学識について』出版。 1504年 - サンナザーロ『アルカディア』出版。 1504年 - ポンポーニョ・ガウリコ『彫刻論』。 1504年 - ボローニャ大学教授でコペルニクスの師でもあったドメニコ・マリア・ノヴァーラが死去。 1504年頃 - フラ・バルトロメオ「聖ベルナルドゥスの幻視」(ウフィツィ美術館蔵)。 1504年頃 - ルカ・シニョレッリ、オルヴィエート大聖堂壁画「最後の審判」完成(1500年 - )。 1505年 - 教皇ユリウス2世がサン・ピエトロ大聖堂の改築を決定、建築主任となったのはドナト・ブラマンテ。 1505年 - デューラーの第2回イタリア旅行( - 1507年)。 1505年 - 【ドイツ】リーメンシュナイダーによるローテンブルク聖ヤコブ教会の「聖血の祭壇」完成(1499年 - )。 1506年 - ベンティヴォーリョ家が失脚し、ボローニャは教皇領に編入される。 1506年 - 教皇ユリウス2世が近衛兵として初めてスイス傭兵を採用(依頼は1505年)。 1506年 - ネロ帝の黄金宮殿跡(トラヤヌス浴場)付近の地中からラオコーン像を発見。 1506年 - レオナルド・ダ・ヴィンチ「岩窟の聖母」(ロンドン・ナショナルギャラリー蔵)完成(→1486年)。 1506年 - エラスムス、トリノ大学にて神学博士号取得。 1507年 - ジョルジョーネ「嵐(テンペスト)」完成(1505年頃 - )。 1507年 - 【ナバラ】チェーザレ・ボルジアが、ヴィアナにて戦死(→1503年)。イタリアを追われたチェーザレは義兄のナバラ王ファン3世に庇護され、スペインとの戦争に参陣していた。 1507年頃 - ミケランジェロ「ドーニ家の聖家族(トンド・ドーニ)」。 1508年 - カンブレー同盟戦争( - 1516年)。 1508年 - ウルビーノ公グイドバルドが死去し、モンテフェルトロ家の正嫡は断絶。後継はグイドバルドの姉ジョヴァンナの子で教皇ユリウス2世の甥である、デッラ・ローヴェレ家のフランチェスコ・マリーア。 1508年 - 詩人エルコレ・ストロッツィがフェラーラで刺殺される。 1508年 - ヤン・ホッサールト(マビューズ)がユトレヒト司教フィリップ・ドゥ・ブルゴーニュに随行しイタリアを訪問(-1509年)。ホッサールトはイタリア美術の影響を大きく受けたアルプス以北の画家たち「ロマニスト」の先駆けとなる。 1509年 - アニャデッロの戦いで、フランス・アラゴンと結んだ教皇軍がヴェネツィア軍を破る。ヴェネツィアはヴェローナ・ヴィチェンツァ・パドヴァを奪われ、北東イタリアの覇権を失う。 1509年 - ルカ・パチョーリ『神聖比例論』。 1510年 - ラファエロ、「アテネの学堂」を含む教皇宮殿の壁画を完成。 1510年 - ボッティチェリ死去、最晩年の作品はダンテ『神曲』写本の挿絵。 1510年 - ジョルジョーネ死去、遺作に「眠れるヴィーナス」「田園の奏楽」(以後ティツィアーノが補筆)ほか。 1510年 - ドイツ人の聖アウグスチノ修道会士マルティン・ルターがローマを訪問、ここで教会の世俗化に不満を持つ(→1517年)。 1510年頃 - バルトロメオ・ヴェネト「フローラ」(一説にルクレツィア・ボルジアの肖像画という)(1507年頃 - )。 1511年 - 教皇ユリウス2世を中心に神聖同盟を結成、アラゴン・ヴェネツィア・イングランド・スイスが参加しフランスに対抗。 1511年 - 古代ローマの建築家ウィトルウィウス『建築について』ラテン語版(フラ・ジョコンド版)がヴェネツィアで出版される。 1511年 - 【ドイツ・フランス】エラスムスの『痴愚神礼讃』がストラスブールで出版される。 1511年 - 【ドイツ】この頃までに民衆本『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』出版か。 1512年 - 第5ラテラン公会議開催される( - 1517年)。教皇ユリウス2世による開催であったが、公会議の終結を見ずにユリウス2世は翌1513年死去。 1512年 - ラヴェンナの戦い。 1512年 - スペイン軍の援助でメディチ家(ジョヴァンニ枢機卿)がフィレンツェに復帰、ソデリーニ政権崩壊する(1502年 - )。 1512年 - ミケランジェロ、システィーナ礼拝堂の天井画「天地創造」を完成 1512年 - ラファエロ「教皇ユリウス2世の肖像」(ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵)完成(1511年-) 1513年 - メディチ家出身の教皇レオ10世(ジョヴァンニ枢機卿)が即位。メディチ家はローマ(ロレンツォの二男・教皇レオ10世)とフィレンツェ(ロレンツォの三男ジュリアーノ)の双方を支配。 1513年 - ノヴァーラの戦い。 1513年 - マキャヴェッリ『君主論』執筆(1517年には君主論と対になる『リウィウス論』を執筆)。 1513年頃 - ピエロ・ディ・コジモ「アンドロメダを救うペルセウス」。 1514年 - ドナト・ブラマンテ死去、後継のサン・ピエトロ大聖堂建築主任となったのはラファエロ。 1514年 - 【スペイン】枢機卿ヒメネス・デ・シスネロスらによる多言語対訳新約聖書の完成。 1514年 - 【ドイツ】デューラー銅版画「メランコリア I」。 1514年 - 【フランドル】クエンティン・マサイス「両替商とその妻」。 1515年 - マリニャーノの戦いで、ミラノはフランスに敗北。ミラノ公マッシミリアーノ・スフォルツァはフランス国王フランソワ1世に支配権を譲渡。 1515年 - ジュリアーノ・デ・メディチとサヴォイア家の公女フィリベルタの結婚。これによりジュリアーノはフランス王フランソワ1世からヌムール公の称号を授与される。 1515年 - パヴィア大学でアグリッパが神学を講義。 1515年 - 【ポルトガル】国王マヌエル1世にインド総督アフォンソ・デ・アルブケルケから犀が贈られる。教皇レオ10世にも回される予定だったが船が座礁して頓挫、デューラーの木版画「犀」のモデルでもある。 1515年 - 【ドイツ】グリューネヴァルト「イーゼンハイム祭壇画」完成(1511年 - )。 1516年 - ボローニャの政教条約(→1438年)。 1516年 - ヌムール公ジュリアーノが死去、メディチ家当主は甥のロレンツォ2世が継承。 1516年 - ウルビーノ戦争。メディチ家当主ロレンツォ2世は教皇レオ10世からウルビーノ公に任命される。 デッラ・ローヴェレ家のフランチェスコ・マリーア1世がこれに反対して戦うも追放され、公位を失う。 