ヴュルテンベルク公とは? わかりやすく解説

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ヴュルテンベルク君主一覧

(ヴュルテンベルク公 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/06 15:53 UTC 版)

ヴュルテンベルク王家の居住の中心であるドイツのアルツハウゼンの宮殿の門に掲げられた王家の紋章
ヴュルテンベルク伯の紋章
1495年の公国昇格の際にエーバーハルト1世によって採用された紋章。

ヴュルテンベルク君主一覧では、1918年まで続いた伯から王までのドイツヴュルテンベルクの君主を列挙する。

1495年までのヴュルテンベルク伯

  • コンラート1世(1089年 – 1122年、推定)
  • コンラート2世(1110年 - 1143年、推定)
  • ルートヴィヒ1世(1143年 - 1158年)
  • ルートヴィヒ2世(1166年 - 1181年)
  • ハルトマン(1194年 - 1240年)
  • ルートヴィヒ3世(1194年 - 1226年)
  • ウルリヒ1世(1241年 - 1265年)
  • ウルリヒ2世(1265年 - 1279年)
  • エーバーハルト1世(1279年 - 1325年)
  • ウルリヒ3世(1325年 - 1344年)
  • エーバーハルト2世(1344年 - 1392年、1362年以降は単独統治)
    • ウルリヒ4世(共同統治:1344年 - 1362年)
  • エーバーハルト3世(1392年 - 1417年)
  • エーバーハルト4世(1417年 - 1419年)
  • ルートヴィヒ1世(1419年 - 1450年)
  • ウルリヒ5世(1419年 - 1442年) 最愛伯と呼ばれた。

ニュルティンゲン条約でヴュルテンベルク伯は、シュトゥットガルトに拠点を置くヴュルテンベルク=シュトゥットガルト系とウラッハに拠点を置くヴュルテンベルク=ウラッハ系に分かれた。

ヴュルテンベルク=シュトゥットガルト系

  • ウルリヒ5世(1442年 - 1480年)
  • エーバーハルト6世(1480年 - 1482年) 後のヴュルテンベルク公エーバーハルト2世

ヴュルテンベルク=ウラッハ系

  • ルートヴィヒ1世(1442年 - 1450年)
  • ルートヴィヒ2世(1450年 - 1457年)
  • エーバーハルト5世(1457年 - 1495年)

1482年のミュンジンゲン条約の結果、2つの系統はエーバーハルト5世の許で統一された。1495年にエーバーハルトはヴュルテンベルク公に昇爵した。

ヴュルテンベルク公(1495年から1803年まで)

名前 開始 終了 備考
エーバーハルト1世 1495年 1496年2月24日  
エーバーハルト2世 1496年2月24日 1498年6月11日  
ウルリヒ 1498年6月11日 1519年1月 退位
1519年から1534年までヴュルテンベルクはオーストリアに占領された。
ウルリヒ 1534年5月 1550年11月6日 復位
クリストフ 1550年11月6日 1568年12月28日  
ルートヴィヒ 1568年12月28日 1593年8月18日  
フリードリヒ1世 1593年8月18日 1608年1月29日  
ヨハン・フリードリヒ 1608年1月29日 1628年7月18日  
エーバーハルト3世 1628年7月18日 1674年7月2日  
ヴィルヘルム・ルートヴィヒ 1674年7月2日 1677年6月23日  
エーバーハルト・ルートヴィヒ 1677年6月23日 1733年10月31日  
カール・アレクサンダー 1733年10月31日 1737年3月12日  
カール・オイゲン 1737年3月12日 1793年10月24日  
ルートヴィヒ・オイゲン 1793年10月24日 1795年5月20日  
フリードリヒ・オイゲン 1795年5月20日 1797年12月23日  
フリードリヒ3世 1797年12月23日 1803年2月25日  

1803年にヴュルテンベルク公は選帝侯に昇格した。1806年に帝国は崩壊し、ヴュルテンベルク選帝侯は独立した国王となった。

ヴュルテンベルク選帝侯(1803年から1805年まで)

名前 開始 終了 備考
フリードリヒ3世 1803年2月25日 1806年1月1日  

ヴュルテンベルク国王(1806年から1918年まで)

名前 開始 終了 備考
フリードリヒ1世 1806年1月1日 1816年10月30日  
ヴィルヘルム1世 1816年10月30日 1864年6月25日  
カール1世 1864年6月25日 1891年10月6日 1871年ドイツ帝国の成立により、その下位に置かれた。
ヴィルヘルム2世 1891年10月6日 1918年11月29日

ヴュルテンベルク王国は1918年ドイツ革命で消滅した。

1921年ヴィルヘルム2世の死によって、サリカ法典下で男子の相続人が絶えたため、祖先のフリードリヒ2世オイゲンまで遡る必要に迫られた。ウラッハ公系は貴賎結婚により除外され、アルツハウゼン系が継承することになった。

フリードリヒ2世オイゲンの他の貴賎結婚による子孫に、イギリス国王ジョージ5世妃となったメアリー・オブ・テックがいる。

1918年以降のヴュルテンベルク家家長

ヴュルテンベルク家は現在でも続いているが、政治的活動は長い間行っていない。

名前 開始 終了 備考
ヴィルヘルム2世 1918年10月30日 1921年10月2日  
アルブレヒト 1921年10月2日 1939年10月31日  
フィリップ 1939年10月31日 1975年4月15日  
カール 1975年4月15日 2022年6月7日  
ヴィルヘルム英語版 2022年6月7日 現在  

関連項目


ヴュルテンベルク公

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/29 02:09 UTC 版)

選帝侯」の記事における「ヴュルテンベルク公」の解説

1803年に選帝権獲得。選帝権を得る以前から世襲旗手職(Erbbanneramt)という宮中に就いていた。

※この「ヴュルテンベルク公」の解説は、「選帝侯」の解説の一部です。
「ヴュルテンベルク公」を含む「選帝侯」の記事については、「選帝侯」の概要を参照ください。

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