ヴュルテンベルク公の追討戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 21:26 UTC 版)
「騎士戦争」の記事における「ヴュルテンベルク公の追討戦」の解説
1519年にドイツ南西部でヴュルテンベルク公国のウルリヒに対する討伐戦が行われた。ヴュルテンベルク公と地元のシュヴァーベン同盟の間には予てから対立があったのだが、ヴュルテンベルク公の妻は、ドイツ南部の有力諸侯であるバイエルン公の娘であると同時に神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の姪であり、皇帝に恩義のあるシュヴァーベン同盟はヴュルテンベルク公に手を出せなかった。しかし、1519年にマクシミリアン1世が死ぬと、同盟はヴュルテンベルク公に攻めかかった。 この討伐軍の主力を担ったのがジッキンゲンの軍だった。ここでジッキンゲンとフッテンは面識を持った。フッテンの親戚にあたる人物がヴュルテンベルク公に殺されており、フッテンにとってウルリヒは個人的な仇として討伐に加わっていた。もともと文学者としての道を歩んでいたフッテンは、ヴュルテンベルク公を告発する『ファラリス主義』(Phalarismus)という作品を著し、以前からこの機会を待っていたのだった。
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