1516年 - ルドヴィーコ・アリオスト『狂えるオルランド』出版。 1516年 - パドヴァ大学教授のピエトロ・ポンポナッツィ『霊魂不滅論』出版。パドヴァ学派のアヴェロエス主義的アリストテレス解釈から霊魂の可死性について言及する。 1516年 - ヴェネツィアにゲットーが設置される(シェイクスピア『ヴェニスの商人』のモデル)。 1516年 - ラファエロがサンタ・マリア・デル・ポポロ教会のキージ家礼拝堂を完成させる(1513年 - )。この礼拝堂はシエナ出身の銀行家アゴスティーノ・キージが依頼したもの。 1516年 - 【イングランド】トマス・モア『ユートピア』出版。 1517年 - テオーフィロ・フォレンゴ『バルドゥス』出版。 1517年 - アンドレア・デル・サルト「アルピエの聖母」。 1517年 - 【ドイツ】マルティン・ルターの宗教改革始まる。ルターはヴィッテンベルク大学教授で、同大学に贖宥状の是非について「95ヶ条の論題」を貼り出した。 1517年 - 【ドイツ】ウルリヒ・フォン・フッテン、桂冠詩人になる。 1517年 - 【ドイツ】ヨハネス・ロイヒリン『カバラの術について』。 1517年 - 【ドイツ】ハンス・バルドゥング・グリーン「死と乙女」。 1518年 - ミラノ公女ボナ・スフォルツァとポーランド王ジグムント1世の結婚。 1518年 - マキャヴェッリ喜劇『マンドラゴラ』。 1519年 - ウルビーノ公ロレンツォ2世が死去。メディチ家当主はロレンツォ2世の父の従兄弟であるジューリオ枢機卿(後の教皇クレメンス7世)となる。 1519年 - ラファエロ「教皇レオ10世と枢機卿たちの肖像」(ウフィッツィ美術館蔵)完成(1518年-) 1519年 - フランチャビージオによるサルツォ修道院フレスコ画「洗礼者ヨハネの砂漠への旅立ち」完成(1518年 - )。 1519年 - 【ドイツ】デューラー「神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の肖像」(ウィーン美術史美術館蔵)。 1519年 - 【ドイツ】神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世死去。後継の神聖ローマ皇帝にマクシミリアン1世の孫・スペイン王カルロス1世(カール5世)を選出。 フッガー家の資金によりカール5世は選挙に勝利、その一方フランス国王フランソワ1世との対立は激化(→1521年)。 1519年 - 【スペイン】マゼランの世界周航始まる。マゼラン艦隊に同乗していたイタリア人アントニオ・ピガフェッタはこの航海を全うし、詳細な記録を残す。 1519年 - 【フランス】レオナルド・ダ・ヴィンチ死去、遺作は「モナ・リザ」「聖アンナと聖母子」「洗礼者聖ヨハネ」。「モナリザ」はフランス国王フランソワ1世に買い上げられ、フォンテーヌブロー宮殿に飾られる。 物理学・力学・光学・建築学の分野にまたがるレオナルド・ダ・ヴィンチ手稿も残され、以後各地に分蔵される。 1520年 - 教皇レオ10世の回勅「エクスルゲ・ドミネ(主よ、お立ちください)」。ルターはこの破門の威嚇を拒否(→1521年)。 1520年 - ラファエロ死去、遺作は「キリストの変容」、未完成の部分は弟子ジュリオ・ロマーノが補筆。後継のサン・ピエトロ大聖堂建築主任となったのはアントニオ・ダ・サンガッロ、バルダッサーレ・ペルッツィがそれを補佐。 ラファエロの死とともにヴェネツィアを除くイタリア美術は盛期ルネサンス様式からマニエリスム様式に漸次移行。 1520年 - ガロファロ「キリストの昇天」(1510年 - )。 1520年 - 【ドイツ】ルターが『ドイツ貴族に与える書』『教会のバビロン捕囚』『キリスト者の自由』を執筆。 1520年 - 【スウェーデン】ストックホルムの血浴事件。これ以後グスタフ・ヴァーサを首領とする対デンマーク独立戦争が始まる。 1520年頃 - パルマ・イル・ヴェッキオ「ヴィオランテ」(ウィーン美術史美術館蔵)。 1521年 - 教皇レオ10世の回勅「デチェト・ロマヌム・ポンティフィチェム(ローマ教皇として)」。教皇側は正式にルターを破門に処す、西方教会の分裂が修復されないまま、レオ10世はこの年死去。 1521年 - イタリア戦争始まる( - 1544年)。ハプスブルク家(オーストリア・スペイン)とヴァロワ家(フランス)とがイタリアを巡って争う。 1521年 - ロッソ・フィオレンティーノ「十字架降架」(ヴォルテラ美術館蔵)。 1521年 - 【ドイツ】ヤーコプ・フッガー出資によるアウクスブルクの集合住宅フッガーライが完成。 1522年 - 教皇ハドリアヌス6世が即位( - 1523年)。この教皇はオランダ人で本名はアドリアン・フロリス、神聖ローマ皇帝カール5世の家庭教師を務めていた。 この教皇によりフランドルからローマに招聘され教皇庁付き画家となり肖像画を描いたのがヤン・ファン・スコーレル。 1522年 - ロドス島攻防戦で、聖ヨハネ騎士団がオスマン帝国軍に敗北。聖ヨハネ騎士団はシチリア島に退去し、1530年にはシチリアのスペイン総督が支配するマルタ島に移動(マルタ騎士団)。 1523年 - メディチ家出身の教皇クレメンス7世(ジューリオ枢機卿)が即位。メディチ家当主はアレッサンドロ(ウルビーノ公ロレンツォ2世の庶子)とイッポーリト(ヌムール公ジュリアーノの庶子)。 1523年 - ウルビーノ公国の都がウルビーノからペーザロへ遷る、以後ウルビーノは衰退する。 1523年 - ティツィアーノ「バッカスとアリアドネ」完成(1520年 - )。 1523年 - 【スイス】ツヴィングリの宗教改革がチューリッヒで始まる。 1523年 - 【フランス】ルフェーヴル・デタープル、新約聖書をフランス語に翻訳(1530年には旧約聖書も翻訳完成)。 1523年 - 【ドイツ】ハンス・ザックス『ヴィッテンベルクの鶯(ナイチンゲール)』。 1524年 - ジャンニ・カラファ(後の教皇パウルス4世)らによりテアティノ会(聖カエタノス修道会)が結成される。 1524年 - パルミジャニーノ「凸面鏡の自画像」 1524年 - マルカントニオ・ライモンディ版画「イ・モーディ」初版。 1524年 - 【ドイツ】宗教改革急進派トマス・ミュンツァーを指導者にドイツ農民戦争が起こる( - 1525年)。 1524年 - 【スイス】バーゼルのエラスムスがルターに対抗し『自由意志論』を著す。翌1525年にルターはこれに対抗し『奴隷意志論』を、翌々1526年にエラスムスが『反論』を発表して論争となる。 