ヨハン・エルンスト公
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/10 04:48 UTC 版)
「ザクセン=コーブルク」の記事における「ヨハン・エルンスト公」の解説
テューリンゲンのエルネスティン家領は1547年のシュマルカルデン戦争での敗北により大幅に削られてしまった。ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒ1世はミュールベルクの戦いで敗れて捕縛され、選帝侯位を剥奪された上に帝国アハト刑に処されたが、1552年のパッサウの和約でザクセン公の肩書とテューリンゲンの領地だけは確保できた。ザクセン=コーブルク公ヨハン・エルンストはコーブルクの所領を安堵されたが、ヨハン・フリードリヒ1世の処遇について一切手出しを許されなかった。ヨハン・エルンストは新たな居城としてエーレンブルク城を建設したが、ここには後のザクセン=コーブルク公も住み、さらに拡張が行われた。ヨハン・エルンストは1553年に子女なく亡くなり、釈放されたヨハン・フリードリヒ1世がザクセン公となったが、翌1554年に亡くなった。
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