シュマルカルデン戦争
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シュマルカルデン戦争 | |||||||
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![]() ティツィアーノの『カール5世騎馬像』(1548年)、ミュールベルクの戦いでの勝利を祝って描かれた |
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衝突した勢力 | |||||||
![]() ![]() ![]() ほかボヘミア王冠領 |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ほかシュマルカルデン同盟のメンバー |
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指揮官 | |||||||
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シュマルカルデン戦争(シュマルカルデンせんそう、ドイツ語: Schmalkaldischer Krieg)は、神聖ローマ帝国内において1546年7月10日に勃発し1547年5月23日まで戦われた戦争である。カトリック教会を支持する神聖ローマ皇帝カール5世とプロテスタント勢力(シュマルカルデン同盟)の間で争われた。
背景
1531年に反ローマ・反皇帝・反カトリックを掲げた諸侯の同盟がシュマルカルデン同盟である。神聖ローマ帝国では当時対オスマン帝国の戦費を集めることに躍起になっており、帝国内情は放置されていた。

先立つドイツ農民戦争でも皇帝は鎮圧しようとせず、諸侯自らこれらを鎮圧した。これらの不満から同盟は結成され、反カトリックを掲げた宗教戦争となった。無論、皇帝が帝国の内情に疎いことや弱体化が明白であったからということもある。オスマン帝国やフランス王国のカトリック支援なども理由の一つといえる。
1542年にはフランスが対神聖ローマ帝国戦争(第五次イタリア戦争)を開始し、皇帝が手薄になった事で同盟は蜂起した。これらの問題に直面した神聖ローマ皇帝カール5世は1544年に対フランス戦争を中止し、内乱の鎮圧に着手した。これにより1546年に皇帝と同盟の間ではっきりとしたシュマルカルデン戦争が始まった。
結果
1547年、ミュールベルクの戦いでカール5世が勝利、同盟の指導者ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒとヘッセン方伯フィリップを捕えてカトリック優位のアウクスブルク仮信条協定を結んだが、1552年にザクセン選帝侯モーリッツ(ヨハン・フリードリヒの又従弟でフィリップの婿、カール5世に就いて選帝侯になった)の反乱でパッサウ条約を締結した。
同年に反対派のアルブレヒト・アルキビアデスが反乱(第二次辺境伯戦争)を起こし、モーリッツが戦死したが1554年に終結したのを機に翌1555年のアウクスブルクの和議が成立。これによりプロテスタントが帝国内で許されることになった。
主要人物
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ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒ1世
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ザクセン選帝侯モーリッツ
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皇帝軍の第3代アルバ公
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プファルツ選帝侯フリードリヒ3世
関連項目
- 信仰告白主義化
- ヴィッテンベルクの降伏
- 三十年戦争
外部リンク
- Schmalkaldischer Krieg at historicum.net
- The Schmalkaldic War – World History at KMLA
シュマルカルデン戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 03:54 UTC 版)
「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「シュマルカルデン戦争」の解説
詳細は「シュマルカルデン同盟」および「シュマルカルデン戦争」を参照 1526年、ルターに対してそれまで敵対的であった皇帝カール5世は、スレイマン1世率いるオスマン帝国の脅威が迫るなか、諸侯の協力が不可欠とみてシュパイアー帝国議会(第一次)を開催し、ルター派諸侯の領内での宗教改革を許した。ザクセン選帝侯はルターに領内の教会の組織化を命じ、1528年にはザクセンの各教区を州知事が任命する牧師に任せ、教会巡察制度を設けた。他の改革派諸侯もこれに準じ、ルター派教会が各地に広がっていった。巡礼、贖宥状、聖人崇拝、聖遺物崇敬、兄弟会などの習俗は廃止されたが、実際に領邦教会制度が始動したのはこの当時であった。 1529年、カール5世は再度シュパイアー帝国議会(第二次)を開催したが、カトリック諸侯の巻き返しによって宗教改革の自由は取り消され、ヴォルムス勅令が復活した。この措置に対し、改革派の諸侯と帝国都市が抗議(プロテスト)した。これが、「プロテスタント」の名の起こりである。 1530年、カール5世はアウクスブルク(現:バイエルン州)に帝国議会を招集し、両派の歩み寄りの努力がされたが、結局は決裂した。さらに同議会ではルター派側から穏健ルター派メランヒトンの手になる「アウクスブルク信仰告白」が提出されたが、ツヴィングリやシュトラースブルク(ストラスブール)などの改革派4都市が独自の「信仰」を提出し、プロテスタント内部の宗派分裂も明らかとなった。議会ではカトリックが優勢を占め、最終的決定は翌年の議会に持ち越されたものの、カール5世は1521年のヴォルムス勅令を厳しく執行するよう命じた。 これに対し、アウクスブルク帝国議会の直後にシュマルカルデン(ドイツ語版)(現:テューリンゲン州)に集まったプロテスタントの帝国諸侯・諸都市は皇帝とカトリック諸侯に対抗するための軍事同盟結成を協議し、翌1531年2月にはヘッセン方伯とザクセン選帝侯を盟主とするシュマルカルデン同盟が結成された。宗教戦争が一触即発に迫ったがカール5世は妥協し、1532年にニュルンベルクの宗教平和によって暫定的にプロテスタントの宗教的立場が保障された。この宗教平和を境に、プロテスタントは勢力を一気に拡大した。南ドイツのヴュルテンベルク公領では、プロテスタントであったために追放されていたヴュルテンベルク公ウルリヒが1534年に復位し、北ドイツでも同年ポメルン公、1539年にザクセン公とブランデンブルク選帝侯がプロテスタントに転じた。西南ドイツではルター派以外の改革派信仰が広がっていたが教義上の問題で妥協し、プロテスタントの政治勢力は統一性を持つようになった。カトリック諸侯の側もニュルンベルクで同盟を結成し、プロテスタントに対抗した。 カール5世は対外的な事情から情勢を静観していたが、フランスとの講和が成立すると一転し、ドイツ国内の問題に専心するようになった。1546年にはルターが死去し、ザクセン公が選帝侯の地位を条件に皇帝支持に転じた。それ以前にヘッセン方伯も重婚問題をカール5世につけこまれ、政治的に中立を守らざるをえなくなっていた。自身に有利な条件が整ったと感じたカール5世はシュマルカルデン戦争を起こしてシュマルカルデン同盟を壊滅させ、翌年のアウクスブルク帝国議会ではカトリックに有利な「仮信条協定」が帝国法として発布された。皇帝は西南ドイツの帝国都市のツンフトが宗教改革の温床であると考え、これを解散させるなどの強硬な政策を実施した。カール5世の強硬な政策をみて徐々にカトリック諸侯も反皇帝に転じ、息子フェリペ(のちのスペイン王フェリペ2世)にドイツ・スペインの領土と帝位を継承させようとすると、ますます反発を招いてカール5世は孤立した。
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