1500年 - 1599年とは? わかりやすく解説

1500年 - 1599年

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イタリア・ルネサンス年表」の記事における「1500年 - 1599年」の解説

1500年代チンクエチェント Cinquecento):ローマ中心にルネサンス文化最盛期迎えるが、間もなく宗教改革起こり1527年ローマ略奪により荒廃文化中心フランスヴェネツィアなどに移りマニエリスム呼ばれる傾向表れる宗教改革への反動外国侵略によりイタリアルネサンス文化衰退に向かう。 1500年 - チェーザレ・ボルジア軍がフォルリ制圧女傑カテリーナ・スフォルツァ軍門に下る。ロレンツォ・ディ・クレディによる「カテリーナ・スフォルツァ肖像」は修道院隠棲したこの時期から晩年のもの( - 1506年)。 1500年 - ミケランジェロによる「サン・ピエトロのピエタ完成1498年 - )。 1501年 - エステ家アルフォンソ(後のフェラーラ公アルフォンソ1世)とルクレツィア・ボルジア結婚1501年 - アルドゥス・マヌティウス印刷工房初めイタリック体活字用いられる(→1494年)。 1501年頃 - ジョヴァンニ・ベリーニヴェネツィア元首レオナルド・ロレダン像」。 1502年 - メディチ家不在フィレンツェピエロ・ソデリーニ終身統領選出される( - 1512年)。 1502年 - フィレンツェ第二書記局長マキャヴェッリ使節としてチェーザレ・ボルジア和平交渉を行う。 1502年 - レオナルド・ダ・ヴィンチ建築技術監督軍事顧問としてチェーザレ・ボルジア近侍する( - 1503年)。 1502年 - チェーザレ・ボルジア対すマジョーネの乱が起こる。チェーザレ窮地に立たされる形勢逆転し首謀者ヴィテロッツォ・ヴィテッリ処刑する1502年 - パルマ大学創建1502年頃 - ブラマンテサン・ピエトロ・イン・モントリオ教会テンピエット殉教者記念礼拝堂)を建立する1503年 - 教皇アレクサンデル6世死去、その息子チェーザレ・ボルジア捕縛されるボルジア家没落)。後継ピウス3世短期間亡くなると、デッラ・ローヴェレ家出身教皇ユリウス2世即位1503年 - チェリニョーラの戦いで、スペインコルドバ将軍ナポリ征服(→1504年)。 1503年 - ガリリャーノの戦いでスペイン軍フランス軍激突追放されていたピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ戦闘逃走中ガリリャーノ川溺死メディチ家当主は弟のジョヴァンニ枢機卿(後のローマ教皇レオ10世)に継承される1503年 - アメリゴ・ヴェスプッチ新大陸出版コロンブス到達した大陸インドではなく新大陸」と認定1503年 - レオナルド・ダ・ヴィンチフィレンツェ政庁舎の大会議室壁画アンギアーリの戦い」に着手(→1440年)。レオナルド壁画向かいには競作としてミケランジェロの「カッシナの戦い」も依頼された(→1364年)。 両作とも1505年ころまでに完成至らず途中放棄され、1555年頃から始まったヴァザーリ改装によって失われる1503年 - マリオット・アルベルティネッリ聖母のエリザベト訪問」。 1503年頃 - 【フランドルヒエロニムス・ボス快楽の園」。 1504年 - スペイン派遣した総督副王)によるナポリ支配が始まる( - 1700年)。 1504年 - ミケランジェロ、「ダビデ像」(フィレンツェ市庁舎ヴェッキオ宮殿前)。 1504年 - ヤコポ・デ・バルバリ手袋石弓の矢のある死んだ」(アルテ・ピナコテーク)。この画は西ヨーロッパ最古静物画であり、トロンプ・ルイユ仕掛けがされている。 1504年 - ピエトロ・クリニート栄えある学識について』出版1504年 - サンナザーロ『アルカディア出版1504年 - ポンポーニョ・ガウリコ彫刻論』。 1504年 - ボローニャ大学教授コペルニクスの師でもあったドメニコ・マリア・ノヴァーラ死去1504年頃 - フラ・バルトロメオ「聖ベルナルドゥス幻視」(ウフィツィ美術館)。 1504年頃 - ルカ・シニョレッリオルヴィエート大聖堂壁画「最後の審判」完成1500年 - )。 1505年 - 教皇ユリウス2世サン・ピエトロ大聖堂改築決定建築主任となったのはドナト・ブラマンテ1505年 - デューラー第2回イタリア旅行( - 1507年)。 1505年 - 【ドイツ】リーメンシュナイダーによるローテンブルク聖ヤコブ教会の「聖血祭壇完成1499年 - )。 1506年 - ベンティヴォーリョ家が失脚しボローニャ教皇領編入される1506年 - 教皇ユリウス2世近衛兵として初めスイス傭兵採用依頼1505年)。 1506年 - ネロ帝の黄金宮殿跡(トラヤヌス浴場付近地中からラオコーン像発見1506年 - レオナルド・ダ・ヴィンチ岩窟の聖母」(ロンドン・ナショナルギャラリー完成(→1486年)。 1506年 - エラスムストリノ大学にて神学博士取得1507年 - ジョルジョーネ「嵐(テンペスト)」完成1505年頃 - )。 1507年 - 【ナバラチェーザレ・ボルジアが、ヴィアナにて戦死(→1503年)。イタリア追われチェーザレ義兄ナバラ王ファン3世庇護され、スペインとの戦争に参陣していた。 1507年頃 - ミケランジェロドーニ家の聖家族トンド・ドーニ)」。 1508年 - カンブレー同盟戦争( - 1516年)。 1508年 - ウルビーノ公グイドバルドが死去しモンテフェルトロ家正嫡断絶後継はグイドバルドの姉ジョヴァンナの子教皇ユリウス2世の甥である、デッラ・ローヴェレ家のフランチェスコ・マリーア。 1508年 - 詩人エルコレ・ストロッツィがフェラーラ刺殺される。 1508年 - ヤン・ホッサールト(マビューズ)がユトレヒト司教フィリップ・ドゥ・ブルゴーニュに随行しイタリア訪問(-1509年)。ホッサールトはイタリア美術影響大きく受けたアルプス以北画家たちロマニスト」の先駆けとなる。 1509年 - アニャデッロ戦いで、フランス・アラゴンと結んだ教皇軍がヴェネツィア軍を破る。ヴェネツィアはヴェローナ・ヴィチェンツァ・パドヴァを奪われ北東イタリア覇権を失う。 1509年 - ルカ・パチョーリ神聖比例論』。 1510年 - ラファエロ、「アテネの学堂」を含む教皇宮殿壁画完成1510年 - ボッティチェリ死去最晩年作品ダンテ『神曲』写本挿絵1510年 - ジョルジョーネ死去遺作に「眠れるヴィーナス」「田園の奏楽」(以後ティツィアーノ補筆)ほか。 1510年 - ドイツ人聖アウグスチノ修道会マルティン・ルターローマ訪問、ここで教会世俗化に不満を持つ(→1517年)。 