1524年 - 【フランドル】ヨアヒム・パティニール「ステュクス川を渡るカロン」(プラド美術館蔵)(1515年 - )。 1524年頃 - ドッソ・ドッシ「ユピテルとメルクリウスと美徳(蝶を描く男)」(1522年 - )。 1525年 - パヴィアの戦いでフランス王フランソワ1世が捕虜となり、マドリードに幽閉される。 1525年 - ピエトロ・ベンボ『俗語論』出版、トスカーナ方言を標準語とすることを主張。 1525年 - ソドマ「聖セバスティアヌスの殉教」。 1525年頃 - 【フランス】ジャン・ド・グールモン「羊飼いの礼拝」。 1526年 - マドリード条約により、捕虜となっていたフランス王フランソワ1世が釈放される(→1525年)。釈放されたフランソワ1世は条約を撤回し、教皇クレメンス7世・ミラノ・ヴェネツィア・イングランドとコニャック同盟を結ぶ。 1526年 - 教皇クレメンス7世が皇帝カール5世と同盟していたフェラーラ公アルフォンソ1世を破門しローマに幽閉。 1526年 - マントヴァ近郊での皇帝カール5世軍の攻撃により、教皇軍の黒隊長ジョバンニが負傷して死去。 1526年 - 【ドイツ】ドイツ農民戦争で農民側についた画家イェルク・ラートゲープが処刑される(→1524年)。 1526年 - 【スペイン】フランシスコ・デ・ビトリアがサラマンカ大学の神学教授となる。以後、ドミンゴ・デ・ソトやルイス・モリナやフランシスコ・スアレスに代表される近代スコラ学・サラマンカ学派の拠点となる。 1526年頃 - セバスティアーノ・デル・ピオンボ「教皇クレメンス7世の肖像」。 1527年 - 神聖ローマ帝国軍の攻撃でローマが壊滅(ローマ略奪)。教皇クレメンス7世はサンタンジェロ城に逃げ込むが、皇帝カール5世に屈服(→1530年)。 ローマ市街はドイツ人傭兵(ランツクネヒト)が蹂躙するところとなり、事実上ローマでの盛期ルネサンスは終了する。 この知らせを受けフィレンツェでも反メディチ派が蜂起し、メディチ家を再び追放、ニッコロ・カッポーニが統領となる。 1527年 - マキャヴェッリ死去。 1527年 - 【フランドル】ヤン・ホッサールト(マビューズ)「ダナエ」(アルテ・ピナコテーク蔵)。 1527年頃 - ロレンツォ・ロット「受胎告知」(レカナーティ市立美術館蔵)。 1528年 - アンドレア・ドーリアが神聖ローマ帝国の援助を受け、ジェノヴァ共和国を復興させる。 1528年 - カスティリオーネ『宮廷人』出版。 1528年 - マテオ・ダ・バシオらがフランシスコ会から分派したカプチン会が修道会として認可される。 1528年 - ポントルモ、サンタ・フェリチタ聖堂「十字架降架」完成させる。 1528年 - 【ドイツ】ルーカス・クラナッハ「マルティン・ルターの肖像」。 1529年 - 貴婦人の和約によりイタリア戦争休止。神聖ローマ側はカール5世叔母マルガレーテ・フォン・エスターライヒ、フランス側はフランソワ1世母ルイーズ・ド・サヴォワ。 1529年 - 【オーストリア】第一次ウィーン包囲。 1529年 - 【ドイツ】アルブレヒト・アルトドルファー「アレクサンドロス大王の戦い」。 1530年 - ボローニャで教皇クレメンス7世が皇帝カール5世に戴冠式を行う。 1530年 - フィレンツェ攻防戦にて、フィレンツェが神聖ローマ帝国軍に降伏。ニッコロ・カッポーニ、フランチェスコ・カルドゥッチら指導者は処刑され、メディチ家復帰の道が開かれる(→1532年)。 1530年 - マントヴァが侯爵領から公爵領に昇格し、フェデリーコ2世がマントヴァ公となる。コレッジョがマントヴァ公フェデリーコ2世の依頼で「神々の愛」連作を描き始める。 1530年 - フラカストロ『梅毒あるいはフランス病』出版。 1530年 - 【ドイツ】メランヒトン「アウクスブルク信仰告白」。 1530年 - 【フランス】国王フランソワ1世の命でコレージュ・ド・ロワイヤル(王立教授団、後のコレージュ・ド・フランス)を設置。 1530年 - 【フランス】ロッソ・フィオレンティーノが国王フランソワ1世に招かれる。ロッソに続きフランチェスコ・プリマティッチオが1532年に、ニコロ・デッラバーテが1552年に宮廷に招かれる。 ロッソを筆頭とするこれらイタリア人芸術家の招聘により、宮廷を中心にフォンテーヌブロー派が形成される。 1530年頃 - ルイージ・ダ・ボルト『二人の高貴な恋人に関する最近発見された話』出版。このヴェローナを舞台とした筋書きはイングランドの劇作家シェークスピアの『ロミオとジュリエット』の原型となる。 1531年 - 最初のエンブレム・ブックであるアンドレーア・アルチャートの『エンブレマタ』(無許可版)出版。 1531年 - ベルナルディーノ・ルイーニ「洗礼者聖ヨハネの首を持つサロメ」(1527年 - )。 1532年 - メディチ家のアレッサンドロを君主とするフィレンツェ公国成立(フィレンツェ共和国の終焉)。 1532年 - ミケランジェロがメディチ家礼拝堂を未完のまま放棄し(1520年 - )、フィレンツェからローマに移住する。 1532年 - ポルデノーネ「聖ロレンツォ・ジュスティニアーニと諸聖人」。 1532年頃 - ジローラモ・ダ・カルピ「イッポーリト・デ・メディチ枢機卿とモンシニョール・マリオ・ブラッチの肖像」。 1532年頃 - 【フランス】ラブレー『ガルガンチュワとパンタグリュエル』出版開始( - 1564年)。 1533年 - 教皇クレメンス7世によるイングランド国王ヘンリー8世の破門。ヘンリー8世は翌1534年に国王至上法(首長令)を発布して、自らイングランド国教会の長となる カトリック教会からの離脱にはトマス・モアやジョン・フィッシャーらが最後まで反対し、両者は1535年に斬首刑となる 1533年 - カテリーナ・デ・メディチ(カトリーヌ・ド・メディシス)とフランス王子アンリ(後のアンリ2世)の結婚。この婚礼によりイタリア料理の新奇な食材・調理法や食事作法が伝えられフランス料理の洗練と発展が促される。 1533年 - モンフェッラート侯のパレオロギ家が断絶。パレオロギ家出身の妻を持つマントヴァ公フェデリーコ2世・ゴンザーガが1536年に侯位を継承する。 1533年 - 【イングランド】ハンス・ホルバイン「大使たち」。 1534年 - 教皇クレメンス7世死去、ファルネーゼ家出身の教皇パウルス3世即位。 1534年 - ジュリオ・ロマーノによりマントヴァのテ宮殿が完成(1526年 - )。 1534年 - バッチョ・バンディネッリ「ヘラクレスとカクス」。 1534年 - 【ドイツ】ミュンスター市が再洗礼派信者ヤン・ファン・ライデンらに占拠され、混乱状態に陥る(ミュンスターの反乱)。 