ヴュルツブルク学派
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ヴントのライプツィヒの研究室で助手を務めていたオスヴァルト・キュルペ(1862年-1915年)が1896年、ヴュルツブルク大学に新たな研究室を創設した。キュルペはすぐに周囲に若い心理学者を集めたが、その中にはナルツィス・アハ(1871年-1946年)、カール・ビューラー(1879年-1963年)、エルンスト・デュール(1878年-1913年)、カール・マルベ(1869年-1953年)、ヘンリー・ジャクソン・ワット(1879年-1925年)らがいた。彼らは一個の集団として活動し、ヴントが課していた制約に真っ向から反対しつつ心理学実験に対する新たなアプローチを発展させた。ヴントは、より高次の思考過程に対して長い時間をかけて内省する「内観」(独:Selbstbeobachtung)という哲学的なスタイルと、ある時点の感情・感覚・心像(独:Vorstellung)に即座に気付く「内的感覚」(独:innere Wahrnehmung)とを区別した。前者が不可能であるとヴントは述べて、より高次の精神機能は長い時間をかけた内観によってではなく人文的に「民族心理学」(独:Völkerpsychologie)を通じてのみ研究できると説いた。後者だけが実験の適切な主題となる。 対照的に、ヴュルツブルク学派は、実験の主題が複雑な刺激として(例えば、ニーチェのアフォリズムや論理的問題)現れるように実験をデザインし、時間が経過して過程が進むと(例えばアフォリズムを解釈したり問題を解いたりすると)、経過時間の間に自身の意識を通過したことを全て回顧して実験者たちに報告する。この過程で、ヴュルツブルク学派は「意識態」(独: Bewußtseinslagen)、「」(独: Bewußtheiten)、「考想」(独: Gedanken)といった、(ヴントの感情・感覚・心像を超えた)意識の新しい要素を数多く発見したと主張した。英語圏では、これらはしばしばまとめて「無心像思考」(英: imageless thoughts)と呼ばれ、ヴントとヴュルツブルク学派の論争も「無心像思考論争」(英: imageless thought controversy)と呼ばれた。 ヴントはヴュルツブルク学派の研究を「見かけだけの」実験と呼び、彼らを辛辣に批判した。ヴントの最も著名なイギリス人の弟子でコーネル大学に勤めていたエドワード・ブラッドフォード・ティチェナーはこの論争に干渉して、ヴュルツブルク学派の無心像思考を感情・感覚・心像に昇華できるようなより高次の内観的研究を行うと主張した。このように、彼は逆説的に、ヴントの見方を支持するためにヴントが賛成しない方法を使ったのである。 無心像思考論争はしばしば、実験心理学においてあらゆる内観的方法の正統性を害するうえで、そして最終的にはアメリカ心理学に行動主義革命をもたらすうえで、役に立ったとされてきた。しかしそれは自身の延命されてきた正統性を失っただけではない。ハーバート・アレクサンダー・サイモン(1981年)がヴュルツブルク学派心理学者の研究を、特にオットー・ゼルツ(1881年-1943年)の研究を引いて、自身の著名な問題―コンピュータ・アルゴリズム(例えばLogic TheoristとGeneral Problem Solver)の解決やプロトコル解析におけるシンキング・アウト・ラウド法―を進めるうえでの霊感元としている。さらに、カール・ポパーがビューラーおよびゼルツの下で心理学を学び、彼らの名を出しはしないものの彼らからの影響を自身の科学哲学に持ち込んだとみられている。
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