1510年頃 - バルトロメオ・ヴェネトフローラ」(一説ルクレツィア・ボルジア肖像画という)(1507年頃 - )。 1511年 - 教皇ユリウス2世中心に神聖同盟結成、アラゴン・ヴェネツィア・イングランド・スイスが参加しフランス対抗1511年 - 古代ローマ建築家ウィトルウィウス建築についてラテン語版(フラ・ジョコンド版)がヴェネツィア出版される1511年 - 【ドイツ・フランス】エラスムスの『痴愚神礼讃』がストラスブール出版される1511年 - 【ドイツこの頃までに民衆本ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら出版か。 1512年 - 第5ラテラン公会議開催される( - 1517年)。教皇ユリウス2世による開催であったが、公会議終結見ずユリウス2世は翌1513年死去1512年 - ラヴェンナの戦い1512年 - スペイン軍援助メディチ家ジョヴァンニ枢機卿)がフィレンツェ復帰、ソデリーニ政権崩壊する1502年 - )。 1512年 - ミケランジェロシスティーナ礼拝堂天井画天地創造」を完成 1512年 - ラファエロ教皇ユリウス2世の肖像」(ロンドン・ナショナル・ギャラリー完成1511年-) 1513年 - メディチ家出身教皇レオ10世ジョヴァンニ枢機卿)が即位メディチ家ローマロレンツォ二男教皇レオ10世)とフィレンツェロレンツォ三男ジュリアーノ)の双方支配1513年 - ノヴァーラの戦い1513年 - マキャヴェッリ君主論執筆1517年には君主論対になるリウィウス論』を執筆)。 1513年頃 - ピエロ・ディ・コジモアンドロメダを救うペルセウス」。 1514年 - ドナト・ブラマンテ死去後継サン・ピエトロ大聖堂建築主任となったのはラファエロ1514年 - 【スペイン枢機卿ヒメネス・デ・シスネロスらによる多言語対訳新約聖書完成1514年 - 【ドイツデューラー銅版画メランコリア I」。 1514年 - 【フランドルクエンティン・マサイス両替商とその妻」。 1515年 - マリニャーノの戦いでミラノフランス敗北ミラノ公マッシミリアーノ・スフォルツァフランス国王フランソワ1世支配権譲渡1515年 - ジュリアーノ・デ・メディチサヴォイア家公女フィリベルタの結婚。これによりジュリアーノフランス王フランソワ1世からヌムール公称号授与される1515年 - パヴィア大学アグリッパ神学講義1515年 - 【ポルトガル国王マヌエル1世インド総督アフォンソ・デ・アルブケルケから犀が贈られる教皇レオ10世にも回される予定だったが船が座礁して頓挫デューラーの木版画「犀」のモデルでもある。 1515年 - 【ドイツグリューネヴァルトイーゼンハイム祭壇画完成1511年 - )。 1516年 - ボローニャ政教条約(→1438年)。 1516年 - ヌムール公ジュリアーノ死去メディチ家当主は甥のロレンツォ2世継承1516年 - ウルビーノ戦争メディチ家当主ロレンツォ2世教皇レオ10世からウルビーノ公任命されるデッラ・ローヴェレ家のフランチェスコ・マリーア1世がこれに反対して戦うも追放され、公位を失う。 1516年 - ルドヴィーコ・アリオスト狂えるオルランド出版1516年 - パドヴァ大学教授ピエトロ・ポンポナッツィ霊魂不滅論』出版パドヴァ学派アヴェロエス主義的アリストテレス解釈から霊魂の可死性について言及する1516年 - ヴェネツィアゲットー設置されるシェイクスピアヴェニスの商人』のモデル)。 1516年 - ラファエロサンタ・マリア・デル・ポポロ教会キージ家礼拝堂完成させる1513年 - )。この礼拝堂シエナ出身銀行家アゴスティーノ・キージが依頼したもの。 1516年 - 【イングランドトマス・モアユートピア出版1517年 - テオーフィロ・フォレンゴ『バルドゥス出版1517年 - アンドレア・デル・サルト「アルピエの聖母」。 1517年 - 【ドイツマルティン・ルター宗教改革始まる。ルターヴィッテンベルク大学教授で、同大学に贖宥状是非について95ヶ条の論題」を貼り出した。 1517年 - 【ドイツウルリヒ・フォン・フッテン桂冠詩人になる。 1517年 - 【ドイツヨハネス・ロイヒリンカバラ術について』。 1517年 - 【ドイツ】ハンス・バルドゥング・グリーン「死と乙女」。 1518年 - ミラノ公ボナ・スフォルツァポーランド王ジグムント1世結婚1518年 - マキャヴェッリ喜劇マンドラゴラ』。 1519年 - ウルビーノ公ロレンツォ2世死去メディチ家当主ロレンツォ2世の父の従兄弟であるジューリオ枢機卿(後の教皇クレメンス7世)となる。 1519年 - ラファエロ教皇レオ10世枢機卿たちの肖像」(ウフィッツィ美術館完成1518年-) 1519年 - フランチャビージオによるサルツォ修道院フレスコ画洗礼者ヨハネ砂漠への旅立ち完成1518年 - )。 1519年 - 【ドイツデューラー神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世肖像」(ウィーン美術史美術館)。 1519年 - 【ドイツ神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世死去後継神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の孫・スペイン王カルロス1世カール5世)を選出フッガー家資金によりカール5世選挙勝利、その一方フランス国王フランソワ1世との対立激化(→1521年)。 1519年 - 【スペインマゼランの世界周航始まる。マゼラン艦隊同乗していたイタリア人アントニオ・ピガフェッタはこの航海全うし詳細な記録を残す。 1519年 - 【フランスレオナルド・ダ・ヴィンチ死去遺作は「モナ・リザ」「聖アンナと聖母子」「洗礼者聖ヨハネ」。「モナリザ」はフランス国王フランソワ1世買い上げられ、フォンテーヌブロー宮殿飾られる物理学力学光学建築学分野にまたがるレオナルド・ダ・ヴィンチ手稿残され以後各地分蔵される。 1520年 - 教皇レオ10世回勅「エクスルゲ・ドミネ(主よ、お立ちください)」。ルターはこの破門威嚇拒否(→1521年)。 1520年 - ラファエロ死去遺作は「キリストの変容」、未完成部分弟子ジュリオ・ロマーノ補筆後継サン・ピエトロ大聖堂建築主任となったのはアントニオ・ダ・サンガッロ、バルダッサーレ・ペルッツィがそれを補佐ラファエロの死とともにヴェネツィアを除くイタリア美術盛期ルネサンス様式からマニエリスム様式漸次移行1520年 - ガロファロキリストの昇天」(1510年 - )。 