1534年 - 【フランス】イグナチオ・デ・ロヨラらによりイエズス会が結成される:「モンマルトルの誓い」(正式認可は1540年)。 1535年 - ミラノ公フランチェスコ・マリーア・スフォルツァ死去。ミラノ公国は神聖ローマ帝国(ハプスブルク家)に接収され、スフォルツァ家の支配は完全に終了。 1535年 - パウルス3世がガスパロ・コンタリーニを枢機卿に任命。コンタリーニは、レジナルド・ポールやジャコポ・サドレトらとともにカトリック改革派グループ「スピリトゥアリ」の一人。 1535年 - 亡命ユダヤ人レオーネ・エブレオの遺稿から『愛の対話』出版(死去は1523年頃)。 1535年 - ドメニコ・ベッカフーミ「キリストの黄泉下り」(シエナ絵画館蔵) 。 1535年 - ジョヴァンニ・バッティスタ・コンファロニエリ『ワインの性質、およびその滋養と薬効について』。 1536年 - ティツィアーノ「ウルビーノのヴィーナス」。 1536年 - 【スイス】ジュネーヴでカルヴァンの宗教改革始まる。同じくこの年、カルヴァンはバーゼルで『キリスト教綱要』(初版ラテン語版)を出版(1559年に最終版)。 1536年 - 【イングランド】聖書をギリシャ語・ヘブライ語原典から初めて英訳したウィリアム・ティンダルが焚刑に処される。 1536年 - 【ドイツ】パラケルススが『大外科学』出版。 1537年 - フィレンツェ公アレッサンドロがメディチ家傍系のロレンツィーノ・デ・メディチ(ロレンザッチョ)に暗殺される。メディチ家兄脈は断絶、メディチ家弟脈の流れで黒隊長ジョバンニの息子がフィレンツェ公コジモ1世として公位継承。 ロレンツィーノと親しかった音楽家ヤコブ・アルカデルトは楽譜を抱えフィレンツェからヴェネツィアに逃亡。 1537年 - イエズス会士でロヨラの盟友でもあるピエール・ファーヴルがローマ大学教授となる。 1537年 - セバスティアーノ・セルリオ『建築書』第4巻(全7巻の構想の最初の巻)出版。この評判によりフランス王フランソワ1世に招聘され、フォンテーヌブロー宮殿の建築設計を担当。 1538年 - プレヴェザの海戦にて、教皇・スペイン・ヴェネツィアの連合海軍がオスマン帝国海軍に敗北。 1539年 - フィレンツェ公コジモ1世とエレオノーラ・ディ・トレドの結婚。 1539年 - 人文主義者ピエトロ・ベンボが枢機卿になる。 1539年 - ヤコブ・アルカデルト「4声のためのマドリガーレ」。 1539年 - ヴェネツィアで亡命スウェーデン人オラウス・マグヌスによる北欧の海図「カルタ・マリナ」出版(→1555年)。 1540年 - グイチャルディーニ『イタリア史』。 1540年 - スカリゲル『ラテン語の起源について』。 1540年 - パルミジャニーノ死去、未完の遺作は「首の長い聖母」(1534年 - )。 1541年 - 塩戦争(1540年 - )の敗北で、ペルージャを中心とするウンブリア地方が教皇領に編入される。 1541年 - オキーノに影響を与えた教会改革派のスペイン人フアン・デ・バルデスがナポリで死去(→1542年)。 1541年 - 古代ローマ美術の秀作「アレッツォのミネルヴァ」が発掘される。 1542年 - ミケランジェロ、システィーナ礼拝堂の壁画「最後の審判」を完成。 1542年 - 異端審問所の再編成が行われ、枢機卿ジャンニ・カラファ(後の教皇パウルス4世)が異端審問所長官に就任。 1542年 - イタリア人説教師ベルナルディーノ・オキーノが宗教裁判を恐れ、スイスのジュネーヴに亡命。 1542年 - コンメディア・デッラルテに影響を与えたパドヴァの演劇家アンジェロ・ベオルコ(イル・ルッツァンテ)死去。 1542年 - 【スペイン】バルトロメ・デ・ラス・カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』。 1542年 - 【フランス】王姉マルグリット・ド・ナヴァルが『エプタメロン』の執筆を始める( - 1549年)。 1543年 - パドヴァ大学教授ヴェサリウス、『ファブリカ(人体の構造)』出版。『ファブリカ』の人体解剖図を描いたのはティツィアーノの弟子ジャン・ステファン・ヴァン・カルカル。 1543年 - タルタリアによるエウクレイデス『原論』のイタリア語訳出版。 1543年 - チェッリーニ「サリエラ(黄金の塩容れ)」(ウィーン美術史美術館蔵)完成。 1543年 - 【ポーランド】コペルニクス『天球の回転について』出版。 1544年 - クレピーの和約により、イタリア戦争でのハプスブルク家とヴァロワ家の勢力範囲はほぼ確定(→1559年) 1544年 - オスマン帝国海軍(提督バルバロス・ハイレッディン)がアマルフィを襲撃するが撃退される。 1544年 - ギョーム・ポステル『世界諧和論』出版。ポステルはローマにいたイグナチオ・デ・ロヨラの知遇を得てイエズス会に入会、しかし見解の相違からほどなく追放される。 1545年 - 教皇パウルス3世によりトリエント公会議が開催される( - 1563年)。対抗宗教改革始まる。 1545年 - パルマ公国が成立、教皇パウルス3世の息子ピエール・ルイージ・ファルネーゼが初代パルマ公になる。 1545年 - ブロンズィーノ「愛のアレゴリー」(ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵)。 1545年 - バッキアッカ「マグダラのマリア」(1540年 - )。 1545年 - カルダーノ『偉大なる術(アルス・マグナ)』で三次方程式・四次方程式の解法を公表。 1545年 - パドヴァ植物園が、植物学者フェデリコ・ボナフェーデの構想、建築家アンドレア・モロニの設計によって開園する。 1545年頃 - 【フランドル】クレメンス・ノン・パパが神聖ローマ皇帝カール5世の宮廷礼拝堂楽長となる( - 1549年頃)。 1546年 - イタリア戦争の記録を残した歴史家パオロ・ジョヴィオによる『著名人礼賛』。 1546年 - ピエトロ・アレティーノ『オラツィア』。 1546年 - サン・ピエトロ大聖堂主任建築家アントニオ・ダ・サンガッロ死去。ジュリオ・ロマーノが主任建築家を継ぐが短期間で没し、翌1547年ミケランジェロが主任建築家に選ばれる。 1546年 - ティツィアーノ「教皇パウルス3世と枢機卿アレッサンドロ・ファルネーゼとオッターヴィオ・ファルネーゼの肖像」 1547年 - パルマ公ピエール・ルイージ・ファルネーゼ(→1545年)が暗殺される。