ヨハン・カジミール
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ヨハン・カジミール(Johann Kasimir)は、ドイツ語圏の諸侯の名。
- 1 ヨハン・カジミールとは
- 2 ヨハン・カジミールの概要
ヨハン・カジミール
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「ザクセン=コーブルク」の記事における「ヨハン・カジミール」の解説
マクシミリアン2世は、1572年のエアフルトの分割によりヨハン・ヴィルヘルムが手にした領地をヨハン・フリードリヒ2世の2人の息子との間で再分割させた。ヨハン・ヴィルヘルムはイェーナ、アルテンブルク、ザールフェルトなどを含むザクセン=ヴァイマルの領主となり、ヨハン・フリードリヒ2世の子息ヨハン・カジミールとヨハン・エルンストにはテューリンゲン南部のコーブルクと西部のアイゼナハが与えられた。ヨハン・カジミールとヨハン・エルンストは未成年であったためザクセン選帝侯アウグストが後見人となり、その監督下で教育を施すこととなった。2代続けて帝国アハト刑となる反逆行為を働いたにもかかわらず、ヨハン・フリードリヒ1世の血族に領地が安堵されたのは、シュマルカルデン戦争で神聖ローマ皇帝側についた功でザクセン選帝侯位を得たアルベルティン家の勢力拡大を恐れたためである。実際、神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世は1552年にザクセン選帝侯モーリッツの反抗によりパッサウの和約でルター派の容認を余儀なくされている。エルネスティン家の子弟に領地を継がせることで、アルベルティン家の領地拡大を防いだのである。 1586年にザクセン選帝侯アウグストが亡くなると、ヨハン・カジミールとその弟ヨハン・エルンストが領主となり共同統治を行った。1596年にはヨハン・エルンストがザクセン=アイゼナハの領地を得て独立し、以降コーブルクはヨハン・カジールの単独統治となった。その領土は、ラウター、ローダッハおよびゲシュトゥングスハウゼンからなるコーブルク郡と、ヒルトブルクハウゼン、レムヒルト、アイスフェルト、シャルカウ、ゾンネベルク、ノイシュタット、ノイハウス、メンヒェレーデン、ゾンネフェルトおよびテンネベルクからなるヘルトブルク郡であった。ヨハン・カジミールはコーブルクの統治基盤を整備したが、とりわけ死後も永く存続し、多くの政治的混乱をも乗り越えた官僚機構を確立したことは大きな業績といえる。1633年、ヨハン・カジミールは子女なく亡くなり、ザクセン=コーブルクをヨハン・エルンストが継承したことでザクセン=コーブルクとザクセン=アイゼナハは合同してザクセン=コーブルク=アイゼナハ公国となった。しかし、ヨハン・エルンストにも子女がなく、領土再編は不可避であった。また、三十年戦争の影響でコーブルクを何度も軍隊が通過したため国力は大いに疲弊し、人口は55,000人から半分以下の22,000人にまで減少してしまった。
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