モンマルトルとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 同じ種類の言葉 > 言葉 > 場所 > 繁華街 > モンマルトルの意味・解説 

モンマルトル【Montmartre】


モンマルトル―駐車場を探す男/禁煙したい女

作者古閑希子

収載図書パリ、ジュテーム
出版社講談社
刊行年月2007.3


モンマルトル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/05 15:17 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
ポンピドゥー・センターから遠望するモンマルトル

モンマルトル (Montmartre) は、フランスの首都パリで一番高い(標高130メートル[1])。元々はこの丘を含む一帯のコミューン名(旧セーヌ県に属していた。)でもあったが、1860年にその一部がパリに併合されてセーヌ川右岸のパリ18区を構成するようになった。残部はサン・トゥアンに併合された。現在は、専らパリ側の地域を指し、パリ有数の観光名所となっている。サクレ・クール寺院テルトル広場キャバレームーラン・ルージュ」、モンマルトル墓地などがある。

初期の歴史

モンマルトルに唯一残るブドウ畑(冬)

モンマルトルは長い間、パリから独立した村だった。モンマルトルの名は、Mont des Martyrs(殉教者の丘)が由来である。

紀元272年頃、ドルイドの聖地であったと考えられている「モンス・メルクリウス(Mons Mercurius)=メルクリウスの丘」の付近で、後にフランスの守護聖人となったパリ最初のキリスト教司教ディオニュシウス(サン・ドニ)と2人の司祭ラスティークとエルテールの3人が首をはねられて殉教したと伝えられている。ヤコブス・デ・ウォラギネの「黄金伝説」によれば、首をはねられたサン・ドニは、自らの首を抱えながら北の方に数キロメートル歩き、息絶えたという。その場所がサン=ドニサン=ドニ大聖堂になったとされる。以来、その丘はモンス・マルテュルム(Mons Martyrum)=殉教者の丘と呼ばれるようになった。

1534年8月15日イグナチオ・デ・ロヨラが、バスク出身のフランシスコ・ザビエル、フランス出身のピエール・ファーヴルスペイン出身のアルフォンソ・サルメロン、ディエゴ・ライネス英語版、ニコラス・ボバディリャ、そしてポルトガル出身のシモン・ロドリゲスら6人の同志と共に丘の中腹にあった聖堂で生涯を神にささげる誓いを立てて、イエズス会の創設の端緒となった。

フランス革命時は暗殺されたジャン=ポール・マラーを記念してモンマラーと改称されたが、革命収束後モンマルトルに戻された。モンマルトルは長い間パリ郊外の農地であり、ブドウ畑風車がシンボルであった。また丘の上には大きな女子修道院が建っていた時代もあった。

19世紀

カミーユ・ピサロによる『モンマルトル大通り(Boulevard Montmartre)』(1897年)。

1840から1845年にかけてティエールの城壁が造られたことにより、コミューンが二分された。

都市化が進むのは19世紀半ばである。ナポレオン3世の指示でセーヌ県知事オスマン男爵によるパリ改造が行われ、多くの市民が中心部の家を失い、パリ外縁部のフォーブール(近郊)へ移転を余儀なくされた。その移転先の一つがモンマルトルであった。

1860年、コミューンのうちティエールの城壁内がパリに、城壁外はサン・トゥアンにそれぞれ併合された。

パリの税金や規制が適用されず、また長年丘の上の修道女たちがワインを作っていたことは、モンマルトルが飲み屋街に変わる原因となった。19世紀末から20世紀初頭、モンマルトルはデカダン歓楽街となり、ムーラン・ルージュル・シャ・ノワールといったキャバレーが軒を連ね、有名な歌手やパフォーマーらが舞台に立った。

1876年から1912年にかけてモンマルトルの丘の上にサクレ・クール寺院(Basilique du Sacré-Cœur de Montmartre)が、1871年普仏戦争敗戦後にその償いとして一般の寄付で建設された。白いドームは街中から見えるパリのランドマークになった。