一時パルマはミラノ総督フェランテ・ゴンザーガに占領されるが、オッターヴィオ・ファルネーゼが奪還しパルマ公位を継承。 1547年 - ミケランジェロとの友情で知られる女流詩人ヴィットリア・コロンナ死去。 1547年 - 【イングランド】国王ヘンリー8世死去、国王エドワード6世即位。 1547年 - 【フランス】国王フランソワ1世死去、国王アンリ2世即位。 1547年 - 【ロシア】モスクワ大公イヴァン4世が初めて正式に「ツァーリ」として戴冠式を行う。モスクワ・ウスペンスキー大聖堂での戴冠式には東ローマ帝国伝来という「モノマフの帽子」が使われる。 1548年 - ロレンツィーノ・デ・メディチ(ロレンザッチョ)がヴェネツィアで暗殺される。彼はフィレンツェ公アレッサンドロ暗殺(→1537年)の件で、後継のフィレンツェ公コジモ1世の刺客に追われていた。 1548年 - イグナチオ・デ・ロヨラ『霊操』決定版を出版。 1548年 - イグナチオ・デ・ロヨラがシチリア島メッシーナで世界初のイエズス会神学校を設立(現在のメッシーナ大学)。 1548年 - ティツィアーノ「カール5世騎馬像(ミュールベルクのカール5世)」。 1549年 - 教皇パウルス3世の死去(→1550年)。 1549年 - 【フランス】ジョアシャン・デュ・ベレー『フランス語の擁護と顕揚』。 1550年 - 教皇ユリウス3世即位(→1549年)。ユリウス3世の寵愛を一身に集めたインノチェンツォ・チョッキ・デル・モンテも枢機卿に昇進する。 1550年 - ヴァザーリ『画家・彫刻家・建築家列伝』出版。 1550年 - ジュリオ・カミッロ『劇場のイデア』出版。 1550年 - ジョヴァン・フランチェスコ・ストラパローラ『楽しき夜ごと』第1巻出版。 1550年 - 建築家バルトロメオ・アンマナーティと女流詩人ラウラ・バッティフェルリの結婚。 1550年 - レオ・アフリカヌス『海と陸の旅(アフリカ誌)』。 1550年頃 - 【フランス】ジャン・クーザン「エヴァ・プリマ・パンドラ」(ルーヴル美術館蔵) 1551年 - イグナチオ・デ・ロヨラによりローマ学院(現グレゴリアン大学)創設。 1551年 - ティツィアーノ「軍服姿のフェリペ皇太子」。 1552年 - ピッロ・リゴーリオにより「ボマルツォの怪物公園(聖なる森)」が造営される。 1552年 - フランドル人ピーテル・ブリューゲル(父)がイタリア各地を訪問( - 1555年頃) 1552年 - ルーカ・ガウリコ『占星術論考』。 1552年 - 【フランス】プレイヤード派の詩人ピエール・ド・ロンサールの『恋愛詩集』。 1553年 - ヤーコポ・サンソヴィーノによりヴェネツィア・国立マルチャーナ図書館完成(1536年 - )。 1553年 - アスカニオ・コンディヴィ『ミケランジェロ伝』出版。 1553年 - エトルリア美術の代表作「アレッツォのキメラ」が発掘される。 1553年 - 【イングランド】メアリー1世がイングランド女王となり、カトリックが復活する。枢機卿レジナルド・ポールが教皇庁から派遣され、続く1556年にはカンタベリー大司教(最後のカトリック)に就任。 1553年 - 【スイス】ミシェル・セルヴェがジュネーヴにてカルヴァンの命令で火刑に処せられる。 1554年 - 「ヴェネツィアのサッフォー」と呼ばれた女流詩人ガスパラ・スタンパ死去。 1554年 - ジャコモ・パロッツィ・ダ・ヴィニョーラがサンタンドレア・ヴィア・フラミア聖堂を完成(1550年 - )。 1554年 - ローマで女流画家ソフォニスバ・アングイッソラがミケランジェロと出会い、以後2年間にわたり指導を受ける。 1554年 - フランチェスコ・サルヴィアーティ「ダヴィデのもとへ行くバテシバ」。 1554年 - 【スイス】バーゼル大学教授セバスティアン・カステリヨン『異端者を処罰すべからざるを論ず』出版。 1554年 - 【スペイン】作者不詳の最古のピカレスク小説『ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯』が出版される。 1555年 - 教皇マルケルス2世が即位、この教皇にちなみパレストリーナが「教皇マルチェルスのミサ曲」を作曲。マルケルス2世が短期間で亡くなると、対抗改革強硬派の教皇パウルス4世が即位。 1555年 - フィレンツェ公国のコジモ1世によるシエナ占領。追放されたシエナ人はピエトロ・ストロッツィを指導者にモンタルチーノへ逃がれ、亡命政権を樹立(→1559年)。 1555年 - ローマにてスウェーデン人オラウス・マグヌスのラテン語による『北方民族文化誌』が出版される(→1539年)。 1555年 - 【ドイツ】アウクスブルクの和議。 1555年 - 【オーストリア】イエズス会士でウィーン司教でもあるペトルス・カニシウスによる『キリスト教教理大全』が出版される。 1555年 - 【フランス】ノストラダムス『予言集』刊行。 1556年 - ローマにてイエズス会初代総長(1541年 - )イグナチオ・デ・ロヨラ死去。 1556年 - ヴェネツィアの女流文学者カッサンドラ・フェデーレが102歳で死去。 1556年 - ペッレグリーノ・ティバルディによるボローニャのポッジ宮殿「オデュッセウスの間」壁画完成(1554年 - )。 1556年 - 【ドイツ・スペイン】カール5世が神聖ローマ皇帝・スペイン王その他の公職から退位、ユステ修道院に隠棲。カール5世の息子フェリペ2世はスペイン国王となり、シチリア・ナポリ・ミラノ・ネーデルラントを獲得。 カール5世の弟フェルディナント1世は神聖ローマ皇帝となり、オーストリア・ボヘミア・ハンガリーを獲得。 1557年 - 前ポーランド王妃ボナ・スフォルツァが帰国していた南イタリアのバーリにて暗殺される。ボナの所領だったバーリはスペイン王支配下のナポリ王国に編入される。 1557年 - 教皇パウルス4世のもとローマで最初の禁書目録が出される。 1557年 - ロドヴィーコ・ドルチェ『アレティーノまたは絵画問答』。 1558年 - ディエゴ・ライネスがイエズス会第2代総長に就任( - 1565年)。 1558年 - デッラ・ポルタ『自然魔術』出版。 1558年 - チェッリーニ『チェッリーニ自伝』執筆に着手( - 1562年)。 1558年 - ジョバンニ・デラ・カーサ『ガラテーオ』。 1558年 - ジョゼッフォ・ツァルリーノ『和声論』。 1558年 - 【イングランド】メアリー1世死去、異母妹エリザベス1世がイングランド女王に即位。 1558年 - 【スイス】スコットランド人ジョン・ノックスが『女たちの奇怪な統治に反対するラッパの最初の高鳴り』を出版。 