1520年 - 【ドイツルターが『ドイツ貴族与える書』『教会バビロン捕囚』『キリスト者の自由』を執筆1520年 - 【スウェーデンストックホルムの血浴事件。これ以後グスタフ・ヴァーサ首領とする対デンマーク独立戦争が始まる。 1520年頃 - パルマ・イル・ヴェッキオヴィオランテ」(ウィーン美術史美術館)。 1521年 - 教皇レオ10世回勅「デチェト・ロマヌム・ポンティフィチェム(ローマ教皇として)」。教皇側は正式にルター破門処す西方教会分裂修復されないまま、レオ10世この年死去1521年 - イタリア戦争始まる( - 1544年)。ハプスブルク家(オーストリア・スペイン)とヴァロワ家フランス)とがイタリア巡って争う。 1521年 - ロッソ・フィオレンティーノ十字架降架」(ヴォルテラ美術館)。 1521年 - 【ドイツヤーコプ・フッガー出資によるアウクスブルク集合住宅フッガーライ完成1522年 - 教皇ハドリアヌス6世即位( - 1523年)。この教皇オランダ人本名はアドリアン・フロリス、神聖ローマ皇帝カール5世家庭教師務めていた。 この教皇によりフランドルからローマ招聘され教皇庁付き画家となり肖像画描いたのがヤン・ファン・スコーレル1522年 - ロドス島攻防戦で、聖ヨハネ騎士団オスマン帝国軍敗北聖ヨハネ騎士団シチリア島退去し1530年にはシチリアスペイン総督支配するマルタ島移動マルタ騎士団)。 1523年 - メディチ家出身教皇クレメンス7世(ジューリオ枢機卿)が即位メディチ家当主アレッサンドロウルビーノ公ロレンツォ2世庶子)とイッポーリト(ヌムール公ジュリアーノ庶子)。 1523年 - ウルビーノ公国の都がウルビーノからペーザロ遷る以後ウルビーノ衰退する1523年 - ティツィアーノバッカスとアリアドネ完成1520年 - )。 1523年 - 【スイスツヴィングリの宗教改革チューリッヒで始まる。 1523年 - 【フランスルフェーヴル・デタープル新約聖書フランス語翻訳1530年には旧約聖書翻訳完成)。 1523年 - 【ドイツハンス・ザックスヴィッテンベルクナイチンゲール)』。 1524年 - ジャンニ・カラファ(後の教皇パウルス4世)らによりテアティノ会(聖カエタノス修道会)が結成される1524年 - パルミジャニーノ凸面鏡の自画像1524年 - マルカントニオ・ライモンディ版画イ・モーディ初版1524年 - 【ドイツ宗教改革急進派トマス・ミュンツァー指導者にドイツ農民戦争が起こる( - 1525年)。 1524年 - 【スイスバーゼルエラスムスルター対抗し自由意志論』を著す。翌1525年ルターはこれに対抗し奴隷意志論』を、翌々1526年エラスムスが『反論』を発表して論争となる。 1524年 - 【フランドルヨアヒム・パティニールステュクス川を渡るカロン」(プラド美術館)(1515年 - )。 1524年頃 - ドッソ・ドッシユピテルメルクリウス美徳を描く男)」(1522年 - )。 1525年 - パヴィアの戦いフランス王フランソワ1世捕虜となり、マドリード幽閉される。 1525年 - ピエトロ・ベンボ俗語論出版トスカーナ方言標準語とすることを主張1525年 - ソドマ聖セバスティアヌスの殉教」。 1525年頃 - 【フランス】ジャン・ド・グールモン「羊飼いの礼拝」。 1526年 - マドリード条約により、捕虜となっていたフランス王フランソワ1世釈放される(→1525年)。釈放されフランソワ1世条約撤回し教皇クレメンス7世・ミラノ・ヴェネツィア・イングランドとコニャック同盟を結ぶ。 1526年 - 教皇クレメンス7世皇帝カール5世同盟していたフェラーラ公アルフォンソ1世破門しローマ幽閉1526年 - マントヴァ近郊での皇帝カール5世軍の攻撃により、教皇軍の黒隊長ジョバンニ負傷して死去1526年 - 【ドイツドイツ農民戦争農民についた画家イェルク・ラートゲープが処刑される(→1524年)。 1526年 - 【スペインフランシスコ・デ・ビトリアサラマンカ大学神学教授となる。以後ドミンゴ・デ・ソトやルイス・モリナやフランシスコ・スアレス代表される近代スコラ学サラマンカ学派拠点となる。 1526年頃 - セバスティアーノ・デル・ピオンボ教皇クレメンス7世肖像」。 1527年 - 神聖ローマ帝国軍の攻撃ローマ壊滅ローマ略奪)。教皇クレメンス7世サンタンジェロ城逃げ込むが、皇帝カール5世屈服(→1530年)。 ローマ市街はドイツ人傭兵ランツクネヒト)が蹂躙するところとなり、事実上ローマで盛期ルネサンス終了する。 この知らせを受けフィレンツェでも反メディチ派が蜂起しメディチ家を再び追放、ニッコロ・カッポーニが統領となる。 1527年 - マキャヴェッリ死去1527年 - 【フランドルヤン・ホッサールト(マビューズ)「ダナエ」(アルテ・ピナコテーク)。 1527年頃 - ロレンツォ・ロット受胎告知」(レカナーティ市立美術館)。 1528年 - アンドレア・ドーリア神聖ローマ帝国援助を受け、ジェノヴァ共和国復興させる1528年 - カスティリオーネ宮廷人』出版1528年 - マテオ・ダ・バシオらがフランシスコ会から分派したカプチン会修道会として認可される1528年 - ポントルモ、サンタ・フェリチタ聖堂十字架降架完成させる1528年 - 【ドイツルーカス・クラナッハマルティン・ルターの肖像」。 1529年 - 貴婦人の和約によりイタリア戦争休止神聖ローマ側はカール5世叔母マルガレーテ・フォン・エスターライヒフランス側フランソワ1世ルイーズ・ド・サヴォワ1529年 - 【オーストリア第一次ウィーン包囲1529年 - 【ドイツアルブレヒト・アルトドルファーアレクサンドロス大王の戦い」。 1530年 - ボローニャ教皇クレメンス7世皇帝カール5世戴冠式を行う。 1530年 - フィレンツェ攻防戦にて、フィレンツェ神聖ローマ帝国軍に降伏。ニッコロ・カッポーニ、フランチェスコ・カルドゥッチら指導者処刑されメディチ家復帰の道が開かれる(→1532年)。 1530年 - マントヴァ侯爵領から公爵領昇格しフェデリーコ2世マントヴァ公となる。コレッジョマントヴァ公フェデリーコ2世依頼で「神々の愛」連作描き始める。 1530年 - フラカストロ梅毒あるいはフランス病』出版1530年 - 【ドイツメランヒトンアウクスブルク信仰告白」。 