芸術家の街

テオフィル・アレクサンドル・スタンラン(Théophile Steinlen)によるキャバレー「ル・シャ・ノワール」の広告ポスター

19世紀半ば、ヨハン・ヨンキントカミーユ・ピサロといった芸術家たちがパリ大改造で整備されてしまった市内を離れ、まだ絵になる農村風景の残っていたモンマルトルに居を移すようになった。安いアパートやアトリエ、スケッチのできる屋外風景を求める画家達が後に続き、19世紀末の世紀末芸術の時代にはモンマルトルはパリ左岸のモンパルナスに対抗する芸術家の集まる街へと変貌した。

パブロ・ピカソ1904年から1909年までの間)、アメデオ・モディリアーニ、ほか貧しい画家達がモンマルトルの「洗濯船(Le Bateau-Lavoir)」と呼ばれる安アパートに住み、アトリエを構え制作活動を行った。ギヨーム・アポリネールジャン・コクトーアンリ・マティスらも出入りし議論する活発な芸術活動の拠点となった。特にピカソが『アビニヨンの娘たち』(1907) を描いた場所、キュビスムが生まれた場所として知られるが、1970年の火事で焼失し、1978年にコンクリートで復元された。現在は小さなショーウィンドーに資料を展示している。

モンマルトル
モンマルトルの位置(パリ)

ナビ派などの芸術集団がモンマルトルで組まれ、ほかに様々な美術家、詩人、劇作家、小説家などが生活・制作した。代表的な人物には、フィンセント・ファン・ゴッホピエール・ブリソーアルフレッド・ジャリジャック・ヴィヨンレイモン・デュシャン=ヴィヨンアンリ・マティスアンドレ・ドランシュザンヌ・ヴァラドンピエール=オーギュスト・ルノワールエドガー・ドガモーリス・ユトリロアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックテオフィル・アレクサンドル・スタンランらがいる。彼らはモンマルトルを制作の場にしたほか、モンマルトルの風景を描いた作品も制作した。

モンマルトルのボヘミアン芸術家の最後の人物といえるのが1975年に亡くなったジェン・ポール(Gen Paul)であろう。彼はモンマルトルに生まれ、ユトリロの友人だった。ラウル・デュフィに多くを負う、書道のような表現主義的な筆致のリトグラフには、絵になるモンマルトルの記憶を残したものもある。

1965年にリリースされフランス国内で人気を博したシャルル・アズナブールの『ラ・ボエーム(La bohème)』という曲は、彼の若い頃のモンマルトルでの思い出を歌ったものである。彼の親もモンマルトルに流れてきたアルメニア人であった。彼はこの曲を、モンマルトルがボヘミアンたちの根城だった最後の日々への別れの歌であると述べている。

モンマルトルは第一次世界大戦の直前あたりから急速に観光地化・高級住宅地化(ジェントリフィケーション)が進み、地価高騰と混雑を嫌った芸術家たちはモンパルナスに移っていった。伝統のブドウ畑も戦間期の1929年に一時姿を消したが、慈善団体「モンマルトル共和国」を1921年に結成していたイラストレーターのフランシスク・プルボらが直後の1933年に植樹して復活させ、現在でもモンマルトルではワイン造りが続けられている[1]

モンマルトルの現在

モンマルトルの階段

モンマルトル美術館は、モーリス・ユトリロ、シュザンヌ・ヴァラドンがアトリエを構えていたベレール邸に入っており、ブドウ畑時代からエコール・ド・パリに至るモンマルトルの文化・歴史を知ることができる。美術館のもう一つの建物で主に企画展に使われるドゥマルヌ邸(2012年に改修)はモリエール劇団ロジモンフランス語版こと、クロード・ド・ラ・ローズ(1640-1686)や画商ジュリアン・フランソワ・タンギー(ゴッホ作『タンギー爺さん』)が住んでいたことで知られる。ベレール邸もドゥマルヌ邸もモンマルトルで最も古い館であり、ルノワールはこの敷地に1875年から1877年まで住み、『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』(1876)、『ぶらんこ』(1876)、『モンマルトルのコルトー通りの庭』(1876) などを制作した。他にもエミール・ベルナールラウル・デュフィシャルル・カモワンフランス語版、などがここにアトリエを構え、詩人のピエール・ルヴェルディ、作家のレオン・ブロワフランス語版などもここに住んでいた。

