モデナ・レッジョ公(1598年-1796年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 05:26 UTC 版)
「エステ家」の記事における「モデナ・レッジョ公(1598年-1796年)」の解説
エルコレ2世の息子アルフォンソ2世(1533年 - 1597年)には子供がいなかったため、エステ家直系の血筋は絶えることとなった。皇帝ルドルフ2世はアルフォンソの従弟にあたるチェーザレ・デステ(1533年 - 1628年)をモデナ・レッジョ公として認めた一方、教皇クレメンス8世はフェッラーラに関して同様の処置を行うことを拒み、1598年にフェッラーラを教皇国家の直轄領として取り戻した。最後の公爵エルコレ3世は1796年にフランス軍により廃位させられ、1803年に没した。エルコレ3世の一人娘マリア・ベアトリーチェが神聖ローマ皇帝フランツ1世とマリア・テレジアの息子フェルディナントと結婚することにより、新たにハプスブルク=エステ家が始まった。
※この「モデナ・レッジョ公(1598年-1796年)」の解説は、「エステ家」の解説の一部です。
「モデナ・レッジョ公(1598年-1796年)」を含む「エステ家」の記事については、「エステ家」の概要を参照ください。
- モデナ・レッジョ公のページへのリンク