フェットミルヒの反乱の際の略奪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/03 02:25 UTC 版)
「フランクフルト・ゲットー」の記事における「フェットミルヒの反乱の際の略奪」の解説
フランクフルト参事会は門閥市民により牛耳られていた。そのため、門閥市民と下層中層市民との間には常に対立があった。シュマルカルデン戦争に参加して莫大な借金を負ったフランクフルト市は、1576年に増税を行ったが、その課税システムは上流市民に有利なもので下層市民の生活はますます厳しくなるものだった。 オーストリア大公マティアスの皇帝への選挙と戴冠式を契機に参事会と市民の関係は険悪になった。参事会だけでは収拾できなくなり、参事会は皇帝マティアスに助力を求めた。1612年にマティアスの検察使のマインツ大司教ヨハン・シュヴァイクハルト・フォン・クロンベルク(ドイツ語版)とヘッセン=ダルムシュタット方伯ルートヴィヒ5世が代理をフランクフルトに派遣して参事会と市民の間に協定を結ばせて和解させた。しかし結局この協定は守られず、両者の決裂は続いた。1614年5月に市民側のリーダーヴィンツェンツ・フェットミルヒ(英語版)は反乱を起こして参事会員や検察使代理を監禁した。反乱市民は1614年8月29日には暫定参事会を発足させた。 反乱市民たちの中でも特に生活苦に喘いでいた急進派は、反乱の最中の1614年8月22日午後5時から翌日の午前6時ぐらいにかけてゲットーへなだれ込んで略奪を行っている。彼らの言い分によると「ユダヤ人は参事会と結び付き、低利で都市金庫から融資を受け、それを市民に高利で貸し付けている」ためだった。指導者の命令によりユダヤ人殺害は行われなかったが、ユダヤ人の財産が大量に彼らに略奪されてしまった。この略奪の間、ゲットーのユダヤ人たちは隣接するユダヤ人墓地に避難した。さらに8月23日にはユダヤ人たちはマイン川から船出してフランクフルト市を去って近隣の村に四散した。ユダヤ人は一年近くフランクフルトから離れることとなった。 皇帝マティアスはフェットミルヒらに帝国迫害罪を宣告した。フランクフルトはマインツ大司教軍とヘッセン=ダルムシュタット方伯軍に包囲され、1614年12月9日にフェットミルヒは逮捕された。フェットミルヒら反乱指導者は処刑され、反乱に加担したとみなされた2000人以上の市民にも罰金刑が課せられた。 ユダヤ人たちはちょうどフェットミルヒが処刑された1616年2月28日にフランクフルト・ゲットーに帰還した。ユダヤ人達は楽隊とともに祝いながら帰還した。さらに皇帝の勅命によりユダヤ人の被った損害の賠償金としてキリスト教市民は17万5919フィレンツェ・フロリンの支払いを命じられた。ユダヤ人達はこれに感謝し、ゲットーの門に皇帝の鷲印と「ローマ皇帝陛下と神聖ローマ帝国の保護の下に」という銘刻を施した。フランクフルト・ユダヤ人団体はゲットーを追われた日と帰還の日を「プーリーム・フェットミルヒの日」として祝日にするようになった。
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