有名な画家の多くがモンマルトル墓地やサン・ヴァンサン墓地に葬られている。モンマルトル墓地はモディリアーニが自殺した場所でもある。

日夜、多くの観光客がテルトル広場、サクレ・クール寺院、キャバレー・ラパン・アジル、ムーラン・ルージュ、ピカソらのアトリエ、ユトリロの描いた風景を訪ねて歩いている。映画『アメリ』の公開後はロケ地めぐりの観光客も増加した。サクレ・クール寺院へは丘の南麓からフニクレールと呼ばれるケーブルカーが観光客を乗せて運行されている。

モンマルトルは歴史地区に指定され、その歴史的景観や特徴を保持するため開発は最小限度しか許可されない。バルベス界隈は移民が多く、アフリカアラブの物産が手軽に買えるが治安はあまり良くない。一方、モンマルトルの西南麓のピガール界隈はパリ随一の猥雑な歓楽街風俗街で、風俗店アダルトビデオ店、アダルトショップなどが並んでいることでパリ市民には有名である。

脚注・出典

関連項目

外部リンク

座標: 北緯48度53分13秒 東経02度20分28秒 / 北緯48.88694度 東経2.34111度 / 48.88694; 2.34111


モンマルトル(18区)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 02:09 UTC 版)

パリ」の記事における「モンマルトル(18区)」の解説

パリを見下ろす高台パリ市編入されたのは1860年以後だが、現在ではパリ代表する観光地となっている。2001年フランス映画アメリ』の舞台にもなった。サクレ・クール寺院が一番の高台にそびえ、そこから西側へ行くにつれテルトル広場ムーラン・ド・ラ・ギャレットなど観光名所多く並ぶ。寺院東側観光地ではなくアフリカ系移民多く暮らすシャトー・ルージュ地区

※この「モンマルトル(18区)」の解説は、「パリ」の解説の一部です。
「モンマルトル(18区)」を含む「パリ」の記事については、「パリ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「モンマルトル」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ

「モンマルトル」の例文・使い方・用例・文例

Weblio日本語例文用例辞書はプログラムで機械的に例文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。



モンマルトルと同じ種類の言葉


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「モンマルトル」の関連用語

モンマルトルのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



モンマルトルのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのモンマルトル (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのパリ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。
Tanaka Corpusのコンテンツは、特に明示されている場合を除いて、次のライセンスに従います:
 Creative Commons Attribution (CC-BY) 2.0 France.
この対訳データはCreative Commons Attribution 3.0 Unportedでライセンスされています。
浜島書店 Catch a Wave
Copyright © 1995-2025 Hamajima Shoten, Publishers. All rights reserved.
株式会社ベネッセコーポレーション株式会社ベネッセコーポレーション
Copyright © Benesse Holdings, Inc. All rights reserved.
研究社研究社
Copyright (c) 1995-2025 Kenkyusha Co., Ltd. All rights reserved.
日本語WordNet日本語WordNet
日本語ワードネット1.1版 (C) 情報通信研究機構, 2009-2010 License All rights reserved.
WordNet 3.0 Copyright 2006 by Princeton University. All rights reserved. License
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
「斎藤和英大辞典」斎藤秀三郎著、日外アソシエーツ辞書編集部編
EDRDGEDRDG
This page uses the JMdict dictionary files. These files are the property of the Electronic Dictionary Research and Development Group, and are used in conformance with the Group's licence.

©2025 GRAS Group, Inc.RSS