1559年 - カトー・カンブレジ条約でイタリア戦争完全に終結。フランスがイタリアへの権利を放棄し、スペイン・ハプスブルク家のナポリ統治が確定。 オーストリア・ハプスブルク家がミラノ公国を領有することが認められる。 シエナ共和国はフィレンツェ公国の領土となり独立を喪失、モンタルチーノ亡命政権も降伏(→1555年)。 1559年 - 教皇パウルス4世の死去に伴い、教皇ピウス4世即位。 1559年 - ミケランジェロ設計のサン・ロレンツォ聖堂付属ラウレンツィアーナ図書館完成(1524年 - )。 1559年 - タッデオ・ツッカリによるカプラローラのパラッツォ・ファルネーゼ連作壁画。 1559年 - ソフォニスバ・アングイッソラがスペインのフェリペ2世に招かれ宮廷画家となる。 1559年 - 【フランス】ジャック・アミヨによるプルタルコス『対比列伝』のフランス語訳完成。この著作の国王アンリ2世への献呈文に「文芸の復興」の章句が盛り込まれる。 1559年 - 【フランス】国王アンリ2世が事故死。フランソワ2世が即位、王母カトリーヌ・ド・メディシスが摂政となる(→1533年)。 1559年 - 【ドイツ】マティアス・フラキウス『マグデブルクの諸世紀教会史』第1巻出版。 1560年 - 教皇ピウス4世が前任者パウルス4世の縁者の処分を発表(→1559年)。パウルス4世の甥カルロ・カラファ枢機卿とパリアノ男爵を専横悪行の罪により捕縛させ、翌1561年に両名を処刑させる。 1560年 - ヴァザーリらによりウフィッツィ宮殿(現ウフィッツィ美術館)着工( - 1580年)。 1561年 - ジョルジョ・ギージ「ラファエロの夢」。 1561年 - 【スペイン】国王フェリペ2世がトレドからマドリードに宮廷を遷す。 1562年 - タッソー叙事詩『リナルド』。 1562年 - ジャコモ・パロッツィ・ダ・ヴィニョーラ『建築の五つのオーダー』。 1562年 - イタリア人アルチンボルドがウィーンに招かれ、神聖ローマ皇帝フェルディナント1世の宮廷画家となる(→1591年)。 1562年 - 【フランス】ユグノー戦争(-1598年) 。 1563年 - 教皇ピウス4世によりトリエント公会議閉会(1545年 - )。教皇の甥で枢機卿カルロ・ボッロメーオおよび枢機卿ジョバンニ・モローネの助力が閉会にこぎつけた。 翌1564年には公会議の議決および教令がピウス4世の名の下で布告される(トリエント信条)。 1563年 - サヴォイア公国の首都がシャンベリーからピエモンテ地方のトリノに遷る。 1563年 - ブロンズィーノやヴァザーリらがフィレンツェ美術アカデミー創設。正式名称はアカデミア・デッレ・アルティ・デル・ディゼーニョ、現在のフィレンツェ美術学校 1563年 - ヴァザーリらによりヴェッキオ宮殿五百人大広間のフレスコ壁画「マルチャーノ・デッラ・キアーナの戦い」が描かれる。 1563年 - プロスペロー・フォンターナ「キリスト降架」。 1563年 - ピッロ・リゴーリオによりティヴォリのエステ家別荘の建設が始まる。 1563年 - 【ドイツ】ヨーハン・ヴァイヤー『悪霊の幻惑、および呪法と蠱毒について』 1563年 - 【フランドル】ピーテル・ブリューゲル(父)「バベルの塔」。 1564年 - ミケランジェロ死去、遺作は「ロンダニーニのピエタ」。 1564年 - フィリッポ・ネリらによりオラトリオ会が結成される(正式認可は1575年)。 1564年 - 【イングランド】ジョン・ディー『象形文字の単子』。 1565年 - マルタ包囲戦で、マルタ騎士団が激戦の末、オスマン帝国軍を撃退(→1522年)。 1565年 - フランシスコ・ボルハが第2代総長ディエゴ・ライネスを継いでイエズス会第3代総長となる。ガンディア公フアン・ボルハの長男で、父方の曽祖父はローマ教皇アレクサンデル6世である。 1565年 - ヴァザーリにより「ヴァザーリの回廊」完成。この回廊によりフィレンツェ公コジモ1世の自宅ピッティ宮殿と政庁のウフィッツィ宮殿が結ばれた。 1565年 - ガレアッツォ・アレッシによりジェノヴァのパラッツォ・カンビアーゾが完成。この時期ジェノヴァが活況を取り戻しレ・ストラーデ・ヌオーヴェ地区の宮殿や邸宅が整備される。 1565年 - ダニエレ・ダ・ヴォルテッラがミケランジェロの「最後の審判」の裸像に腰布を描く作業を行う。 1565年 - ジラルディ・チンツィオ『エカトンミティ』。 1565年 - 【フランドル】ピーテル・ブリューゲル(父)「雪中の狩人」。 1566年 - 【フランス】アントワーヌ・カロン「三頭政治下の虐殺」。 1567年 - 人文主義者ピエトロ・カルネセッキが打ち首の上、火刑に処せられる。 1567年 - このころクレタ島出身のエル・グレコがヴェネツィアのティツィアーノ工房に入門か 1567年 - レオーネ・レオーニによるミラノの「オメノーニの家(レオーニの自宅)」完成(1565年 - )。 1568年 - 【オランダ】八十年戦争始まる。 1569年 - フィレンツェ公国をトスカーナ大公国に再編、メディチ家のコジモ1世が大公となる(→1537年)。 1569年 - 建築家バルトロメオ・ アンマナーティによりフィレンツェのサンタ・トリニータ橋が完成(1567年 - )。 1569年 - ラファエル・ボンベリ が代数学における虚数を定義。 1569年 - 【ドイツ】ゲラルドゥス・メルカトルがメルカトル図法に基づく世界地図を作成。 1570年 - 教皇ピウス5世によるイングランド女王エリザベス1世の破門。これが教皇による世俗王侯への最後の破門となる。 1570年 - 教皇ピウス5世によるミサ典書の規範版が発表される(トリエント・ミサ)。 1570年 - トスカーナ大公コジモ1世が愛妾であったカミッラ・マルテッリと再婚。 1570年 - パッラーディオによるヴィチェンツァの住宅建築ロトンダの完成。 1570年頃 - 【スペイン】ルイス・デ・モラレス「授乳の聖母」。 1571年 - オスマン帝国がヴェネツィアからキプロス島を奪う。 1571年 - レパントの海戦にて、教皇・スペイン・ヴェネツィアの連合海軍がオスマン帝国海軍に勝利。 1571年 - フランスに赴いたタッソーとフランスの詩人ロンサールが交友関係を結ぶ。 1571年 - 【フランス】イタリア人占星術師コジモ・ルッジェーリが宮廷に出現し、王太后カトリーヌ・ド・メディシスの寵を得る。 1571年頃 - 【フランス】フランソワ・クルーエ「ディアーヌ・ド・ポワチエの肖像」(ワシントン・ナショナル・ギャラリー)。