1530年 - 【フランス国王フランソワ1世の命でコレージュ・ド・ロワイヤル(王立教授団、後のコレージュ・ド・フランス)を設置1530年 - 【フランスロッソ・フィオレンティーノ国王フランソワ1世招かれるロッソ続きフランチェスコ・プリマティッチオ1532年に、ニコロ・デッラバーテ1552年宮廷招かれるロッソ筆頭とするこれらイタリア人芸術家招聘により、宮廷中心にフォンテーヌブロー派形成される1530年頃 - ルイージ・ダ・ボルト『二人高貴な恋人に関する最近発見された話』出版。このヴェローナ舞台とした筋書きイングランド劇作家シェークスピアの『ロミオとジュリエット』の原型となる。 1531年 - 最初エンブレム・ブックであるアンドレーア・アルチャートの『エンブレマタ』(無許可版)出版1531年 - ベルナルディーノ・ルイーニ洗礼者聖ヨハネの首を持つサロメ」(1527年 - )。 1532年 - メディチ家アレッサンドロ君主とするフィレンツェ公国成立フィレンツェ共和国終焉)。 1532年 - ミケランジェロメディチ家礼拝堂未完のまま放棄し1520年 - )、フィレンツェからローマ移住する1532年 - ポルデノーネ「聖ロレンツォ・ジュスティニアーニと諸聖人」。 1532年頃 - ジローラモ・ダ・カルピイッポーリト・デ・メディチ枢機卿とモンシニョール・マリオ・ブラッチの肖像」。 1532年頃 - 【フランスラブレーガルガンチュワとパンタグリュエル出版開始( - 1564年)。 1533年 - 教皇クレメンス7世によるイングランド国王ヘンリー8世破門ヘンリー8世は翌1534年国王至上法首長令)を発布して、自らイングランド国教会の長となる カトリック教会からの離脱にはトマス・モアジョン・フィッシャーらが最後まで反対し、両者1535年斬首刑となる 1533年 - カテリーナ・デ・メディチ(カトリーヌ・ド・メディシス)とフランス王アンリ(後のアンリ2世)の結婚。この婚礼によりイタリア料理新奇な食材・調理法食事作法伝えられフランス料理洗練発展促される1533年 - モンフェッラート侯のパレオロギ家が断絶。パレオロギ家出身の妻を持つマントヴァ公フェデリーコ2世・ゴンザーガ1536年に侯位を継承する1533年 - 【イングランドハンス・ホルバイン大使たち」。 1534年 - 教皇クレメンス7世死去ファルネーゼ家出身教皇パウルス3世即位1534年 - ジュリオ・ロマーノによりマントヴァテ宮殿完成1526年 - )。 1534年 - バッチョ・バンディネッリヘラクレスカクス」。 1534年 - 【ドイツミュンスター市が再洗礼派信者ヤン・ファン・ライデンらに占拠され混乱状態に陥るミュンスターの反乱)。 1534年 - 【フランスイグナチオ・デ・ロヨラらによりイエズス会結成される:「モンマルトル誓い」(正式認可1540年)。 1535年 - ミラノ公フランチェスコ・マリーア・スフォルツァ死去ミラノ公国神聖ローマ帝国ハプスブルク家)に接収されスフォルツァ家支配は完全に終了1535年 - パウルス3世がガスパロ・コンタリーニを枢機卿任命。コンタリーニは、レジナルド・ポールやジャコポ・サドレトらとともにカトリック改革グループ「スピリトゥアリ」の一人1535年 - 亡命ユダヤ人レオーネ・エブレオ遺稿から『愛の対話出版死去1523年頃)。 1535年 - ドメニコ・ベッカフーミキリストの黄泉下り」(シエナ絵画館) 。 1535年 - ジョヴァンニ・バッティスタ・コンファロニエリワイン性質、およびその滋養薬効について』。 1536年 - ティツィアーノウルビーノのヴィーナス」。 1536年 - 【スイスジュネーヴカルヴァンの宗教改革始まる。同じくこの年カルヴァンバーゼルで『キリスト教綱要』(初版ラテン語版)を出版1559年最終版)。 1536年 - 【イングランド聖書ギリシャ語ヘブライ語原典から初め英訳したウィリアム・ティンダル焚刑処される1536年 - 【ドイツパラケルススが『大外科学出版1537年 - フィレンツェ公アレッサンドロメディチ家傍系ロレンツィーノ・デ・メディチ(ロレンザッチョ)に暗殺されるメディチ家兄脈は断絶メディチ家弟脈の流れで黒隊長ジョバンニ息子フィレンツェ公コジモ1世として公位継承。 ロレンツィーノと親しかった音楽家ヤコブ・アルカデルト楽譜抱えフィレンツェからヴェネツィア逃亡1537年 - イエズス会士ロヨラ盟友でもあるピエール・ファーヴルローマ大学教授となる。 1537年 - セバスティアーノ・セルリオ建築書第4巻(全7巻の構想最初の巻)出版。この評判によりフランス王フランソワ1世招聘されフォンテーヌブロー宮殿建築設計担当1538年 - プレヴェザの海戦にて、教皇・スペイン・ヴェネツィアの連合海軍オスマン帝国海軍敗北1539年 - フィレンツェ公コジモ1世エレオノーラ・ディ・トレド結婚1539年 - 人文主義者ピエトロ・ベンボ枢機卿になる。 1539年 - ヤコブ・アルカデルト「4声のためのマドリガーレ」。 1539年 - ヴェネツィア亡命スウェーデン人オラウス・マグヌスによる北欧海図カルタ・マリナ出版(→1555年)。 1540年 - グイチャルディーニ『イタリア史』。 1540年 - スカリゲルラテン語起源について』。 1540年 - パルミジャニーノ死去未完遺作は「首の長い聖母」(1534年 - )。 1541年 - 塩戦争1540年 - )の敗北で、ペルージャ中心とするウンブリア地方教皇領編入される1541年 - オキーノに影響与えた教会改革派のスペイン人フアン・デ・バルデスがナポリ死去(→1542年)。 1541年 - 古代ローマ美術秀作アレッツォミネルヴァ」が発掘される1542年 - ミケランジェロシスティーナ礼拝堂壁画「最後の審判」完成1542年 - 異端審問所再編成が行われ、枢機卿ジャンニ・カラファ(後の教皇パウルス4世)が異端審問所長官就任1542年 - イタリア人説教師ベルナルディーノ・オキーノが宗教裁判恐れスイスジュネーヴ亡命1542年 - コンメディア・デッラルテ影響与えたパドヴァ演劇家アンジェロ・ベオルコ(イル・ルッツァンテ)死去1542年 - 【スペインバルトロメ・デ・ラス・カサスインディアスの破壊についての簡潔な報告』。 1542年 - 【フランス】王姉マルグリット・ド・ナヴァルが『エプタメロン』の執筆始める( - 1549年)。 1543年 - パドヴァ大学教授ヴェサリウス、『ファブリカ人体構造)』出版『ファブリカ』人体解剖図を描いたのはティツィアーノ弟子ジャン・ステファン・ヴァン・カルカル。 