チェーザレ・デステ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/09 13:57 UTC 版)
![]() |
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。(2024年12月)
|
チェーザレ・デステ Cesare d'Este |
|
---|---|
モデナ=レッジョ公 | |
![]() |
|
在位 | 1597年10月27日 - 1628年12月11日 |
別号 | フェラーラ公 |
在位 | 1597年10月27日 - 1598年1月30日 |
|
|
出生 | 1561年10月8日![]() |
死去 | 1628年12月11日(67歳没)![]() |
配偶者 | ヴィルジニア・デ・メディチ |
子女 | 一覧参照 |
家名 | エステ家 |
父親 | モンテッキオ侯アルフォンソ・デステ |
母親 | ジューリア・デッラ・ローヴェレ |
チェーザレ・デステ(Cesare d'Este, 1561年10月8日 - 1628年12月11日)は、モデナ=レッジョ公。最後のフェラーラ公となった。
生涯
フェラーラで、モンテッキオ侯アルフォンソ・デステ(フェラーラ公アルフォンソ1世・デステの庶子)と妃ジューリア・デッラ・ローヴェレの長男として生まれた。従兄はフェラーラ公及びモデナ公アルフォンソ2世・デステである。アルフォンソ2世が嫡子のないまま1597年に死去したため、チェーザレが公位を継いだ。しかし、嫡出子にのみ継承権を認めるとしていた神聖ローマ皇帝ルドルフ2世とローマ教皇クレメンス8世により、1598年にフェラーラ公国は教皇領として没収された。
首都をフェラーラからモデナに移してからは波乱含みであった。フェラーラ貴族とモデナ貴族の対立の仲介に立ち、ガルファニャーナの所有をめぐってルッカ共和国と戦争が起きた。1586年に結婚した妃ヴィルジニア・デ・メディチ(トスカーナ大公コジモ1世の庶子)は早くから精神病を患い、亡くなるまで苦しんだ。
チェーザレ自身は穏やかで信心深い人物だったが、政治的な才能に欠けていた。彼の死後は息子のアルフォンソ3世・デステが継いだ。
子女
- ジューリア(1588年 - 1645年)
- アルフォンソ3世(1591年 - 1644年) - モデナ公
- ルイージ(1593/94年 - 1664年) - モンテッキオ及びスカンディアーノの僭主
- ラウラ(1594年 - 1630年)
- カテリーナ(1595年 - 1618年)
- イッポーリト(1599年 - 1647年)
- ニッコロ(1601年 - 1640年)
- ボルソ(1605年 - 1657年)
- フォレスト(1606年 - 1639/40年)
- アンジェラ(? - 1651年) - 尼僧
脚注
注釈
出典
|
|
|
|
|
|
固有名詞の分類
- チェーザレ・デステのページへのリンク