シュマルカルデン戦争とは? わかりやすく解説

シュマルカルデン戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/24 04:28 UTC 版)

シュマルカルデン戦争

ティツィアーノの『カール5世騎馬像』(1548年)、ミュールベルクの戦いでの勝利を祝って描かれた
1546年7月10日 - 1547年5月23日
場所 神聖ローマ帝国
結果 皇帝軍の勝利、シュマルカルデン同盟解体
衝突した勢力

ハプスブルク帝国

 ザクセン選帝侯国
ハンガリー王国
ボヘミア王国
ほかボヘミア王冠領

シュマルカルデン同盟:

 ザクセン選帝侯国
ヘッセン方伯領
プファルツ選帝侯領
ブレーメン
リューベック
ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国
ほかシュマルカルデン同盟のメンバー
指揮官
カール5世
フェルディナント1世
マクシミリアン大公
第3代アルバ公
モーリッツ
ヨハン・フリードリヒ1世
フィリップ1世
フリードリヒ3世

シュマルカルデン戦争(シュマルカルデンせんそう、ドイツ語: Schmalkaldischer Krieg)は、神聖ローマ帝国内において1546年7月10日に勃発し1547年5月23日まで戦われた戦争である。カトリック教会を支持する神聖ローマ皇帝カール5世プロテスタント勢力(シュマルカルデン同盟)の間で争われた。

背景

1531年に反ローマ・反皇帝・反カトリックを掲げた諸侯の同盟がシュマルカルデン同盟である。神聖ローマ帝国では当時対オスマン帝国の戦費を集めることに躍起になっており、帝国内情は放置されていた。

シュマルカルデン戦争後のエルネスティン系(ピンク)とアルベルティン系(緑)ザクセン領

先立つドイツ農民戦争でも皇帝は鎮圧しようとせず、諸侯自らこれらを鎮圧した。これらの不満から同盟は結成され、反カトリックを掲げた宗教戦争となった。無論、皇帝が帝国の内情に疎いことや弱体化が明白であったからということもある。オスマン帝国やフランス王国のカトリック支援なども理由の一つといえる。

1542年にはフランスが対神聖ローマ帝国戦争(第五次イタリア戦争)を開始し、皇帝が手薄になった事で同盟は蜂起した。これらの問題に直面した神聖ローマ皇帝カール5世は1544年に対フランス戦争を中止し、内乱の鎮圧に着手した。これにより1546年に皇帝と同盟の間ではっきりとしたシュマルカルデン戦争が始まった。

結果

1547年ミュールベルクの戦いでカール5世が勝利、同盟の指導者ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒヘッセン方伯フィリップを捕えてカトリック優位のアウクスブルク仮信条協定を結んだが、1552年にザクセン選帝侯モーリッツ(ヨハン・フリードリヒの又従弟でフィリップの婿、カール5世に就いて選帝侯になった)の反乱でパッサウ条約を締結した。

同年に反対派のアルブレヒト・アルキビアデスが反乱(第二次辺境伯戦争)を起こし、モーリッツが戦死したが1554年に終結したのを機に翌1555年アウクスブルクの和議が成立。これによりプロテスタントが帝国内で許されることになった。

主要人物

関連項目

外部リンク


シュマルカルデン戦争

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ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「シュマルカルデン戦争」の解説

詳細は「シュマルカルデン同盟」および「シュマルカルデン戦争」を参照 1526年ルターに対してそれまで敵対的であった皇帝カール5世は、スレイマン1世率いオスマン帝国脅威が迫るなか、諸侯協力不可欠とみてシュパイアー帝国議会第一次)を開催しルター派諸侯領内での宗教改革許したザクセン選帝侯ルター領内教会の組織化を命じ1528年にはザクセンの各教区州知事任命する牧師任せ教会巡察制度設けた。他の改革派諸侯もこれに準じルター派教会各地広がっていった。巡礼贖宥状聖人崇拝聖遺物崇敬兄弟会などの習俗廃止されたが、実際に領邦教会制度始動したのはこの当時であった1529年カール5世再度シュパイアー帝国議会第二次)を開催したが、カトリック諸侯巻き返しによって宗教改革の自由は取り消されヴォルムス勅令復活した。この措置対し改革派諸侯帝国都市抗議プロテスト)した。これが、「プロテスタント」の名の起こりである。 1530年カール5世アウクスブルク(現:バイエルン州)に帝国議会招集し、両派の歩み寄り努力がされたが、結局は決裂した。さらに同議会ではルター派側から穏健ルター派メランヒトンの手になる「アウクスブルク信仰告白」が提出されたが、ツヴィングリシュトラースブルクストラスブール)などの改革派4都市が独自の「信仰」を提出しプロテスタント内部宗派分裂も明らかとなった議会ではカトリック優勢占め最終的決定翌年議会持ち越されたものの、カール5世1521年ヴォルムス勅令厳しく執行するよう命じた。 これに対しアウクスブルク帝国議会直後にシュマルカルデン(ドイツ語版)(現:テューリンゲン州)に集まったプロテスタント帝国諸侯・諸都市皇帝カトリック諸侯対抗するための軍事同盟結成協議し、翌1531年2月にはヘッセン方伯ザクセン選帝侯盟主とするシュマルカルデン同盟結成された。宗教戦争一触即発迫ったカール5世妥協し1532年ニュルンベルク宗教平和によって暫定的にプロテスタント宗教的立場保障された。この宗教平和を境に、プロテスタント勢力一気拡大した南ドイツヴュルテンベルク公領では、プロテスタントであったために追放されていたヴュルテンベルク公ウルリヒ1534年復位し北ドイツでも同年ポメルン公、1539年ザクセン公ブランデンブルク選帝侯プロテスタント転じた西南ドイツではルター派以外の改革派信仰広がっていたが教義上の問題妥協しプロテスタント政治勢力統一性を持つようになったカトリック諸侯の側もニュルンベルク同盟結成しプロテスタント対抗したカール5世対外的な事情から情勢静観していたが、フランスとの講和成立する一転しドイツ国内問題専心するようになった1546年にはルター死去しザクセン公選帝侯地位条件皇帝支持転じたそれ以前ヘッセン方伯重婚問題カール5世つけこまれ政治的に中立を守らざるをえなくなっていた。自身有利な条件整った感じたカール5世はシュマルカルデン戦争を起こしてシュマルカルデン同盟壊滅させ、翌年アウクスブルク帝国議会ではカトリック有利な「仮信条協定」が帝国法として発布された。皇帝西南ドイツ帝国都市ツンフト宗教改革温床であると考え、これを解散させるなどの強硬な政策実施したカール5世強硬な政策をみて徐々にカトリック諸侯も反皇帝転じ息子フェリペ(のちのスペイン王フェリペ2世)にドイツ・スペインの領土帝位継承させようとすると、ますます反発招いてカール5世孤立した

※この「シュマルカルデン戦争」の解説は、「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の解説の一部です。
「シュマルカルデン戦争」を含む「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事については、「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の概要を参照ください。

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