1543年 - タルタリアによるエウクレイデス『原論』イタリア語訳出版1543年 - チェッリーニサリエラ黄金の塩容れ)」(ウィーン美術史美術館完成1543年 - 【ポーランドコペルニクス天球の回転について出版1544年 - クレピーの和約により、イタリア戦争でのハプスブルク家ヴァロワ家勢力範囲はほぼ確定(→1559年1544年 - オスマン帝国海軍提督バルバロス・ハイレッディン)がアマルフィ襲撃する撃退される1544年 - ギョーム・ポステル『世界諧和論』出版ポステルローマにいたイグナチオ・デ・ロヨラ知遇得てイエズス会に入会、しかし見解の相違からほどなく追放される1545年 - 教皇パウルス3世によりトリエント公会議開催される( - 1563年)。対抗宗教改革始まる。 1545年 - パルマ公国成立教皇パウルス3世息子ピエール・ルイージ・ファルネーゼ初代パルマ公になる。 1545年 - ブロンズィーノ愛のアレゴリー」(ロンドン・ナショナル・ギャラリー)。 1545年 - バッキアッカマグダラのマリア」(1540年 - )。 1545年 - カルダーノ偉大なる術アルス・マグナ)』で三次方程式四次方程式解法公表1545年 - パドヴァ植物園が、植物学者フェデリコ・ボナフェーデの構想建築家アンドレア・モロニの設計によって開園する1545年頃 - 【フランドルクレメンス・ノン・パパ神聖ローマ皇帝カール5世宮廷礼拝堂楽長となる( - 1549年頃)。 1546年 - イタリア戦争記録残した歴史家パオロ・ジョヴィオによる『著名人礼賛』。 1546年 - ピエトロ・アレティーノ『オラツィア』。 1546年 - サン・ピエトロ大聖堂主任建築家アントニオ・ダ・サンガッロ死去ジュリオ・ロマーノ主任建築家を継ぐが短期間没し、翌1547年ミケランジェロ主任建築家選ばれる1546年 - ティツィアーノ教皇パウルス3世枢機卿アレッサンドロ・ファルネーゼオッターヴィオ・ファルネーゼ肖像1547年 - パルマ公ピエール・ルイージ・ファルネーゼ(→1545年)が暗殺される一時パルマミラノ総督フェランテ・ゴンザーガに占領されるが、オッターヴィオ・ファルネーゼ奪還しパルマ公位を継承1547年 - ミケランジェロとの友情知られる女流詩人ヴィットリア・コロンナ死去1547年 - 【イングランド国王ヘンリー8世死去国王エドワード6世即位1547年 - 【フランス国王フランソワ1世死去国王アンリ2世即位1547年 - 【ロシアモスクワ大公イヴァン4世初め正式にツァーリ」として戴冠式を行う。モスクワ・ウスペンスキー大聖堂での戴冠式には東ローマ帝国伝来という「モノマフの帽子」が使われる1548年 - ロレンツィーノ・デ・メディチ(ロレンザッチョ)がヴェネツィア暗殺される。彼はフィレンツェ公アレッサンドロ暗殺(→1537年)の件で、後継フィレンツェ公コジモ1世刺客追われていた。 1548年 - イグナチオ・デ・ロヨラ霊操決定版出版1548年 - イグナチオ・デ・ロヨラシチリア島メッシーナ世界初イエズス会神学校設立現在のメッシーナ大学)。 1548年 - ティツィアーノカール5世騎馬像ミュールベルクのカール5世)」。 1549年 - 教皇パウルス3世死去(→1550年)。 1549年 - 【フランスジョアシャン・デュ・ベレーフランス語の擁護と顕揚』。 1550年 - 教皇ユリウス3世即位(→1549年)。ユリウス3世寵愛一身集めたインノチェンツォ・チョッキ・デル・モンテ枢機卿昇進する1550年 - ヴァザーリ画家・彫刻家・建築家列伝出版1550年 - ジュリオ・カミッロ『劇場イデア出版1550年 - ジョヴァン・フランチェスコ・ストラパローラ『楽しき夜ごと第1巻出版1550年 - 建築家バルトロメオ・アンマナーティ女流詩人ラウラ・バッティフェルリの結婚1550年 - レオ・アフリカヌス『海と陸の旅(アフリカ誌)』。 1550年頃 - 【フランスジャン・クーザンエヴァ・プリマ・パンドラ」(ルーヴル美術館1551年 - イグナチオ・デ・ロヨラによりローマ学院(現グレゴリアン大学創設1551年 - ティツィアーノ軍服姿のフェリペ皇太子」。 1552年 - ピッロ・リゴーリオにより「ボマルツォ怪物公園聖なる)」が造営される。 1552年 - フランドル人ピーテル・ブリューゲル(父)がイタリア各地訪問( - 1555年頃) 1552年 - ルーカ・ガウリコ占星術論考』。 1552年 - 【フランスプレイヤード派詩人ピエール・ド・ロンサールの『恋愛詩集』。 1553年 - ヤーコポ・サンソヴィーノによりヴェネツィア国立マルチャーナ図書館完成1536年 - )。 1553年 - アスカニオ・コンディヴィ『ミケランジェロ伝』出版1553年 - エトルリア美術代表作アレッツォのキメラ」が発掘される1553年 - 【イングランドメアリー1世イングランド女王となり、カトリック復活する枢機卿レジナルド・ポール教皇庁から派遣され、続く1556年にはカンタベリー大司教最後カトリック)に就任1553年 - 【スイスミシェル・セルヴェジュネーヴにてカルヴァン命令火刑処せられる。 1554年 - 「ヴェネツィアサッフォー」と呼ばれた女流詩人ガスパラ・スタンパ死去1554年 - ジャコモ・パロッツィ・ダ・ヴィニョーラがサンタンドレア・ヴィア・フラミア聖堂完成1550年 - )。 1554年 - ローマで女流画家ソフォニスバ・アングイッソラミケランジェロ出会い以後2年間にわたり指導を受ける。 1554年 - フランチェスコ・サルヴィアーティダヴィデのもとへ行くバテシバ」。 1554年 - 【スイスバーゼル大学教授セバスティアン・カステリヨン『異端者処罰べからざる論ず出版1554年 - 【スペイン作者不詳最古ピカレスク小説ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯』が出版される1555年 - 教皇マルケルス2世即位、この教皇にちなみパレストリーナが「教皇マルチェルスのミサ曲」を作曲マルケルス2世短期間亡くなると、対抗改革強硬派教皇パウルス4世即位1555年 - フィレンツェ公国コジモ1世によるシエナ占領追放されシエナ人はピエトロ・ストロッツィを指導者にモンタルチーノへ逃がれ、亡命政権樹立(→1559年)。 1555年 - ローマにてスウェーデン人オラウス・マグヌスラテン語による『北方民族文化誌』が出版される(→1539年)。 1555年 - 【ドイツアウクスブルクの和議1555年 - 【オーストリアイエズス会士ウィーン司教でもあるペトルス・カニシウスによる『キリスト教教理大全』が出版される1555年 - 【フランスノストラダムス予言集』刊行1556年 - ローマにてイエズス会初代総長1541年 - )イグナチオ・デ・ロヨラ死去1556年 - ヴェネツィア女流文学者カッサンドラ・フェデーレが102歳で死去1556年 - ペッレグリーノ・ティバルディによるボローニャのポッジ宮殿オデュッセウスの間」壁画完成1554年 - )。 