ディアーヌはフランス国王アンリ2世の愛妾、この肖像は彼女が亡くなった1566年以降に描かれたものである。 1572年 - アレッサンドロ・アローリ「真珠取り」(1570年 - )。 1572年 - 【フランス】サン・バルテルミの虐殺。 1572年 - 【ポルトガル】カモンイス『ウズ・ルジアダス』。 1573年 - タッソー牧歌劇『アミンタ』。 1573年 - ヴェロネーゼ「レヴィ家の饗宴(最後の晩餐)」。 1573年 - フィレンツェの音楽サークル「カメラータ」の記録に残る最も初期の会合。参加者はバルディ伯爵、ジュリオ・カッチーニ、ピエトロ・ストロッツィ、(ガリレオ・ガリレイの父)ヴィンチェンツォ・ガリレイ。 1573年 - イタリア人ヴァリニャーノがイエズス会東インド管区の巡察師に抜擢される。 1574年 - トスカーナ大公コジモ1世死去、息子のフランチェスコ1世が大公位を継承。 1575年 - トスカーナ大公フランチェスコ1世のストゥディオーロ(ヴェッキオ宮殿内の小書斎)完成(1570年 - )。この部屋はルネサンス期からバロック期に流行した博物陳列室「驚異の部屋(ヴンダーカンマー)」の典型である。 1575年 - タッソー『解放されたエルサレム』出版。 1576年 - トスカーナ大公フランチェスコ1世の弟ピエトロ・デ・メディチが夫人のレオノーラ・ディ・トレドを殺害する。 1576年 - トスカーナ大公フランチェスコ1世の妹イザベッラ・デ・メディチが夫のパオロ・ジョルダーノ・オルシーニに殺害される。 1576年 - ペスト流行、ミラノ大司教で枢機卿のカルロ・ボッロメーオが大規模な救済活動を行う(1610年列聖)。 1576年 - ティツィアーノ死去、遺作は「ピエタ」(ヴェネツィア・アカデミア美術館蔵)。 1576年 - フェルディナンド・ディ・メディチ枢機卿(後のトスカーナ大公)がローマの土地を買い取る。翌年までにこの土地に、基本設計をアンマナーティ、室内装飾をヤコポ・ツッキが担当したヴィラ・メディチを完成させる。 1576年 - カルダーノ死去、この年までに『我が人生の書(カルダーノ自伝)』完成(1575年 - )。 1576年 - 【フランス】ジャン・ボダン『国家論』。 1576年 - 【フランス】イノサン・ジャンティエ『反マキャヴェッリ論』。 1576年 - 【イングランド】ロンドンに最初の常設民衆劇場のシアター座(1599年に再編してグローブ座)が開かれる。以後カーテン座・ローズ座・スワン座が設置され、エリザベス朝のイギリス・ルネサンス演劇が最盛期を迎える。 ジョン・ウェブスター、ベン・ジョンソン、クリストファー・マーロウ、ウィリアム・シェイクスピアらが代表。 1577年 - 【スペイン】アビラのテレサ『完徳の道』。 1577年頃 - ヤコポ・バッサーノ「聖ルキアの洗礼を施す聖ウァレンティヌス」。 1578年 - パルマ公子アレッサンドロ・ファルネーゼがスペイン王フェリペ2世よりネーデルラント総督に任じられる( - 1586年)。 1578年 - イタリア人イエズス会士マテオ・リッチの東方(中国)宣教旅行開始。 1578年 - ローマ市のヴィラ・サラリア通りで初期キリスト教時代のカタコンベが発見される。 1578年 - サヴォイア家所有の「聖骸布」がトリノに移される(トリノの聖骸布)。 1579年 - イタリア人神学者ファウスト・ソッツィーニがポーランドのクラクフに定住する。叔父レリオ・ソッツィーニの影響を受け、キリストの神性を否定した反三位一体説(ソッツィーニ主義)をこの地に広める。 1580年 - スペイン人イエズス会士フランシスコ・スアレスがローマ学院教授となる。 1580年 - 【ポルトガル】アルカンタラの戦いでドン・アントニオがスペイン軍に敗れフランスに亡命。ポルトガルはスペインに併合され( - 1640年)、スペイン王フェリペ2世がポルトガル王を兼ねる。 1580年 - 【フランス】モンテーニュ『エセー(随想録)』初版出版。モンテーニュはこの年から翌年にフランス・ドイツ・スイス・イタリアを歴訪し『旅日記』を記録する(出版は1774年)。 1580年 - 【フランス】陶工ベルナール・パリッシー『水と泉の驚異の言説』。 1581年 - トスカーナ大公フランチェスコ1世の命によるウフィッツィ宮殿天井のグロテスク模様装飾が完成する。 1581年頃 - 【フランドル】アントワヌ・カロン原画の「ヴァロワ・タピストリー」(ウフィツィ美術館蔵)が完成したか。 1582年 - 教皇グレゴリウス13世の命によりグレゴリオ暦が採用される。この改暦に協力したのが天文学者アロイシウス・リリウスや数学者クリストファー・クラヴィウス。 1582年 - ローマ近郊のモンテ・デル・グラノの古代の墓地でファブリツィオ・ラッザーロが「ポートランドの壺」を発見。 1582年 - 【フランス】アンブロワーズ・パレ『大外科学全集』。 1583年 - フィレンツェに言語研究のためのクルスカ学会が設立される。 1583年 - 教皇グレゴリウス13世の夏の宮殿としてクイリナーレ宮殿(現イタリア共和国大統領官邸)が建設される。 1583年 - ルカ・カンビアーゾがスペイン国王フェリペ2世に招かれエル・エスコリアル宮殿の壁画を担当する 。 1583年 - ジョヴァンニ・ダ・ボローニャ(ジャンボローニャ)「サビニ女たちの略奪」。 1583年 - フリウリ地方の粉挽屋ドメニコ・スカンデッラ(メノッキオ)が異端審問で告発される(『チーズとうじ虫』)。 1583年 - 【ボヘミア】神聖ローマ皇帝ルドルフ2世がウィーンからプラハに宮廷を遷す。 1584年 - ジョルダーノ・ブルーノ『無限、宇宙および諸世界について』。 1584年 - ジョヴァンニ・パオロ・ロマッツォ『絵画芸術論七書』出版。 1584年 - ジャコモ・バロッツィ・ダ・ヴィニョーラによりローマのイエズス会本部ジェズ教会完成(1568年 - )。 1584年 - ベルナルド・ブオンタレンティの設計によりウフィッツィ宮殿のトリブーナが完成。 1584年 - 【スペイン】国王フェリペ2世の命によるエル・エスコリアル宮殿完成(1563年 - )。 1585年 - 日本の天正遣欧少年使節一行、教皇グレゴリウス13世に謁見。ヤコポ・ティントレットの息子ドメニコにより「伊東マンショの肖像」(ミラノ・トリヴルツィオ財団蔵)が描かれる。 1585年 - 教皇グレゴリウス13世死去、教皇シクストゥス5世即位(‐1590年)。このシクストゥス5世時代に、大規模な教会建築の補修、街路・水道・橋梁の設置がなされ、都市ローマが大きく改造される。 