フェッラーラ、モデナ、レッジョ公、その他、重要人物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 05:26 UTC 版)
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ボルソ・デステ(1413年 - 1471年)は、1452年に皇帝フリードリヒ3世からモデナ・レッジョ公の称号を、1471年には教皇パウルス2世からフェッラーラ公の称号を授けられた(モデナとレッジョは神聖ローマ皇帝の支配下にあった一方で、フェッラーラは教会国家の領土であった)。ニッコロのもう一人の息子であったエルコレ1世(1431年 - 1505年)は、1481-82年にポレジーネのエステ家支配地域の大部分を失った。エルコレの娘達のうち、ベアトリーチェ(1475年 - 1497年)はミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァ、通称イル・モーロと結婚し、イザベッラ(1474年 - 1539年)はマントヴァ候フランチェスコ2世・ゴンザーガに嫁入りした。 エルコレ1世の後継者アルフォンソ1世(1476年 - 1534年)は、ロドリーコ・ボルジャ(後のローマ教皇アレクサンデル6世)の私生児ルクレツィア・ボルジャの3人目の夫となった。(なお、マントヴァのゴンザーガ家に嫁いだイザベラ・デステ(イザベッラ・デステ)は、アルフォンソ1世の姉にあたる。)当時のフェラーラはルネサンスの文化が花開いた都市の1つで、宮廷には各地から文学者や芸術家などが集まった。ヴェネツィアに対抗するカンブライ同盟に加盟し、ヴェネツィアと教皇ユリウス2世の間に平和的合意が成された後にも、フランスのルイ12世と同盟関係を保った。したがって、教皇はフェッラーラ領の空位を宣言し、1510年に破門した。1526年から1527年にアルフォンソ1世は、神聖ローマ皇帝カール5世が編成した教皇クレメンス7世に対する遠征に加担することで(=ローマ掠奪)、1530年にフェッラ―ラ公の地位を取り戻した。 アルフォンソの跡を継いだエルコレ2世(1508年 - 1559年)は、フランス王ルイ12世の娘レナータと結婚した。教皇とフランスと共に、1556年にスペインと戦った。弟である枢機卿イッポーリト2世(1509年 - 1572年)は有名なヴィッラ・デステをティヴォリに建設した。
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