1556年 - 【ドイツ・スペイン】カール5世神聖ローマ皇帝スペイン王その他の公職から退位ユステ修道院隠棲カール5世息子フェリペ2世スペイン国王となり、シチリア・ナポリ・ミラノ・ネーデルラントを獲得カール5世の弟フェルディナント1世神聖ローマ皇帝となり、オーストリア・ボヘミア・ハンガリーを獲得1557年 - 前ポーランド王ボナ・スフォルツァ帰国していた南イタリアバーリにて暗殺されるボナ所領だったバーリスペイン王支配下ナポリ王国編入される1557年 - 教皇パウルス4世のもとローマで最初禁書目録出される1557年 - ロドヴィーコ・ドルチェ『アレティーノまたは絵画問答』。 1558年 - ディエゴ・ライネスイエズス会第2代総長就任( - 1565年)。 1558年 - デッラ・ポルタ『自然魔術出版1558年 - チェッリーニチェッリーニ自伝執筆着手( - 1562年)。 1558年 - ジョバンニ・デラ・カーサ『ガラテーオ』。 1558年 - ジョゼッフォ・ツァルリーノ和声論』。 1558年 - 【イングランドメアリー1世死去異母妹エリザベス1世イングランド女王即位1558年 - 【スイススコットランド人ジョン・ノックスが『女たち奇怪な統治反対するラッパ最初高鳴り』を出版1559年 - カトー・カンブレジ条約イタリア戦争完全に終結フランスイタリアへ権利放棄しスペイン・ハプスブルク家ナポリ統治確定オーストリア・ハプスブルク家ミラノ公国領有することが認められるシエナ共和国フィレンツェ公国領土となり独立喪失モンタルチーノ亡命政権降伏(→1555年)。 1559年 - 教皇パウルス4世死去に伴い教皇ピウス4世即位1559年 - ミケランジェロ設計サン・ロレンツォ聖堂付属ラウレンツィアーナ図書館完成1524年 - )。 1559年 - タッデオ・ツッカリによるカプラローラパラッツォ・ファルネーゼ連作壁画1559年 - ソフォニスバ・アングイッソラスペインフェリペ2世招かれ宮廷画家となる。 1559年 - 【フランスジャック・アミヨによるプルタルコス対比列伝』のフランス語訳完成。この著作国王アンリ2世への献呈文に「文芸復興」の章句盛り込まれる1559年 - 【フランス国王アンリ2世事故死フランソワ2世即位王母カトリーヌ・ド・メディシス摂政となる(→1533年)。 1559年 - 【ドイツマティアス・フラキウスマグデブルク諸世紀教会史第1巻出版1560年 - 教皇ピウス4世前任者パウルス4世縁者処分発表(→1559年)。パウルス4世の甥カルロ・カラファ枢機卿とパリアノ男爵専横悪行の罪により捕縛させ、翌1561年両名処刑させる。 1560年 - ヴァザーリらによりウフィッツィ宮殿(現ウフィッツィ美術館着工( - 1580年)。 1561年 - ジョルジョ・ギージラファエロの夢」。 1561年 - 【スペイン国王フェリペ2世トレドからマドリード宮廷遷す1562年 - タッソー叙事詩リナルド』。 1562年 - ジャコモ・パロッツィ・ダ・ヴィニョーラ『建築五つオーダー』。 1562年 - イタリア人アルチンボルドウィーン招かれ神聖ローマ皇帝フェルディナント1世宮廷画家となる(→1591年)。 1562年 - 【フランスユグノー戦争(-1598年) 。 1563年 - 教皇ピウス4世によりトリエント公会議閉会1545年 - )。教皇の甥で枢機卿カルロ・ボッロメーオおよび枢機卿ジョバンニ・モローネの助力閉会こぎつけた。 翌1564年には公会議議決および教令ピウス4世の名の下で布告される(トリエント信条)。 1563年 - サヴォイア公国首都シャンベリーからピエモンテ地方トリノ遷る1563年 - ブロンズィーノヴァザーリらがフィレンツェ美術アカデミー創設正式名称はアカデミア・デッレ・アルティ・デル・ディゼーニョ、現在のフィレンツェ美術学校 1563年 - ヴァザーリらによりヴェッキオ宮殿五百人大広間フレスコ壁画マルチャーノ・デッラ・キアーナ戦い」が描かれる1563年 - プロスペロー・フォンターナキリスト降架」。 1563年 - ピッロ・リゴーリオによりティヴォリのエステ家別荘建設が始まる。 1563年 - 【ドイツヨーハン・ヴァイヤー悪霊幻惑、および呪法蠱毒について』 1563年 - 【フランドルピーテル・ブリューゲル(父)「バベルの塔」。 1564年 - ミケランジェロ死去遺作は「ロンダニーニのピエタ」。 1564年 - フィリッポ・ネリらによりオラトリオ会結成される(正式認可1575年)。 1564年 - 【イングランドジョン・ディー象形文字単子』。 1565年 - マルタ包囲戦で、マルタ騎士団激戦の末、オスマン帝国軍撃退(→1522年)。 1565年 - フランシスコ・ボルハ第2代総長ディエゴ・ライネス継いでイエズス会第3総長となる。ガンディア公フアン・ボルハの長男で、父方曽祖父ローマ教皇アレクサンデル6世である。 1565年 - ヴァザーリにより「ヴァザーリ回廊完成。この回廊によりフィレンツェ公コジモ1世自宅ピッティ宮殿政庁のウフィッツィ宮殿結ばれた1565年 - ガレアッツォ・アレッシによりジェノヴァのパラッツォ・カンビアーゾが完成。この時期ジェノヴァ活況取り戻しレ・ストラーデ・ヌオーヴェ地区宮殿邸宅整備される1565年 - ダニエレ・ダ・ヴォルテッラミケランジェロ「最後の審判」裸像腰布を描く作業を行う。 1565年 - ジラルディ・チンツィオ『エカトンミティ』。 1565年 - 【フランドルピーテル・ブリューゲル(父)「雪中の狩人」。 1566年 - 【フランス】アントワーヌ・カロン「三頭政治下の虐殺」。 1567年 - 人文主義者ピエトロ・カルネセッキが打ち首の上火刑処せられる。 1567年 - このころクレタ島出身エル・グレコヴェネツィアティツィアーノ工房入門1567年 - レオーネ・レオーニによるミラノの「オメノーニの家(レオーニ自宅)」完成1565年 - )。 1568年 - 【オランダ八十年戦争始まる。 1569年 - フィレンツェ公国トスカーナ大公国再編メディチ家コジモ1世大公となる(→1537年)。 1569年 - 建築家バルトロメオ・ アンマナーティによりフィレンツェのサンタ・トリニータ完成1567年 - )。 1569年 - ラファエル・ボンベリ代数学における虚数を定義。 1569年 - 【ドイツゲラルドゥス・メルカトルメルカトル図法に基づく世界地図作成1570年 - 教皇ピウス5世によるイングランド女王エリザベス1世破門。これが教皇による世俗王侯への最後破門となる。 1570年 - 教皇ピウス5世によるミサ典書規範版が発表されるトリエント・ミサ)。 