ジャンボローニャ
ジャンボローニャ
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ジャンボローニャ(Giambologna、1529年 - 1608年8月13日)は、後期ルネサンスまたはマニエリスムの彫刻家。生まれたときの名前はジャン・ブローニュ (Jean Boulogne)で、間違ってジョバンニ・ダ・ボローニャ (Giovanni da Bologna) またはジョバンニ・ボローニャ (Giovanni Bologna)と称されることもある。
- ^ R. Wellens, Jacques du Broeucq, sculpteur et architecte de la renaissance (Brussels) 1962
- ^ ラファエロの「アテナイの学堂」に描かれたプラトンのポーズも同様である。
- ^ メディチ家の噴水用に作った大理石像。ジャンボローニャの大理石の大作としては唯一フィレンツェから持ち出された作品である。Duke of Lerma に贈られ、そこからチャールズ1世の婚約の際に贈られた。さらにジョージ3世からトーマス・ワースレイ卿に与えられた。1953年、Art Fund が購入してヴィクトリア&アルバート博物館が所蔵することになった。([1]; “アーカイブされたコピー”. 2008年4月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年3月16日閲覧。).
- ^ ブロンズ版がアムステルダム国立美術館にある。[2].
- 1 ジャンボローニャとは
- 2 ジャンボローニャの概要
- 3 参考文献
ジャンボローニャ
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「サビニの女たちの略奪」の記事における「ジャンボローニャ」の解説
ジャンボローニャがこの主題を描いた彫像(1579年 - 1583年)は、3人の男女を描いたもので(男が女を持ち上げ、その下で別の男がかがんでいる)、単一の大理石の塊から彫りだしたものである。ジャンボローニャの最高傑作とされている。元々はジャンボローニャが何を主題としたわけでもなく複雑な群像彫刻で自らの技量を示した作品であり、その主題を「サビニの女たちの略奪」としたのはフランチェスコ1世・デ・メディチがこれをフィレンツェのシニョリーア広場にあるロッジア・ディ・ランツィに展示することを決めた後のことである。マニエリスムの稠密で複雑に絡み合った人物を描く様式に忠実であり、様々な感情を表現し、あらゆる角度からの鑑賞に耐えるようになっている。約80年前に完成したミケランジェロのダビデ像と比べると、ダビデ像は単一視点の穏やかなポーズである。ジャンボローニャのこの作品はバロックへと向かう萌芽が見られ、動きに溢れているが、まだ堅く心地悪く、垂直の動きしかない。これは、ジャンボローニャが単一の大理石から彫りだすという制限を自らに課したためという理由もある。したがってこの作品には斜めの動きがないが、それを成し遂げるのは約40年後のベルニーニで、「プロセルピナの略奪」や「アポローンとダプネー」といった作品がある(どちらもボルゲーゼ美術館)。 展示場所の反対端にはベンヴェヌート・チェッリーニのペルセウス像があり、このジャンボローニャの作品もそれに倣って「ピーネウスによるアンドロメダー略奪」とでもすべきだという示唆がなされた。他にもプロセルピナの略奪やヘレネーの略奪といった題が検討されている。最終的にこの彫像で略奪されようとしているのは、サビニ人の娘の1人だということが決まった。 この作品には OPVS IOANNIS BOLONII FLANDRI MDLXXXII(フランドルのジャン・ブローニュの作品、1582年)と署名がある。この作品のための青銅製の習作がナポリのカポディモンテ美術館にある。この習作では2人しか描かれていないが、ジャンボローニャは3人目を加えた習作も作っており、その蝋模型がロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館に2体ある。ジャンボローニャは本作と同じ大きさの石膏模型を1582年に作っており、それはフィレンツェの Accademia Gallery にある。こうして完成した大理石像がシニョリーア広場のロッジア・ディ・ランツィに展示されている。 ジャンボローニャの工房でこの彫像のミニチュア版ブロンズ像が作られ、他の人々がこれを複製し、19世紀にはコレクションの対象となっている。
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