1585年 - 【ドイツ】民衆本『実伝ファウスト博士』出版(モデルは1538年に爆死した魔術師ゲオルク・ファウストか)。 1585年頃 - アンニーバレ・カラッチとその一族がボローニャに美術学校アカデミア・デリ・インカミナーティを設立。 1586年 - 教皇シクストゥス5世の命で、ドメニコ・フォンターナが古代のオベリスクをサン・ピエトロ広場に移動させる。 1586年 - デッラ・ポルタ『観相術』を出版。 1586年 - 【オランダ】ヘンドリック・ホルツィウス版画シリーズ「ローマの英雄たち」。この時期、ホルツィウスのいたハールレムはマニエリスム芸術の北方での中心地となる。 1587年 - トスカーナ大公フランチェスコ1世と大公妃ビアンカ・カッペッロの連続怪死事件。 1587年 - フェルディナンド1世がトスカーナ大公を継承( - 1609年)、トスカーナ大公国の最後の繁栄。 1587年 - 教皇シクストゥス5世の命で、初めてバチカンに印刷局を設置。 1587年 - 【イングランド】前スコットランド女王メアリー・ステュアート、イングランド女王エリザベス1世の命で処刑される。 1588年 - チェザレ・バロニウス『教会年代記』第1巻出版。 1588年 - ベルナルディーノ・テレジオ『事物の本性について(自然論)』。 1588年 - ヴェロネーゼ死去、遺作はヴェネツィア・聖パンテレイモン教会の「聖パンテレイモンの回心」。 1588年 - 【スペイン・イングランド】アルマダ海戦でスペイン敗北。 1588年 - 【スペイン】イエズス会士ルイス・デ・モリナ『自由意志と恩恵の賜物の調和』(モリナ主義)。 1588年 - 【スペイン】エル・グレコ「オルガス伯の埋葬」完成。 1588年 - 【イングランド】ニコラス・ヒリアード「薔薇の中の青年」。 1589年 - トスカーナ大公フェルディナンド1世とフランス国王アンリ2世の孫娘クリスティーナ・ディ・ロレーナの結婚。 1589年 - 『オペラ・ロギカ』(1578年)、『タブラ・ロギカエ』(1580年)で知られる哲学者ヤコポ・ザバレラ死去。 1589年 - フランドルの画家ヤン・ブリューゲル (父) がこの年以降イタリアに長期滞在する( - 1596年)。 1589年 - カンパネッラがナポリに赴きデッラ・ポルタの弟子となる。 1589年 - イエズス会士ジョヴァンニ・ピエトロ・マッフェイ『東インドの歴史』。 1590年 - ヴェノーサ領主で音楽家のカルロ・ジェズアルドがその妻マリア・ダヴァロスと愛人ファブリツィオ・カラファを惨殺。 1590年 - 【イングランド】エドマンド・スペンサー『妖精の女王』。 1591年 - パトリッツィ『新普遍哲学』出版。 1591年 - イエズス会士アロイシウス・ゴンザーガが疫病により23歳で死去(1726年列聖)。 1591年 - ヴェネツィアの女流詩人で高級娼婦でもあったヴェロニカ・フランコ死去。 1591年 - 【ボヘミア】アルチンボルドによる「ウェルトゥムヌスに扮するルドルフ2世」完成(→1562年)。神聖ローマ皇帝ルドルフ2世のプラハの宮廷を中心に国際マニエリスム様式が広がる(→1583年) ルーラント・サーフェリー、バルトロメウス・スプランヘル、ハンス・フォン・アーヘンらもここで活躍 1591年 - 【スペイン】十字架のヨハネ死去、主著『暗夜』を含めた著作は死後30年経過した1618年に出版される。 1592年 - イエズス会士ロベルト・ベラルミーノらにより改訂版ヴルガータ聖書(シクストゥス・クレメンティーノ版)出版。 1592年 - ティントレット、ヴェネツィア・ドゥカーレ宮殿の「天国」(世界最大の油彩壁画)完成。 1593年 - トスカーナ大公フェルディナンド1世がリヴォルノ港を自由貿易港とする(リヴォルノ憲章)。 1593年 - ドメニコ・フォンターナとジャコモ・デッラ・ポルタによりサン・ピエトロ大聖堂のドーム部分が完成する。 1593年 - ロベルト・ベラルミーノ『異端反駁信仰論争』完成(1581年 - )。 1593年 - フェデリコ・ツッカリらによりローマで聖ルカ・アカデミーが設立される。 1593年 - チェーザレ・リーパの図像学事典『イコノロジア』出版。 1593年 - ベルナルド・ブオンタレンティによりフィレンツェのボーボリ庭園の洞窟(グロッタ)完成(1583年 - )。 1594年 - 【ボヘミア】アドリアーン・デ・フリース「プシュケを持ち上げるメルクリウス」(ルーヴル美術館蔵)。 1594年 - ティントレット死去、遺作はヴェネツィア・サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会の「最後の晩餐」。 1594年 - ドメニコ・フォンターナがサルノ川支流にある運河の地下からポンペイ遺跡を発掘。 1594年 - ジェローラモ・ファブリツィオによりパドヴァ大学に最初の解剖劇場が建てられる。 1594年 - 【フランス】フォンテーヌブロー派「ガブリエル・デストレとその妹」。 1595年 - 【イングランド】シェイクスピア「ロミオとジュリエット」初演。 1595年頃 - カラヴァッジオがフランチェスコ・マリア・デル・モンテ枢機卿に見出され庇護を受ける 1596年 - フェデリコ・バロッチによるペルージアのサンタ・マリア・デリ・アンジェリコ教会祭壇画「受胎告知」完成(1592年 - )。 1597年 - フェラーラ公国のエステ家本流断絶、フェラーラは教皇領に編入される。エステ家傍系のチェーザレ・デステはモデナおよびレッジョ公国(モデナ公国)だけを継承。 1597年 - 宗教改革者フランチェスコ・プッチの処刑。 1597年 - 【スペイン】フランシスコ・スアレス『形而上学討論集』。 1597年 - 【スコットランド】国王ジェームズ6世『デモノロジー(悪魔学)』(→1603年)。 1597年頃 - ヤコポ・ペーリによる『ダフネ』(最古のオペラ)。 1598年 - ジョヴァンニ・ダ・ボローニャ(ジャンボローニャ)「コジモ1世騎馬像」。 1598年 - イギリス人ウィリアム・ハーヴェイがパドヴァ大学に入学し解剖学者ジローラモ・ファブリッチに師事する。 1598年 - 【フランス】国王アンリ4世によるナントの勅令。 1598年 - 【イングランド】ジョン・フローリオ編纂による最初の『伊英辞典』が出版される。 1599年 - スフォンドラーティ枢機卿の命により聖チェチリアの墳墓を改葬するため聖女の遺体を検分する(→1600年)。 1599年 - ベアトリーチェ・チェンチ処刑。
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