1570年 - トスカーナ大公コジモ1世愛妾であったカミッラ・マルテッリと再婚1570年 - パッラーディオによるヴィチェンツァ住宅建築ロトンダ完成1570年頃 - 【スペインルイス・デ・モラレス授乳の聖母」。 1571年 - オスマン帝国ヴェネツィアからキプロス島を奪う。 1571年 - レパントの海戦にて、教皇・スペイン・ヴェネツィアの連合海軍オスマン帝国海軍勝利1571年 - フランス赴いたタッソーフランス詩人ロンサール交友関係を結ぶ。 1571年 - 【フランスイタリア人占星術師コジモ・ルッジェーリが宮廷出現し王太后カトリーヌ・ド・メディシスの寵を得る。 1571年頃 - 【フランスフランソワ・クルーエディアーヌ・ド・ポワチエ肖像」(ワシントン・ナショナル・ギャラリー)。ディアーヌフランス国王アンリ2世愛妾、この肖像は彼女が亡くなった1566年以降描かれたものである1572年 - アレッサンドロ・アローリ真珠取り」(1570年 - )。 1572年 - 【フランスサン・バルテルミの虐殺1572年 - 【ポルトガルカモンイスウズ・ルジアダス』。 1573年 - タッソー牧歌劇アミンタ』。 1573年 - ヴェロネーゼレヴィ家の饗宴最後の晩餐)」。 1573年 - フィレンツェ音楽サークルカメラータ」の記録に残る最も初期会合参加者バルディ伯爵ジュリオ・カッチーニ、ピエトロ・ストロッツィ、(ガリレオ・ガリレイの父)ヴィンチェンツォ・ガリレイ1573年 - イタリア人ヴァリニャーノイエズス会東インド管区巡察師に抜擢される。 1574年 - トスカーナ大公コジモ1世死去息子フランチェスコ1世大公位を継承1575年 - トスカーナ大公フランチェスコ1世のストゥディオーロ(ヴェッキオ宮殿内の小書斎)完成1570年 - )。この部屋ルネサンス期からバロック期流行した博物陳列室「驚異の部屋ヴンダーカンマー)」の典型である。 1575年 - タッソー解放されたエルサレム出版1576年 - トスカーナ大公フランチェスコ1世の弟ピエトロ・デ・メディチが夫人のレオノーラ・ディ・トレドを殺害する1576年 - トスカーナ大公フランチェスコ1世の妹イザベッラ・デ・メディチが夫のパオロ・ジョルダーノ・オルシーニ殺害される1576年 - ペスト流行ミラノ大司教枢機卿カルロ・ボッロメーオ大規模な救済活動を行う(1610年列聖)。 1576年 - ティツィアーノ死去遺作は「ピエタ」(ヴェネツィア・アカデミア美術館)。 1576年 - フェルディナンド・ディ・メディチ枢機卿(後のトスカーナ大公)がローマ土地買い取る翌年までにこの土地に、基本設計をアンマナーティ、室内装飾をヤコポ・ツッキが担当したヴィラ・メディチ完成させる1576年 - カルダーノ死去この年までに『我が人生の書(カルダーノ自伝)』完成1575年 - )。 1576年 - 【フランスジャン・ボダン国家論』。 1576年 - 【フランス】イノサン・ジャンティエ『反マキャヴェッリ論』。 1576年 - 【イングランドロンドン最初常設民衆劇場シアター座1599年再編しグローブ座)が開かれる以後カーテン座・ローズ座スワン座設置されエリザベス朝イギリス・ルネサンス演劇最盛期迎える。 ジョン・ウェブスターベン・ジョンソンクリストファー・マーロウウィリアム・シェイクスピアらが代表。 1577年 - 【スペインアビラのテレサ完徳の道』。 1577年頃 - ヤコポ・バッサーノ「聖ルキア洗礼を施す聖ウァレンティヌス」。 1578年 - パルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼスペイン王フェリペ2世よりネーデルラント総督任じられる( - 1586年)。 1578年 - イタリア人イエズス会士マテオ・リッチ東方中国宣教旅行開始1578年 - ローマ市のヴィラ・サラリア通り初期キリスト教時代カタコンベ発見される1578年 - サヴォイア家所有の「聖骸布」がトリノ移されるトリノの聖骸布)。 1579年 - イタリア人神学者ファウスト・ソッツィーニポーランドクラクフ定住する叔父レリオ・ソッツィーニの影響を受け、キリスト神性否定した三位一体説ソッツィーニ主義)をこの地に広める。 1580年 - スペイン人イエズス会士フランシスコ・スアレスローマ学院教授となる。 1580年 - 【ポルトガルアルカンタラ戦いでドン・アントニオがスペイン軍敗れフランス亡命ポルトガルスペイン併合され( - 1640年)、スペイン王フェリペ2世ポルトガル王兼ねる。 1580年 - 【フランスモンテーニュエセー随想録)』初版出版モンテーニュこの年から翌年にフランス・ドイツ・スイス・イタリアを歴訪し旅日記』を記録する出版1774年)。 1580年 - 【フランス陶工ベルナール・パリッシーと泉の驚異言説』。 1581年 - トスカーナ大公フランチェスコ1世の命によるウフィッツィ宮殿天井グロテスク模様装飾完成する1581年頃 - 【フランドル】アントワヌ・カロン原画の「ヴァロワ・タピストリー」(ウフィツィ美術館)が完成したか。 1582年 - 教皇グレゴリウス13世の命によりグレゴリオ暦採用される。この改暦協力したのが天文学者アロイシウス・リリウス数学者クリストファー・クラヴィウス1582年 - ローマ近郊のモンテ・デル・グラノの古代墓地でファブリツィオ・ラッザーロが「ポートランドの壺」を発見1582年 - 【フランスアンブロワーズ・パレ大外科学全集』。 1583年 - フィレンツェ言語研究のためのクルスカ学会設立される1583年 - 教皇グレゴリウス13世夏の宮殿としてクイリナーレ宮殿(現イタリア共和国大統領官邸)が建設される1583年 - ルカ・カンビアーゾスペイン国王フェリペ2世招かれエル・エスコリアル宮殿壁画担当する1583年 - ジョヴァンニ・ダ・ボローニャジャンボローニャ)「サビニ女たち略奪」。 1583年 - フリウリ地方の粉挽屋ドメニコ・スカンデッラ(メノッキオ)が異端審問告発される(『チーズうじ虫』)。 1583年 - 【ボヘミア神聖ローマ皇帝ルドルフ2世ウィーンからプラハ宮廷遷す1584年 - ジョルダーノ・ブルーノ『無限、宇宙および諸世界について』。 1584年 - ジョヴァンニ・パオロ・ロマッツォ『絵画芸術論七書出版1584年 - ジャコモ・バロッツィ・ダ・ヴィニョーラによりローマイエズス会本部ジェズ教会完成1568年 - )。 1584年 - ベルナルド・ブオンタレンティの設計によりウフィッツィ宮殿のトリブーナが完成1584年 - 【スペイン国王フェリペ2世の命によるエル・エスコリアル宮殿完成1563年 - )。 1585年 - 日本天正遣欧少年使節一行教皇グレゴリウス13世謁見。ヤコポ・ティントレットの息子ドメニコにより「伊東マンショ肖像」(ミラノ・トリヴルツィオ財団)が描かれる1585年 - 教皇グレゴリウス13世死去教皇シクストゥス5世即位(‐1590年)。このシクストゥス5世時代に、大規模な教会建築補修街路水道・橋設置がなされ、都市ローマ大きく改造される1585年 - 【ドイツ民衆本『実伝ファウスト博士出版モデル1538年爆死した魔術師ゲオルク・ファウストか)。 1585年頃 - アンニーバレ・カラッチとその一族ボローニャ美術学校アカデミア・デリ・インカミナーティを設立1586年 - 教皇シクストゥス5世の命で、ドメニコ・フォンターナ古代オベリスクサン・ピエトロ広場移動させる1586年 - デッラ・ポルタ観相術』を出版1586年 - 【オランダヘンドリック・ホルツィウス版画シリーズローマ英雄たち」。この時期ホルツィウスのいたハールレムマニエリスム芸術北方での中心地となる。 1587年 - トスカーナ大公フランチェスコ1世大公妃ビアンカ・カッペッロ連続怪死事件1587年 - フェルディナンド1世トスカーナ大公継承( - 1609年)、トスカーナ大公国最後繁栄1587年 - 教皇シクストゥス5世の命で、初めバチカン印刷局設置1587年 - 【イングランド】前スコットランド女王メアリー・ステュアートイングランド女王エリザベス1世の命で処刑される1588年 - チェザレ・バロニウス教会年代記第1巻出版1588年 - ベルナルディーノ・テレジオ『事物の本性について(自然論)』。 1588年 - ヴェロネーゼ死去遺作ヴェネツィア聖パンテレイモン教会の「聖パンテレイモン回心」。 1588年 - 【スペイン・イングランド】アルマダ海戦スペイン敗北1588年 - 【スペインイエズス会士ルイス・デ・モリナ自由意志恩恵賜物調和』(モリナ主義)。 1588年 - 【スペインエル・グレコオルガス伯の埋葬完成1588年 - 【イングランドニコラス・ヒリアード薔薇の中の青年」。 1589年 - トスカーナ大公フェルディナンド1世フランス国王アンリ2世孫娘クリスティーナ・ディ・ロレーナ結婚1589年 - 『オペラ・ロギカ』(1578年)、『タブラ・ロギカエ』(1580年)で知られる哲学者ヤコポ・ザバレラ死去1589年 - フランドル画家ヤン・ブリューゲル (父)この年以降イタリア長期滞在する( - 1596年)。 1589年 - カンパネッラナポリに赴きデッラ・ポルタ弟子となる。 1589年 - イエズス会士ジョヴァンニ・ピエトロ・マッフェイ『東インド歴史』。 1590年 - ヴェノーサ領主音楽家カルロ・ジェズアルドがその妻マリア・ダヴァロスと愛人ファブリツィオ・カラファを惨殺1590年 - 【イングランドエドマンド・スペンサー妖精の女王』。 1591年 - パトリッツィ『新普遍哲学出版1591年 - イエズス会士アロイシウス・ゴンザーガ疫病により23歳死去1726年列聖)。 1591年 - ヴェネツィア女流詩人高級娼婦でもあったヴェロニカ・フランコ死去1591年 - 【ボヘミアアルチンボルドによる「ウェルトゥムヌス扮するルドルフ2世完成(→1562年)。神聖ローマ皇帝ルドルフ2世プラハ宮廷中心に国際マニエリスム様式広がる(→1583年ルーラント・サーフェリーバルトロメウス・スプランヘルハンス・フォン・アーヘンらもここで活躍 1591年 - 【スペイン十字架のヨハネ死去主著暗夜』を含めた著作死後30年経過した1618年出版される1592年 - イエズス会士ロベルト・ベラルミーノらにより改訂版ヴルガータ聖書(シクストゥス・クレメンティーノ版)出版1592年 - ティントレット、ヴェネツィア・ドゥカーレ宮殿の「天国」(世界最大油彩壁画完成1593年 - トスカーナ大公フェルディナンド1世リヴォルノ港を自由貿易港とする(リヴォルノ憲章)。 1593年 - ドメニコ・フォンターナジャコモ・デッラ・ポルタによりサン・ピエトロ大聖堂ドーム部分完成する1593年 - ロベルト・ベラルミーノ異端反駁信仰論争完成1581年 - )。 1593年 - フェデリコ・ツッカリらによりローマで聖ルカ・アカデミーが設立される1593年 - チェーザレ・リーパ図像学事典『イコノロジア』出版1593年 - ベルナルド・ブオンタレンティによりフィレンツェボーボリ庭園洞窟グロッタ完成1583年 - )。 1594年 - 【ボヘミア】アドリアーン・デ・フリース「プシュケ持ち上げメルクリウス」(ルーヴル美術館)。 1594年 - ティントレット死去遺作はヴェネツィア・サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会の「最後の晩餐」。 1594年 - ドメニコ・フォンターナサルノ川支流にある運河地下からポンペイ遺跡発掘1594年 - ジェローラモ・ファブリツィオによりパドヴァ大学最初解剖劇場建てられる1594年 - 【フランスフォンテーヌブロー派ガブリエル・デストレとその妹」。 1595年 - 【イングランドシェイクスピアロミオとジュリエット初演1595年頃 - カラヴァッジオフランチェスコ・マリア・デル・モンテ枢機卿見出され庇護を受ける 1596年 - フェデリコ・バロッチによるペルージアのサンタ・マリア・デリ・アンジェリコ教会祭壇画受胎告知完成1592年 - )。 1597年 - フェラーラ公国エステ家本流断絶フェラーラ教皇領編入されるエステ家傍系チェーザレ・デステモデナおよびレッジョ公国モデナ公国)だけを継承1597年 - 宗教改革者フランチェスコ・プッチの処刑1597年 - 【スペインフランシスコ・スアレス形而上学討論集』。 1597年 - 【スコットランド国王ジェームズ6世デモノロジー悪魔学)』(→1603年)。 1597年頃 - ヤコポ・ペーリによる『ダフネ』(最古オペラ)。 1598年 - ジョヴァンニ・ダ・ボローニャジャンボローニャ)「コジモ1世騎馬像」。 1598年 - イギリス人ウィリアム・ハーヴェイパドヴァ大学入学し解剖学者ジローラモ・ファブリッチ師事する1598年 - 【フランス国王アンリ4世によるナントの勅令1598年 - 【イングランド】ジョン・フローリオ編纂による最初の『伊英辞典』が出版される1599年 - スフォンドラーティ枢機卿の命により聖チェチリア墳墓改葬するため聖女遺体検分する(→1600年)。 1599年 - ベアトリーチェ・チェンチ処刑

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